「主の言葉に生き、祈る者」 五月第四主日礼拝 宣教要旨 2016年5月22日
ヨハネによる福音書 15章7〜8節 牧師 河野信一郎
8日の礼拝での3名の信仰告白と証し、そして今日の2名の証しは「実を結ぶ」ことです。この証しを通して神が誉め讃えられ、崇められます。これは実に恵みであり、教会にとって幸いなことです。ヨハネ15章8節で、主イエスは「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」と言っておられます。この言葉に主の弟子としてわたしたちが実を結んでゆく目的と働きの結果が記されていますが、すべては神が栄光をお受けになる、誉め讃えられるためであるということが分かります。
わたしたちが頑張って何か素晴らしいことをしたという証しが重要ではなく、わたしたちの只中にあって主なる神とキリストとご聖霊がどんなに素晴らしいことを成してくださったかを証しすることで神が誉め讃えられ、崇められる。それが神の栄光を現すということです。
ヨハネによる福音書は、「主イエスはご自身の十字架の死と復活によって父なる神のご栄光を現した」と記します。ヨハネ17章4節で主はご自身の死を目前に、このように神に祈っています。「わたしは行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と。主はまだ十字架に架けられる前でしたが、十字架という苦い杯を受けること、御心に沿って生き抜くこと、死に至るまで御旨に従順に生き・仕えること、命をささげることで神のわたしたち人間に対する愛・慈しみを証しすることを心に強く抱いていたことが分かります。そして主イエスはそのように生き抜かれたのです。そのように最後の最後まで生き抜けるように「父よ、わたしを助け、力を与えてください」と祈られたのです。
15章8節にある主イエスの弟子たちへの言葉は、「わたしはもう少しすると十字架に付けられて死ぬが、それでもわたしを信じ続け、つながり続けて忠実に生き、証しという実を結び、神の栄光を現し続けなさいと励ましているのです。「わたしが再び戻って来るまで、わたしの代理として忠実に礼拝をささげ、証しして父の栄光を現し続けなさい」とわたしたちに地上での使命を与え、その使命に生きるために必要なすべてを与えると約束されるのです。
具体的にどのような実をむすぶべきなのかと心配する必要も、頑張らねばと自分にプレッシャーをかける必要もありません。ただ、主イエスを信じて、主にしっかりつながり続ければ良いのです。ぶどうの木・主イエスにしっかりとつながることによって、枝であるわたしたちは主を通して必要な栄養素、水分、力が神から与えられます。ですから、何も心配しないで、主イエスにつながり続ければ良いのです。その招きが4節と5節にされています。
主イエスにつながるということは、もう独りではないということです。主がいつも絶え間なくすぐ傍にいてくださるということです。愛する主イエスがいつもいてくださるということを想像してみてください。主を間近に感じたら、わたしたちの考え方、物事の捉え方、話し方、行動のすべてが変えられてゆくはずです。また主イエスが何を考え、何をしたいか、何をわたしたちに求めておられるかが分かって来るはずです。変わらないとおかしいのです。
多忙な日々の中でわたしたちに大切なのは、いつも主イエスを近くに感じること、聖書のみ言葉に日々親しみ、主の言葉を心に蓄えてゆくことです。主の言葉とは「主の御心」です。この御心に沿ってすべてを判断し、祈りつつ行動するならば、その祈りは聞かれ、実を結ぶことができ、わたしたちが喜びに満たされるだけでなく、神が栄光をお受けになられます。