宣教 「主よ、祈りを教えてください」 主の祈り-2-
聖書 ルカによる福音書11:1~13(新約新共同訳p127)
主イエスの祈る姿を幾度となく見てきた弟子たちは、この日、自分たちの方から、「わたしたちも祈りたいのです。主よ、祈りを教えてください。」と願った。
今朝は「主の祈り」の本文ではなく、初めにその後語られた5節以下の例話を取り上げたい。
11:5~6『あなたがたのうちの誰かが、夜中になってから近くの家に行き「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところ立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」と頼んだ。
夜中にパンをくださいと執拗に願う、この不思議な光景の背後には、砂漠の気候であるパレスチナの風習があった。「パンを三つ」というのは、その旅人の次の一日分の食事であり、明日その人が旅立つときに持たせる分が含まれていた。ところがうっかりと、その用意をしていなかった、家の主人は、その人に何もしてあげられないという惨めな思いになった。そこで、もう、なりふりかまわず、人が寝静まった夜中に、親しい友の家に行って戸をたたき、パンを貸してほしいと願った。
主イエスはここまで話すと「そこで私は言っておく・・・」と話し始めた。
『求めなさい・・・そうすれば与えられる。探しなさい・・・そうすれば見つかる。門をたたきなさい・・・開けてもらえる』。どうだろう、この三つはみな願う事ばかりなのである。
ここで改めて「主の祈り」はどういう言葉であったろうか。
「御国がきますように・・・」、「日毎に必要な食べ物を与えてください・・・」、これらは願いである。「罪を赦して下さい・・・」、これも願いである。「主の祈り」は、ああしてくださいこうしてくださいと畳み掛けるように願う祈りなのである。
我々も、自分の祈りの言葉を思い起こしてみて、願いばかり多かったと思うことがしばしばあるのではないか。ある方はこのように言っていた。
「わたしたちが、神に願う祈りを遠慮をするならば、やがて祈りを忘れて行くようになる。」
「神に願うことを忘れると、自分で何とかなるとさえ思ってしまう。」
「そうしていると、やがて神がおられることを忘れてしまう。」こう言っておられた。
今朝の聖書箇所の最後の言葉。「11:13 まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」
神さまが用意して、わたしたちにくださる良いもの、それは聖霊だと言われる。この唐突とも覚える最後の言葉には、何のことだろうと不思議な思いにさせられる。
果たして、わたしたちは祈りで様々なものを神に求めるが、心から聖霊を求めて来ただろうか。この言葉が唐突だと思った背景には、わたしたちは心から聖霊を求めて来なかったということがあるのではないか。「聖霊が与えられる」とはどんなことだろう。それは「神がわたしたちと共に、今、ここにいてくださる」、「インマヌエル」ということではないか。主イエスによってこの事が与えられたではなかったか。『聖霊を与えてください』と、わたしたちは、しつこく願って来たであろうか。「聖霊を与えられる」とは、「神がすぐそばにおられる」という最高のプレゼントである。今、子どものように『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。』このように祈っていこう。わたしたちの新しい一週の歩みを、「主の祈り」を祈りつつ辿らせていただこう。