私たちの内にとどまる神

「私たちの内にとどまる神」十月第二主日礼拝 宣教要旨 2016年10月9日

ヨハネの手紙一 4章12〜16節       牧師 河野信一郎

過去8年間、当教会を会場に月に一度練習を熱心に重ねておられる西南グリー東京が出演される西南シャントゥールの演奏会に招待されて行ってきましたが、わたしはそこで生まれて初めての体験をしました。長い話を短くしますと、男声合唱団が賛美歌を歌うとステージ頭上に掲げられた西南学院大学のグリーンの校旗が揺れるのですが、それ以外の日本の歌謡曲や組曲を歌っても校旗が揺れないのです。賛美歌を歌うと揺れて、他の曲目を歌うと揺れない。これは怪奇現象ではなく、主なる神が大いに喜ばれた証であって、聖霊の風の働きであると強く感じ、目には見えないけれども神は本当に生きて共におられると実感したのです。

「いまだかつて神を見たものはいません」と12節にありますが、ヨハネは「神はおられない」と言っているのではなく、「神は見えない」と言っているわけです。なぜ見えないのでしょうか。私たちが罪人であるからでしょうか。不信仰だからでしょうか。私たちの肉眼では見えないほど神は大きな存在であるからでしょうか。あるいは、神を見るために必要なことがあって、それを私たちが持ち得ていないからかもしれません。あなたには神が見えますか。

13節に「神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、私たちが神の内にとどまり、神も私たちの内にとどまってくださることが分かります」とありますが、神を見るために必要なのは、神の霊を神から受けるということです。神の霊が私たちの内にとどまることによって、聖霊が私たちに神を見せてくださるのです。では、聖霊を受けるために私たちに必要なことは何でしょうか。

それは、イエス・キリストを神から遣わされた、私たちの罪を贖う償いのささげものとして十字架に死なれ、三日目に復活された救い主と信じることから始まります。私たちは、神の愛に出会うまで、神を認めずに自分本位の生き方をしてきた罪人です。けれども、そのような私たちを神は愛してくださり、罪と苦しみ、闇と絶望の中にある私たちを救い出すために御子イエスを地上にお遣わしになり、主イエスは罪の代価を私たちに代わって支払ってくださいました。罪の代価は死ですが、私たちの身代わりとなって主イエスは十字架に死んでくださいました。「ここに(私たちに対する神の)愛があります」(4章10節)とヨハネは神の愛を宣言しています。この神の愛を受け取るためには、まず自身が罪人であることを認め、悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じ、キリストの十字架の死と復活は私の救いのためであったと信じてゆくことから始まります。神の愛であり、赦しのしるしであるイエス・キリストを信じる者に神はご自分の霊を分け与えてくださいます。

この神の霊・聖霊が私たち一人一人の内に宿り、心を造り変え、柔らかく優しい従順な心にしてくださるので、いつも神の愛とご臨在を近くに感じ、神に愛されて生かされていることを喜び、感謝しつつ生活することができるようになります。

私たちは、主イエスを信じ従うまで、自分の心を自分のためだけに使っていましたから、疲れやストレスが溜まり、悩みや不安、苦しみや悲しみ、痛みで心は弱り果て、希望を抱く事ができなくなっていました。しかし、そのような私たちに神がイエス・キリストを派遣し、近寄ってくださいました。この救い主を心に受け入れる時、明け渡す時、神の霊が惜しみなく分け与えられ、この聖霊によって心が全く新しくされ、今まで当然のことと思っていた事柄を全て神からの恵み・憐れみであると感動し、心から感謝できるようにされます。

私たちが日常生活の中で困難に思える筆頭は、隣人を愛すること、関心を寄せる事です。その隣人の中には家族や友人知人、また職場や学校、社会の中に生きている人たちですが、それらの人々を愛してゆくことは大変です。教会の中でも、互いに愛し合うことが困難に思える時があると思います。その愛の足りなさを、心に空いているたくさんの穴を全て埋めてくださり、覆ってくださり、私たちを愛する人へとしてくださるのが、私たちの目には見えない聖霊です。この聖霊が私たちを助けて2つのことを為させてくださいます。

一つ目は、目に見えない神を、主イエス・キリストをまだ信じていない人々に見せることです。どのようにでしょうか。12節に答えがあります。「私たちクリスチャンが互いに愛し合うならば」とありますが、私たちが互いに愛し合うことによって神は生きておられ、愛のお方であることが人々に判るとヨハネは言っています。

主イエスも弟子たちにこのようにお命じになられました。ヨハネ福音書13章34〜35節で「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」と。私たち神の愛を受け取り、主イエスを救い主と信じ従う者たちが互いに愛し合う時に、それが人々への大きな証しとなって目に見えない神を人々が見るようになるというのです。

二つ目は、14節から15節に記されていることです。そこには「わたしたちはまた御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります」とあります。クリスチャンがそれぞれの生活の中で神の愛とキリストを救い主と公に証しし、告白してゆく中で人々は目に見えない神を見ることができると示されています。これが私たちの使命、教会の使命であります。

16節に「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。この愛にとどまる人は神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださいます」とあります。私たちを愛してくださる神とキリストの内に生きる時、またその愛を求めて受けてゆく時、私たちは神の愛と霊に満たされ、力づけられて、神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合う者へと、つまり主イエス・キリストに似た者へと変えられてゆき、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝して主の証し人として生かされてゆきます。神の愛の内にとどまり、主イエスにつながり続けましょう。そして主の喜ばれる実を結んでゆきましょう。