すばらしい事、なされた主

「すばらしい事、なされた主」 宣教要旨  ヨハネによる福音書2章1~11節

今朝の聖書箇所は、「カナの婚礼の奇跡」と呼ばれ、多くの皆さんが親しみをもって読み、お聞きになってこられた物語です。聖書を一読しただけで、物語の内容を掴(つか)むことができますし、イエスさまは、わたしたちの祝いの席に一緒に座り、喜びを共にして下さる身近なお方だという印象を持つことが出来ます。

そのようにして読める一方で、イエスさまは母マリアに「婦人よ、わたしの時はまで来ていません」と、なぜ冷たく答えたのか、言葉のやり取りに少なからず違和感を覚えます。また、11節になりますと、「弟子たちは信じた」とありますが、この祝いの席では、他に沢山の人が関わったのに、なぜ何もしなかった弟子たちが信じたのだろうかといったことが気になります。このように、なんだろうと、思わず立ち止まってしまう個所が幾つかあることに、皆さんも気づいておられることと思います。ある方は、その様に、「おや!」と思うところが大切なのだと言っています。そのような言葉にこそ、聖書を書いた人が、わたしたちに伝えたいことが隠されていることがあると言われます。

11節にはこう書かれています。『 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

みなさんはここを読んでどう思われるでしょうか。この日、ぶどう酒が尽きたという恥ずかしい思いをするはずの、緊急の時を救ってもらったのは、世話役や新郎新婦とその家族でした。そして不思議な出来事を直接身近で体験したのは、召し使いたちでした。ところが「イエスを信じた」のは、彼らでなく「弟子たち」だというのです。

この日弟子たちは、招かれた客として、久々に故郷に帰ってきて人々と陽気に語り合っていたに違いないのです。客であって、何もしていないその「弟子たちが信じた」というのです。ここにヨハネが伝えたい思いが隠されていると思います。なぜ、弟子たちなのでしょうか。

実は、これが今のわたしたち当てはまることです。礼拝の席に座るわたしたちは、丁度、祝いの席に座った弟子たちと同じなのです。わたしたちはどうでしょうか、驚くような奇跡を見たから神を信じるという思いになったのでしょうか。わたしたちは突然見舞ってきた危機から救われたから神を信じたのでしょうか。そうした方が皆無ということはありませんが、わたしたちお互いは皆、この礼拝に導かれ、ただここに座ったのです。その時も、そして今も、ここにイエスさまが一緒に座っておられるのです。わたしたちはそのとき、イエスさまに声をかけられ、イエスさまを神の子と信じて行ったのではないでしょうか。

教会で起こる出来事は、わたしたちが何かをするのではなく、イエス様がして下さるのだということを、今朝の物語は伝えています。不思議なように、水がぶどう酒に変わったことを疑う人はだれもいませんでした。わたしたちが持っているものをイエスさまは、そのときに必要なものに変えて用いるお方です。

新年度への準備をしつつ「すばらしい事、なされた主」に期待しましょう。イエスさまを信じ、わたしたち自身を、イエスさまに用いていただきましょう。 応答賛美38 「新しい歌うたおう」