神の大いなる招き

「神の大いなる招き」 命どぅ宝の日」「父の日」 宣教要旨

「2016/06/19   副牧師 石垣茂夫

*招詞 ペトロの手紙Ⅱ3章8~10節a(p439)

*聖書 ルカによる福音書14章15~24節(p137) *応答賛美 新生86「輝く日を仰ぐとき」

わたしたちは祈祷会と朝の教会学校で、4月5月の二か月間は「ヨハネの黙示録」がテキストでした。その時「黙示録」から教えられましたことは、わたしたちの、この地上の世界が、このままの有様で、いつまでも続くのではなく、始まりがあったように、終わりがあるということでした。その終わりのしるしとして、「キリストの再臨」があると、黙示録の最後に書かれており、クリスチャンは、この終りの日を、おびえながら待つのではなく、神さまが判断する将来の時を、喜びをもって、信じて待つ人たちだ、ということを教えられました。しかしその再臨は何時なのか、どんな有様なのかは隠されていました。

「招詞」は、ペトロの第二の手紙3章の言葉です。ここにも「キリスト再臨」について書かれています。

『主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。 3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。 3:10 主の日は盗人のようにやって来ます。』  ここになぜ、「主イエスの再臨は、遅れている」と認める言葉が書かれているのでしょうか。

聖書が書かれた時代には、多くの人が「主の日は、すぐに来る」と待ち焦がれていたのですが、訪れることはありませんでした。それでは、2000年後の今日まで、キリストの再臨を待っている現在のわたしたちは、この事実をどう受け止めて行けばよいのでしょうか。

「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」この言葉は、主イエスの再臨や神の国の到来は、わたしたちの思い描くことのできる姿で、到底表わすことは出来ないと言いたいのです。「わたしたちには、思い描けないこと」。これが、「再臨が遅いのではないか」と感じてしまうわたしたちへの、一つの答えです。

もう一つの答えがあります。「あなた方のすべての人が救われるために、父なる神は忍耐して待って居られる。」。「神の忍耐」、これがもう一つの答えです。「

聖書朗読では、ルカ14章の、「盛大な晩餐会」と呼ばれる箇所を読んでいただきました。ここに、神さまの熱心と忍耐を見たいと思います。神さまはすっかり晩餐会の用意をして「もう用意ができましたから、どうぞおいでください」と、僕を送って客人となる人たちに伝えました。ところがみなが理由を付けて次々と断り始めたのでした。断る理由としては、正当なものでした。しかし、僕のこの報告を聞いた主人はたいへん怒ったのでした。何故怒ったのか。それは招かれた人たちは、みな互いに大事に思ってきた人たちだったからです。ユダヤの作法では、宴会の招待はいきなり招くということは無く、最初に都合を確認するそうです。みな正当な理由なのですが、分かっていたのに、自分のことを優先させて断ってきたからです。主人の願いは、『この家をいっぱいにしてくれ。』ということです。わたしたちは、「なんとしてもこの食卓をいっぱいにしたい」、「人びとを招き続けたい」という、この神さまの熱心に、この朝気付かされましょう。

その声を聞いた僕となって、伝道に遣わされて参りましょう。

そのためにも、わたしたち自身が、もう一度神さまの招きを受け入れましょう。