キリストの愛にとどまる

「キリストの愛にとどまる」  五月第五主日礼拝 宣教要旨  2016年5月29日

  ヨハネによる福音書 15章9〜11節       牧師 河野信一郎

 今回の聖書箇所であるヨハネによる福音書15章9節と10節には、主イエス・キリストにあってその弟子たち・クリスチャンに結んでほしい、結ぶべき実が何であるかが明記されています。その神に期待されているわたしたちが結ぶべき実は、「愛」です。

 9節で、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」と言っておられます。主イエスは、わたしたちを愛してくださっていますが、父なる神から御子イエスに注がれた愛で愛してくださっています。つまり、主は父から受けた愛をモデル・模範にして、父なる神と全く同じようにわたしたちを愛してくださっているということです。ですから、わたしたちも主イエスの愛を模範に「愛」という実を結んでゆくことが促されています。

 主イエスが愛されたように愛するために第一に大切なことは、「わたしの愛にとどまりなさい」という主の招きの言葉に聴き従うことです。しかし、「キリストの愛のうちにとどまる」とは、一体全体どういうことなのでしょうか。それは「キリストの愛に生きる」ということ? 「キリストの愛を力として日々受けて生きる」ということでしょうか?どう思われますか?

 主は10節で、「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とおっしゃいます。つまり、「キリストの愛にとどまる」とは、「キリストの掟を守って生きる」ということです。

 主はヨハネ14章15節で、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言われますから、「キリストの愛にとどまる」とは「キリストを愛する」ということであり、「神を愛する」ということです。御子を通して神に愛されているわたしたちは、主イエスにつながる中で、主から愛と助けを受けて父なる神を愛することができるということなのです。

 また、ヨハネ14章23〜24節で、主イエスは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」と言っておられます。ですから、「キリストの掟」とは「キリストの言葉」であり、「神の言葉」であることが分かると思います。

 旧約聖書には、「心と精神と思いと力を尽くして主なるあなたの神を愛しなさい」という第一の掟があり、「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という第二の掟が記されています。この二つの掟は非常に重要ですが、主イエスが10節で言っている「わたしの掟」とは、ヨハネ13章34節の「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」との言葉です。

 ですから、キリストの愛にとどまるとは、キリストの愛をもって弟子たちが互いに愛し合うということ。主が愛して下さったように愛する、愛し合うということ。この実を結ぶためには、ぶどうの木、愛の木である主イエスにつながる他はありません。キリストにしっかりつながり、つながり続けることで、キリストを通してわたしたちは神の愛を受け、その愛を受けて初めて神とキリストを愛し、隣人を愛し、教会という信仰共同体の中で互いに愛し合うこと、つながり合うことができます。主がこのことを話されたのは、11節にあるように「キリストの喜びがわたしたちの内に常にあり、わたしたちの喜びが満たされる」ためなのです。