真実な神に感謝をささげよう

「真実な神に感謝をささげよう」 年末感謝礼拝宣教 2020年12月27日

 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章9節      牧師 河野信一郎

おはようございます。今年のすべてのクリスマスプログラムが終わりました。一生の記憶に残る、本当に特別なクリスマスでした。素敵なアドベントクランツやクリスマスデコレーション、クリスマスツリーがまだ飾られていて、クリスマスの喜びの余韻にまだまだ浸っていたいと思うような朝でもありますが、今日は2020年最後の主の日、日曜日です。今日は、この朝の礼拝と夕方17時からの夕礼拝がこの礼拝堂でささげられますが、この二つの機会が今年最後の礼拝のチャンスです。今日は朝夕ともに年末感謝礼拝としておささげする準備をしてまいりましたが、このように皆さんとこの礼拝堂で、またオンラインを通して、今朝ご一緒に礼拝をおささげできる恵みを神様に感謝いたします。

現在は、東京や主要な都市だけでなく、コロナ新規感染者数は全国で爆発的に増加しています。今後の動向を注視してゆく必要がありますが、もし再び非常事態宣言が出されたりしましたら、すぐに執事会で協議し、礼拝堂に集まっての礼拝を再度休止し、オンライン配信のみとする可能性もあります。その結果を教会ホームページに掲載いたします。教会員の皆さんにはお電話やメール一斉配信によってお知らせするようにいたしますが、教会ホームページを数日おきに確認していただければと思います。

さて、今朝は、皆さんに一つお断りをしなければならないことがあります。わたしは「霊の実を結ぶ」という宣教シリーズを続けてまいりまして、すでに9つある実の最初の7つは終わり、前々から今朝の礼拝では、「柔和」という霊の実を結ぶとはどういうことかということを宣教のテーマにあげるとご案内させていただいておりましたが、来月まで延期させていただきたいと思います。理由は至って簡単で、この「柔和」という実についてイエスさまはわたしたちに何を語られ、何を教えておられるかということを調べれば調べるほど、このテーマが非常に多岐にわたり、どこにフォーカスして宣教することがベストなのか、もっと黙想と祈りと準備の時間が必要と感じました。期待されていた方もおられたかもしれませんが、宣教者の理解が不完全なままでお話ししても、たぶん皆さんの心には響かないと思います。確かに、宣教は聖霊の導きの中でわたしのような小さい者を通して神様が語られる訳ですから、そのご聖霊の導きにひたすら従って語るということが良いとは思うのですが、イエスさまが柔和ということをテーマに2つ、あるいは3つの別々の観点、あるいは違うコンテキストからお話しされているのが分かると、欲張りなわたしはすべてが重要に思えて、どのコンテキストに沿って宣教することがベストなのか、判断に非常に悩むわけです。ですので、年をまたいで来年1月に宣教させていただくことにいたしました。どうぞご了承ください。今週金曜日の元旦礼拝と来たる主日の新年礼拝の宣教が終わりましたら、祈りと黙想に集中して準備したいと思います。どうぞお祈りのサポートをお願いいたします。

さて、この2020年、4月からですが、わたしたち大久保教会は「主の導きに従って前進しよう」という標語を掲げて歩んでまいりましたが、「さあ一緒に歩み出そう!」という前の2月から新型コロナウイルス感染防止のため、その後は非常事態宣言のために一緒に集って礼拝をささげること、教会学校、礼拝後の食事と交わり、各会の定例会が出来なくなりました。イースターも、ペンテコステも、クリスマスも、一緒にお祝いできませんでした。そういう中で、わたしたちはいったい何を前進することができたのかと思い悩むかと思います。

しかし、コロナによって強制的ではありましたが、朝と夕べの礼拝をオンラインで配信できるようになり、教会に集えない方々とインターネットを通してご一緒に礼拝をおささげできるようになっただけでなく、ドイツにおられる姉妹やアメリカの日本語教会の皆さん、世界中から大久保教会の礼拝にアクセスし、賛美をささげ、聖書のみ言葉に聴くことができるようになりました。これは教会の計画にはなかったことです。しかし、それが神様のご計画であったわけです。この新しいミニストリーが開始された背後には、オンライン配信環境を整えてくださったBCS宣教師の献身的で感謝なお働きがありますが、礼拝を二部制にすることや献金のささげ方を変えることなど、執事会の皆さんが知恵を出し合ってくださった結果です。定期総会も書面での開催になりましたが、そこにはたくさんの配慮が施されています。来たる1月10日の執事選出総会も教会に来ることができない教会員への配慮がされています。

今後も継続できる教会の働きが見つかりましたし、予想もしていなかった新しいことが始まっています。今すぐに成果は見えなくても、「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」と詩編126編5・6節に約束されています。この約束を信じて、今は忍耐して、共に祈りながら歩み続けたいと願います。

さて、今年のコロナ禍の辛くて不自由な生活の中で、皆さんは神様についてどのようなことを感じられたり、学ばれたでしょうか。このパンデミックの中、神様はあなたをどのように導かれ、取り扱われたでしょうか。神様を遠くに感じたでしょうか。それとも今まで以上に近くに感じられたでしょうか。

この期間、大変な騒動、状況下に置かれて、本当に生きた心地がしなかったという方もおられると思います。計画していたすべてがキャンセルになってしまった方、収入源を失ってしまわれた方、外にも一歩も出られず、外部との接触がめっきり少なくなって非常に大きな孤独感にさいなまれたという方もおられると思います。その反対に子どもたちや配偶者がずっと家にいて、そのお世話で大変だったという方もおられると思います。ずっと教会に行きたかったけれども、お互いの命と生活を守るためにひたすら我慢をされたという方もおられると思います。大切な家族に会えないという辛い日々を今も過ごされている方々、愛するご家族が亡くなられ、本当は友人や知人、たくさんの方々と見送りたかったけれども家族だけの寂しい葬儀になってしまったという方もおられると思います。人混みにいるのが苦痛であったり、誰かが咳き込むととっさに構えたり、嫌だと感じたり、人の冷たい視線を感じたり、怯えながら過ごしているという方もおられると思います。感染防止のために最大限の努力を日々してゆく中で心が疲れ、生きてゆく気力を失ったり、人をすぐに裁いてしまう自分に嫌気を感じたり、周りの人がうとましく思えたりすることもあると思います。

出口が全く見えない暗闇の中を前進することは本当に大変です。今も生きるために必死に戦っている方もいれば、一方では途方に暮れておられる方もたくさんおられる。生きるために仕事をしなければいけない方もおられる。医療従事者としてずっとずっと働き詰めの方々がおられる。そういう中で、わたしたちは、あなたは、神様についてどのような気づきが与えられ、何を学び、どのような関わり、また導きがあったでしょうか。

今も続くコロナパンデミックの中で、神様に愛想を尽かした方は、礼拝者として今朝ここにおられないと思います。ほとんどの方は、神様の憐れみによってここにおられると思います。わたしたちは、神様の愛と憐れみによって、いま恵みを受けつつ、礼拝者としてここに置かれています。わたしたちの努力や力ではありません。すべて神様からの招きです。

2020年最後の主日礼拝の中で皆さんとシェアして聴きなさいと導かれたのは、第一コリントの1章9節です。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」というみ言葉です。「神は真実なお方」です。イエス・キリストを通して、この真実な神様の恵みのうちに置かれています。

救い主イエスさまのお誕生を最初に知らされ、礼拝者として神様の招かれたのはベツレヘムの地方で野宿しながら夜通し羊の番をしていた羊飼いたちでした。彼らは社会から切り離され、孤立していました。彼らは何を思いながら羊の番をしていたのでしょうか。寂しさや孤独を味わい、虚しさを感じていたでしょうか。将来を案じていたでしょうか。分かりませんが、わたしたちがこのコロナパンデミックの中で味わっていることを味わっていたかもしれません。そのような羊飼いたちに神様は天使を遣わし、このように宣言させるのです。「恐るな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と。わたしたち一人ひとりのために救い主が誕生したという素晴らしいニュースを天使は届けてくれた。この素晴らしいニュースを受け取って喜ぶ人は幸いですということがイブ礼拝のメッセージの要点でした。もしよろしければユーチューブでイブ礼拝の模様をご覧ください。

さて、羊飼いたちは天使たちが彼らを離れて天に去ったとき、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合って、急いで町へ出かけてゆき、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てます。天使を通して神様が教えてくれた確かなしるしがあったので、彼らは救い主を探し出すことができたのです。この確かな「しるし」が神様の真実さを物語っています。羊飼いたちは神様の真実さを一つ一つ体験してゆきます。

20節にこのようにあります。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と。見聞きしたことが「すべて」天使の話した通りであった、これも神様の真実さを表す言葉です。

前の19節には「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とありますが、マリアも、羊飼いたちとの不思議な出会い、またこれまでの道のりを思い返してゆく中で、神様は本当に真実なお方であるということをはっきりと示されて行ったのではないかと思います。

皆さんはこの2020年を振り返る中で、何を思われるでしょうか。コロナが原因で台無しになった計画や失ったすべてを悔やまれるでしょうか。この苦しい状況の中で、失ったものも実に多くて大きいと思います。他人には分からないことだと思います。しかし、この一年の歩みはすべて失ったことばかり、ダメになったことばかりでしょうか。自分を見つめ直す時になったり、家族や友人との絆を確かめる時となったり、失ったものよりも、この手にまだ残っているものを感謝したり、新しく発見したこと、得たものもあるのではないでしょうか。

羊飼いたちは神様の導きの中で、救い主に出会ってゆき、キリストとの交わりへと招かれてゆきました。神様の言葉が、神様が真実であることを体験しました。わたしたちも、スタイルや場所、時間などは違えど、それぞれが今年のクリスマスに、救い主のお誕生をお祝いする礼拝へと招かれ、わたしのためにお生まれになられた救い主にいま一度交わるチャンスが与えられました。羊飼いたちがイエスさまにつなげられたように、わたしたちもイエスさまにつなげられている幸いをもう一度確認することができました。そうできたのは、神様が真実なお方であり、神様が愛のお方であるからです。

 イエス・キリストという救い主につながることで、わたしたちは神様の愛をつぶさに感じ、心が喜びと感動、感謝で満たされます。羊飼いたちは、神様の真実さ、愛に触れて、神様をあがめ、賛美しながら自分たちの持ち場へと帰って行きました。わたしたちも真実なる神様、愛なる神様に感謝と賛美をささげてまいりましょう。たとえコロナの出口が見えなくても、暗闇の中にもイエスさまは世の光として常にわたしたちと共におられ、わたしたちを慰め、励まし、喜びと平安と希望で満たし、神様を礼拝する者、神様の愛であるイエスさまを分かち合う者としてくださいます。わたしたちに大切なのは、真実なる神に信頼することです。