十字架の道を歩まれる主のために

「十字架の道を歩まれる主のために」 三月第一主日礼拝     宣教要旨 2017年3月5日

ヨハネによる福音書 12章1〜8節       牧師 河野信一郎

今年も受難節(レント)に入りました。主イエスの十字架のみ苦しみを覚えてゆくので、私たちはどのような思いの中で過ごして行くことが神の御心でしょうか。主イエスに対して、大変申し訳ないという思いでしょうか。私たちの身代わりになってみ苦しみを受けられた主をおぼえつつ、心を痛めながら過ごすべきでしょうか。主の御心を求め、聖書に聞いてゆきたいと思いますが、主イエスは私たちにどのようにこのレントを過ごして欲しいのでしょうか。

さて、ヨハネによる福音書は1章の福音書へのプロローグで始まり、11章までは主イエスの公の福音宣教活動が記されてきましたが、12章から福音書の後半に入ってゆき、主イエスの十字架の死と復活にシフトしてゆきます。そして12章1節に「過越祭の6日前にイエスはベタニアに行かれた」とあります。曜日で言うと土曜日です。このベタニアという町はエルサレムから南東に約3キロの所にあり、主イエスが頻繁に滞在された町であり、親友のマルタとマリア、そしてラザロたちが住んでいる町でした。そしてマタイとマルコによる福音書を照らし合わせて読みますと、主イエスはシモンという人の家に滞在していたようです。このシモンという人はかつて重い皮膚病に苦しんでいたのですが、主イエスが彼の病を癒されたという関係があります。つまり、シモンにとっては、主イエスは命の恩人であるわけです。

ですから、命の恩人がベタニアに来られる度に主を自宅に招いて夕食を振る舞い、感謝を表し、親しい交わりをしていたようです。そのような夕食会の食卓に主イエスの友人で、主が死人の中から甦らせたラザロがいたと記されています。このラザロは、主イエスに対して人一倍の感謝の気持ちを持っていたと思われます。なにせ、死ぬはずだったのに、主イエスによって生かされ続けているのですから。ラザロの姉妹であるマルタとマリアも、心から主イエスに感謝していたと思います。そして、主イエスに感謝を表し、主に仕えるチャンスを心待ちにしていたと思いますが、その絶好のチャンスが過越祭の6日前に到来するのです。

シモンは家庭を解放し、主イエスとその弟子たち、また友人たちを招いて夕食会を開いて主イエスに感謝の気持ちを表しました。ラザロは、元気な姿で主イエスと共に食卓に着くということを通して感謝の気持ちを表しました。マルタは、夕食の準備から給仕までをして、精一杯に彼女の才能を用いて感謝の気持ちを主イエスに表しました。主イエスはたいへん喜ばれたと思います。するとそこにマリアが登場します。

マリアがその時、純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ(355ml.、12oz.)持って来て、主イエスの足に塗り、自分の髪で主イエスの足を拭ったのです。彼女の行動は、とても唐突で、驚くべき行為です。シモンの家は、香油の香りで充満したと3節に記されています。主イエス以外のその部屋に一緒にいた人たちは、みんなびっくりしたと思います。

純粋で高価なナルドの香油は、最低でも300デナリオンの価値はあるとイスカリオテのユダが見積もるのですが、1デナリオンは労働者の一日分の手当に当たる金額ですから、約1年分の給与の金額です。たった355mlの量ですから、いかに高価であるか分かると思います。

イスカリオテのユダは、「なんともったいないことをするのか」と怒り心頭で、「なぜこの香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言うのですが、実は彼の憤りは金銭欲から来るものでありました。ヨハネによる福音書を記した記者ヨハネは6節で「彼(ユダ)がこう言ったのは、貧しい人々の事を心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたから」と付け加えています。

さて、主イエスはマリアの行為を弁護すべく、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のためにそれを取って置いたのだから」と7節で言われます。しかし、私はこの主の言葉に疑問を抱きます。マリアは本当に主イエスの死を前もって知り、その日のためにナルドの香油を取って置いたのでしょうか。甚だ疑問です。本当にそうでしょうか。大好きで尊敬していた主イエスがもう少ししたら命を失ってしまうと、本当にそのような悲劇を受け止めていたのでしょうか。ここは主イエスの言う通りと素直に聞くべきでしょうか。また色々な神学者もそのように解釈しています。でも、本当にそうなのでしょうか。

私は、この箇所を何度も読んでゆく中で、少し違った事へと導かれました。もしかしたら、私の神学は間違っているかもしれませんが、分かち合いたいと願うのです。

私は、マリアはマルタやラザロやシモンと同じように、主イエスに感謝の気持ちを表したかったのだと思うのです。高価な香油を主イエスに注ぐことによって、彼女なりの感謝の気持ちを表したかった。大切な兄弟ラザロを死の淵から救い出して彼の命をつないで私たち家族につなげて下さってありがとうございます、という感謝を伝えたかったのだと思います。ただ、それだけであったと私は感じるのですが、次の事が今回のポイントです。

主イエスは、そのようなマリアの感謝の気持ちを、彼女の思い以上のものとして用いてくださる、つまり、主ご自身の葬りの日のために、ご自身の死のための備えとして用いてくださるということです。私たちの想像を遥かに超えた形で、私たちの感謝の献げものを主の御用のために、主の栄光のために用いてくださる。それが主イエス・キリストです。ですから、感謝の献げものに大きい小さいは関係なく、その時折に献げるものを主は喜んでくださり、豊かに用いてくださる。そのことをただ信じて生きて行けば良いのではないかと思うのです。

主イエスは、ご自分の死、十字架上での死をもって私たちを神にしっかりとつなげて下さり、そして神は主イエスのご復活を用いて、私たちを永遠の命につなげ、祝福につなげて下さいました。ですから、この受難節(レント)の日々を、私たちは「自分は主イエスさまの十字架とご復活によって生かされている」という恵みをひたすら主に感謝して、その感謝の気持ちを表してゆくことが、神の御心ではないかと導かれるのです。

今回は、シモン、ラザロ、マルタ、そしてマリアの主イエスに対する感謝の気持ちにスポットライトを当てました。主に感謝を表し、救われている喜びを表す方法は何千通り、何万通りもあり、人によって違っています。その違いが良いのですが、すべてを主イエスは喜んで受け取ってくださるということを心に覚えたいと思います。

礼拝を一緒にささげてくださることで十分の方が教会におられます。祈りのご奉仕を担ってくださる方々。ご自宅を解放して人々を招いてくださる方々。時間と賜物をささげて奉仕をもって主と教会に仕えてくださる方々。献金をもって教会の働きを担ってくださる方々。今、主への感謝の表し方を祈り求めておられる方々。この方々と共にキリストのからだなる教会を建て上げてゆきたいと願っています。どうぞ主の手足となって共に仕えましょう。主の愛、恵みに生かされていることへの応答をしてゆきましょう。その応答を、献げものを主の御用のために、主は豊かにお用い下さるはずです。主に感謝をささげましょう。