わたしたちの間に宿られる光

「わたしたちの間に宿られる光」 十二月第二主日礼拝     宣教要旨 2016年12月11日

ヨハネによる福音書 1章10〜14節       牧師 河野信一郎

暗闇を照らす光としてこの世に来てくださった救い主イエス・キリストについてヨハネによる福音書から聴いています。天地万物が創造される前から、「時」というものが世界で始まる遥か前から神と共にいまし、万物すべてを造られた御子なるキリストがおられたと1章1節から3節に記されています。この御子が私たちを照らす真の光であるとヨハネは告白し、宣言し、この救い主を信じなさいと招くのです。

9節に「その光はまことの光で、世に来て、すべての人を照らすのである」と記されています。そして10節と11節に「言(キリスト)は世にあった。世はキリストによって成ったが、世はキリストを認めなかった。キリストは自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。ご自分が全てを造り、ご自分の民の所へ来たにも関わらず、この世と民は主イエスをメシア、救い主と認めず、歓迎しなかったというのです。自分の家に帰って来たのに家族に無視され、「お帰りなさい」も言ってもらえない寂しさ、やり切れなさをイエスはお感じになられたでしょうか。わたしであれば、「何だその態度は」と怒りの言葉を発するでしょう。

この日本もキリストによって造られ、この国にもキリストの福音が宣べ伝えられていますが、なかなか人々はイエス・キリストを認めず、受け入れず、信じようとしませんが、どうしてでしょうか。理由はいくつもありますが、その根源は一つです。それは罪を犯し、罪の中に生きているからです。そしてその罪は私たちの心に偏見を植え付けます。例えば、「キリスト教は外国の宗教だから自分たち日本人にが合わない」という理解です。「でもクリスマスは楽しめるから便乗して楽しみ、酒を飲んだり、パーティーしよう」という考えしか持たなくなります。

そのように神から離れてしまうと、霊的に神から切り離された状態になりますので、霊的に盲目になります。そして神の光よりも人工的な光、科学技術で作られた光を好むようになります。そして自分の都合の良い時、必要な時にだけ光をつけ、そうでない時は光を消してしまいます。「そうでない時」とは、他の人に見られたくない行為をする時という意味です。いつも神の光に照らされていることが罪ゆえに嫌なのです。干渉されたくない。プライバシーが欲しいという思いが先立ちます。

ヨハネは、3章19節と20節で、主イエスのこのような言葉を紹介しています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇のほうを好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ないからである。」

ユダヤ人たちは、世の光としてこの世に神から遣わされたメシア、救い主イエスを受け入れる事ができず、反対に十字架に架けて殺してしまいました。しかし、暗闇の中にあっても、キリストを拒絶する人々の只中にあっても、イエス・キリストを世の光として信じ、受け入れた人たちが存在し、彼らが救いを受け、信仰を与えられたということが12節にはっきりと記されています。この事実は、今の時代を生きる私たちに慰め、励ましとなり、暗闇と思える時代にあってもキリスト・イエスにつながり続ける勇気・力となります。

「しかし、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」と12節と13節に記されています。闇の中で、イエス・キリストという光を受け入れ、信じる人にキリストは神の子となる資格を恵みのうちに与えられるということで、この恵みはすべての人に今も与えられていて、受けることができます。

「血によってではなく」というのは、先祖や親たちの社会的身分や地位や功績によるものではなくという意味です。「肉の欲によってではなく」とは、私たちが願望・切望したからではなくという意味です。「人の欲によってでもなく」とは、私たちの意志によって神の子となったのではなく」という意味です。つまり、すべて神と主イエスの深い憐れみ・恵みによって私たちは救われ、キリストにつながり、霊の目が開かれ、光の中で神の栄光を見る事ができるようになったという宣言がここでされているのです。

私たちに救われる資格があったからとか、救いを求めたからとか、自分の意志をもって受けたという次元でなく、まず神がその独り子をお与えになったほどにこの世を、私たちを愛してくださった。その愛を伝えるためにキリストは肉体をとって私たちの間に宿ってくださった。この恵みと真理で満たされているキリストに、私たちは神の愛と真実さと栄光を見ることができるのです。

4節に「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。」と宣言されているこのキリストを信じましょう。もし今、あなたの心に中に不安、恐れ、怒り、憎しみ、悲しみ、空しさなどがあるならば、あなたは暗闇の中を歩んでいます。もし心の中に偏見、差別、不信感があるならば、あなたは闇の中にいます。もし今、何のために生きているか、何処に向かって歩んでいるのか分からないと不安であれば、あなたは闇の中をさまよっています。もし、自分に対して嘘をつき、正直に生きていないと感じ、そういう自分が許せないとか、自分を利用したり、裏切る人を許せないと心に思っているならば、あなたは暗闇の中にいます。

しかし、そのようなあなたを、私たちを憐れみ、私たちを暗闇の中から救い出すために救い主イエスが私たちの傍に来てくださいました。私たちを光で照らし、その光・愛でつつみ込み、弱り果てた心を慰め、癒し、励まし、勇気と希望を与えてくださいます。

まず、心を神に向けて開き、イエス・キリストという真の光を受け入れ、信じましょう。信じる時、私たちの霊の目は神の愛の力によって開かれ、新しい発見や感動で心が満たされます。いろいろ不安なことがあっても、いつも主が共にいてすべてを善きに導いてくださいますから、すべてお任せして、主に従ってゆきましょう。