「恐れや不安を締め出す神の愛」 十月第四主日礼拝 宣教要旨 2016年10月23日
ヨハネの手紙一 4章17〜21節 牧師 河野信一郎
この度、神の憐れみとお導きの中で、50回目の誕生日を迎える恵みに与りました。50歳を越えると身体のあちこちに弱きを覚えることがあり、今後のことを不安に感じたり、恐れを持つようになります。たぶん、恐れや不安を持たない人を見つけることは困難であると思いますが、恐れや不安は多岐にわたり、特に将来に向けて不安や恐れを抱きます。自分自身のことだけでなく、大切な家族の介護や将来のこともあります。心配事が次々と起ってきます。それ以外にも不満や怒り、ストレスを抱きます。心が揺さぶられ、右往左往し、平安がありません。また、心が傷つき、弱ることもあります。心が恐れや不安、不満や怒りで満たされるとなかなか前向きになれない。勇気が持てない。自信がなくなります。最悪の場合、自分の救い、信仰に確信が持てなくなり、「このままでは神の御前に立つ事が出来ない、天国へと招き入れられる確信が持てない」と苦しみ悶え、希望が持てなくなってしまう。そして自分は信仰者としてダメだと判断して、まず教会から離れ、そして信仰からも離れてしまう。
なんと今から約1950年前、使徒ヨハネが手紙を書き送った諸教会のクリスチャンたちにもそういう恐れや不安、悩みや苦しみがありました。偽預言者に惑わされ、兄弟姉妹たちの間に亀裂が生じてグループができ、神の家族であるにも関わらずに受け入れられず、愛せず、信頼できなくなり、相手に対する怒りや不満で心が満たされる人も出てきました。そういう中で、愛のない教会に嫌気がさしたり、兄弟姉妹を愛せない自分は教会にふさわしくないと思い悩んで教会から離れてゆくクリスチャンたちも出てきました。このままでは神の御前に立つ時に申し開きができない、故に御国に入る確信が持てないと思うようになりました。
ですからヨハネは、そのような恐れや不安、痛みや苦悩の内から兄弟姉妹たちを解放し、神に救われている確認を持たせるために手紙の中でくり返し、「神はあなたを愛している。神は愛です。この神にとどまる人は神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださる」と言って励ますのです。主イエスは「わたしにつながっていなさい」と励ますのです。もしいまあなたの心の内に恐れや不安があるならば、「私たちに対する神の愛を知り、信じること」(16節)が必要となります。
17節に「こうして、愛が私たちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます」とありますが、「こうして」というのは手紙の中でくり返し伝えられてきた3つの福音です。
つまり、1)神は私たち一人一人を愛してくださり、イエス・キリストを通して愛し通してくださるということ。
2)救い主イエスは、私たちの罪を十字架上で贖ってくださり、私たちの罪は赦されているということ。
3)目には見えないけれども神の霊・聖霊が私たち一人一人といつも共にいて守り導き、主の証し人として生きる力を与えてくださるということ。
この父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊の愛を知り、信じ、受け取ってゆく時に心は神の愛で満たされるとヨハネは伝えます。「この神の愛にとどまる人は神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださる。だからあなたは大丈夫、確信をもって裁きの日を迎えることができる」とヨハネは励ますのです。
17節の後半に、「この世で私たちもイエスのようであるから」とありますが、主イエスは十字架の死に至るまで父なる神を愛し、愛を信じ、従順に生きられました。そこには神の愛と励まし、聖霊の助けがいつもあったわけです。この主イエスは、私たちがどのように神の愛に応えて生きるべきかを示してくださる完全な模範です。この救い主に聞き従ってゆく時に、キリストに似た者へと私たちは変えられてゆき、確信が与えられ、勝利と祝福、永遠の命が与えられてゆきます。
18節に「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」とありますが、「愛には恐れがない」という真意は何でしょうか。ここで用いられている「愛」というギリシャ語は、神の自己犠牲的で、他者中心的の愛を示す「アガペー」という言葉が用いられています。また、16節には「神は愛です」とあります。つまり、「愛には恐れがない」というのは、神が私たちを愛してくださる時、ご自分も傷つくことを知りつつも、愛し通してくださることを恐れずに、迷うことなく、ためらうこともなく愛してくださるということではないかと示されます。
神には恐れがない。神の愛に打ち勝つものは一切ないということ。だから、この神の愛をそのまま受け取りなさいという励ましであると強く感じます。心の中にあるすべての恐れ、不安、怒り、不満、迷い、苦しみ、痛みを神に明け渡し、神の愛で満たされなさい。そうすれば、神の完全な愛が恐れや不安をすべてあなたがたの心から締め出してくださいますと言って、すべてを委ねることを励ましてくださいます。神の愛に勝るものは何一つないこと、この一事を心にとめ、神の愛を受け取りましょう。
最後に心に留めたい事が17節にあります。ここに「(神の)愛が私たちの内に全うされている」とあります。もう一つ、12節後半に「神の愛が私たちの内で全うされている」とあります。この12節と17節の言葉はとても似ていますが、大きな違いに気付かれるでしょうか。神の愛が「私たちの内に」と17節ではあり、12節では「私たちの内で」となっています。
17節で「神の愛が私たちの内に」とヨハネが言う時、教会という信仰共同体の中に神の愛が豊かに注がれてゆく中で、主にある兄弟姉妹たちは一つとされてゆき、キリストのからだとして完成してゆくと言われています。私たちの知恵や努力、力だけでは教会は建て上げられないということ。神の愛が絶対的に必要不可欠であるということです。
しかし12節で「神の愛が私たちの内で」とヨハネが言う時、私たちクリスチャン各自の心が重要になってきます。つまり、神の愛を主イエス・キリストを通して受けた者たちは、その神の愛と赦しへの応答として、神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合ってゆく中で、教会の中だけに限らず、生活の中、社会の中で神の愛が全うされ、完成してゆくと言うのです。
神に愛され、生かされ、永遠の命が約束されていることを喜び、感謝してゆく中で、神を愛し、神が愛しておられる隣人を愛してゆく時、そして私たちが互いに愛し合う時、神の愛がこの世に、世界中に明らかにされ、完成してゆくということが言われています。
「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」(19節)。「神を愛する人は、兄弟姉妹をも愛すべきです。これが神から受けた掟です」(21節)。
主イエスを通して神から受けた「互いに愛し合いなさい」という掟を守る人は、神に更に祝され、愛で更に満たされ、確信と平安と希望をもって主の僕として生きることを喜びます。神の愛には恐れがない。完全な愛は恐れや不安を締め出す。この神の愛が与えられていることを感謝して、主の証し人として生かされてゆきましょう。御国に召されるその日まで。主イエスが私たちといつも共にいてくださり、進むべき道を教えてくださいます。