「平和と聖なる生活を追い求める」 五月第四主日礼拝 宣教要旨 2017年5月28日
ヘブライ人への手紙12章14節 牧師 河野信一郎
今回は12章14節のみです。前半に、「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい」とあります。ここに2つのことがキリスト者各自に平等に求められていることが分かります。一つは、「すべての人との平和」を追い求めること。もう一つは、「聖なる生活」を追い求めること。これらが主なる神と主イエスがすべてのキリスト者に求めていることです。
しかし、その神の御心を聞いた時にすぐに私たちの心を支配する思い、心のリアクションはどのようなものでしょうか。「いたって簡単」という思いでしょうか。たぶん、大半の人は「う〜ん、難しい」と思われるでしょう。ある人は直感的に、「非現実的」、「不可能」と感じられるでしょう。確かに、私たちの力や努力だけではそれらを全うすることは不可能と言わざるを得ません。しかしながら、本当に「不可能だ」というままで良いのでしょうか。「非現実的だ」と簡単に諦めてしまっても良いのでしょうか。
14節の後半には、「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」とあります。「聖なる生活を抜きにして、誰も再び来られる主イエス・キリストを見ることができない。また御国で主なる神を拝することはできない」ということがここで言われているのです。つまり、すべての人との平和を追い求め、また聖なる生活を追い求めて、その生活に生きてゆかなければ、主イエスを見ることはできないし、15節から読み解くと、神の恵みから除かれてしまうということです。ですから、私たちはたやすく諦めてはいけないのです。「不可能」だとか、「非現実的」と言ってはいけないのです。
私たちに出来ないから、主イエスが父なる神によってこの地上に派遣されて来られたのです。そして、私たち罪人に歩み寄り、共に歩んでくださり、私たちの罪を贖い救いために十字架上でその命をささげてくださり、死んでくださったのです。私たちにできないから。ですから、14節を読む時には、1節後半から3節までの言葉に繰り返し戻り、救い主イエス・キリストを見上げ、この主に助けと導きを求めてゆかなければならないのです。
「すべての重荷やからみつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者、また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが気力を失い、疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」
1節後半から2節前半は、大久保教会の今年の年間聖句です。
私たちにはそれぞれに重荷があり、日々霊的な戦いがあり、また葛藤があります。みんなが何かしらの重荷、戦い、葛藤があると思います。しかし、何故それらを持っているのかということ、私たちの内に罪があり、罪を持ち、弱さを持っているからです。
自分の弱さをひた隠しにする時、あるいは自分は大丈夫だと思い込む時、心が意固地になるので、心の中で悪循環が始まってしまい、いつも無駄な背比べ(背競べ)をしたりして優越感・劣等感を感じ、ストレスを感じたり、心を傷つけて弱くしたりして、結果的にすべての人と平和に生きられなくなるわけです。自分が思っている以上に心が弱り果て、健全でなくなっているので、「聖なる生活を送るなんて絶対無理!」と、私たちはいたって簡単に、早期に、勝手に決めつけてしまうのです。
しかし、そのような私たちに対して、『だからこそ』、「すべての重荷やからみつく罪をかなぐり捨てて、あなたの救い主であるイエス・キリストを信じ、見上げなさい。主に信頼し、すべてを委ねなさい」と強く勧められているのです。劣等感、優越感を持つ自分を見るのを止めて、あなたを愛し、あなたと共にいて、あなたを救ってくださる主イエスを見つめなさいと勧められているのです。
確かに、すべての人と平和に生きられない原因・理由が自分にではなく、他の人にある時があります。様々なハラスメントを受ける時、理不尽な扱いを受ける時、我慢できない時もあります。しかし、十字架の苦しみと死を耐え忍ばれた主イエス、御自分に対する罪人たちの反抗を耐え忍ばれた主イエスのことを心に覚えなさいと招かれています。主イエスが私たちといつも共にいて助け、救い、守り、力を与えて、平和に生きられるように、聖なる生活を送れるように私たちを造り変えてくださるから、この方だけを見つめ、この方にのみ信頼し、従ってゆきなさいと私たちは招かれているのです。
ですから、すべての人との平和を追い求める時、まず自分が主イエスにすべてを明け渡し(降伏し)、主に鍛錬されて聖なる者へと変えられていくことを求めてゆくことが大切なのです。故に、すべての重荷や自分の弱さ、からみつく罪をすべて捨て去り、主イエスを仰ぎ見てゆくことが大切なのです。主イエスから差し出される十字架の傷のある御手をしっかり握りしめ、主イエスにつながってゆかなければならないのです。
主イエスがあなたと、私たちと共に歩んでくださる時、主イエスの血潮によって清められ、造り変えられ、すべての人と平和に生きること、聖なる生活を送ってゆくことができるように、主の憐れみのうちにそうなってゆくのです。ですから、私たちに大切なのは、主イエスを求め、主イエスを追い求めてゆくこと、主イエスを見てゆくことなのです。その様に歩んでゆく中で、主イエスと神の愛を体験し、信仰の目ではっきりと主を仰ぎ見ることができる。そのような恵み、祝福へと招かれていることを喜び、感謝し、これからもその恵みのうちに生かされることを追い求めて祈ってゆきましょう。