神の霊に従って歩むときに

「神の霊に従って歩むときに」 五月第一主日礼拝 宣教 2024年5月5日

 ローマの信徒への手紙 8章1〜17節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。早いもので、5月に入りました。ゴールデンウィークの最中、今朝も共に礼拝をおささげできて感謝です。水曜の雨を体験し、これからじめじめした梅雨に向かってゆくのかなぁと思いきや、木曜日から夏のような暑い日々が続いています。5月は体調の崩しやすい時期ですので、健康にはくれぐれもお気をつけてお過ごしください。毎週日曜日に皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげしたい気持ちはいっぱいではありますが、無理をされて体調を崩してしまいますと、礼拝に長期間出席することが出来なくなります。ですので、今日はちょっと難しいかなぁと感じましたら、どうぞオンラインで礼拝をおささげください。しかしながら、ライブ配信は、出席者のお顔が見えませんので、少し不安に感じる部分もありますので、ご連絡いただけると嬉しいですし、とても安心できます。

 

さて、話題が変わりますが、星野富弘さんが先週28日の6時半過ぎに天に召されました。78歳でした。昨年の秋に、大久保教会で富弘さんのアート展を1週間開催できたことは本当に大きな恵みであり、感謝なことでした。来場された大勢の方々が、富弘さんの訃報に接し、大久保教会でのアート展を思い出されたのではないかと思います。NHKなど国内外20以上のメディアが星野さんの訃報を報じたそうですが、どのメディアも、最も肝心で重要な部分、星野富弘さんは主を愛するクリスチャンであったと報じなかったのが残念でしたが、富弘さんの神様への愛と感謝から創作された詩と画がキリストの香りとなって人々の心に慰めや励ましを与え続けると信じます。去る3日にMキリスト教会で葬儀が営まれ、わたしもユーチューブで出席しましたが、UK牧師の説教の原稿が公開されており、わたしの手元にありますので、お読みになられたい方は礼拝後に差し上げたいと思います。

 

さて、5月は19日が聖霊降臨日・ペンテコステですので、霊なる神様、ご聖霊について聖書に聴いてゆきたいと願っています。バプテスト教会では、あまり聖霊について触れないように思いますが、救い主イエス・キリストの代わりとして神様から地上に派遣されたご聖霊です。イエス様を通して神様から与えられた信仰を持ち続け、イエス様につながり続けるためには、聖霊の伴いと励ましが絶えず必要となります。

 

今年度の大久保教会の歩みの目標は、「どのような時も主なる神に信頼して共に歩む」ということです。ヘブライ人への手紙11章6節には、「(キリスト・イエスを救い主と信じる)信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」とありますが、ローマのクリスチャンたちに手紙を書き送った使徒パウロは、8章8節で非常に興味深いことを言っています。「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」とあります。新改訳聖書と口語訳聖書では、「肉にある者は神を喜ばせることができません」と訳されています。一番分かりやすいのはリビングバイブルかもしれません。「なおも古い罪深い自我に支配されて、欲望に従い続ける者は、決して神様をお喜ばせできないわけです」と訳されています。

 

この「古い罪深い自我に支配され、欲望に従い続ける者」、「肉の支配下にある者」とは、どういう人であるのか、もし「肉の支配下」から解放されて自由に生きる方法があるとしたら、どのような方法があるのかを神様のみ言葉である聖書からご一緒に聴き、「古い罪深い自分、欲望に支配されている自分」、罪と欲望から解放されるためにわたしたちに何が必要であるのかを聴いてゆきたいと思います。そうすることによって、神様に喜んでいただける人生、御心に適った信仰生活を歩んでゆきたいと願います。

 

さて、今朝はローマの信徒への手紙8章前半を読んでゆく訳ですが、1節に「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」とあります。この「従って」とは、使徒パウロが8章で書き送る内容は、6章と7章の内容が土台となっているということです。パウロが6章で伝えたかったことは、「イエス・キリストによって『罪と死から、奴隷の身分』から解放された者たちは、新しい命に生かされているのだから、日々その恵みに応え、神様とイエス様に従順に従って生きなさい」という励ましです。7章は、「イエスを救い主と信じる者たちは『律法』の束縛からも解放され、新しい命と自由が与えられているのだから、その恵みに応え、従順に神とイエス・キリストに従い、神が喜ばれるように生きなさい」という励ましがあります。

 

2節に「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」とありますが、「罪と死との法則」とは欲望に従って、死に向かって生きるということです。「霊の法則」とは「神の霊」、つまり聖霊の導きに従って生きるということです。3節に、「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださった」とありますが、その後に「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」とありますように、イエス様の十字架の贖いの死によって罪と死の法則から完全に解放され、神様の愛と憐れみ、主の恵みの中で、新しい命に生きる者とされているということです。「肉」とは、罪に従って歩むということです。

 

それでは、「聖霊に従って生きる」とは、具体的にどのように生きるということでしょうか。まず5節に「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」とあります。聖霊に従って生きるとは、いつも神様のこと、イエス様の言葉、神様に愛され、生かされている恵みを考えながら、数えながら生きることです。6節に、「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和」とありますが、いつも隣人とのトラブルなどに心悩まされて生きるのではなく、新しい命に生かされ、神様との平和が与えられていることを喜び、感謝しながら生きるということです。聖霊の導きと励ましに従って歩むときに、そのような大きな喜びと感動で満たされてゆくのです。

 

7節から9節で、使徒パウロは、「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」と言っています。

 

わたしたちの心の内に、神の霊、キリストの霊、つまり聖霊が宿ってくださるとパウロは言っていますが、わたしたちに必要なことは、まず心を開いて神様の愛を素直に受け取り、イエス様を信じて、聖霊を心に迎えること、それだけです。その後の心の掃除は聖霊が助けてくださいます。罪の自覚も、悔い改める思いも聖霊の迫りの中で与えられてゆくのです。肉の思いに従って歩んできたわたしたちには神様の御心に従って歩む力などそもそもありませんが、神様にはその力があります。聖霊にはわたしたちを従わせ、歩ませる力があります。

 

ですから、10節と11節に、「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」とあるのです。神様には不可能なことは何一つないのです。

 

さて、神の霊によって生きる者には、一つの義務があると使徒パウロは12節と13節で言います。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」とあります。パウロがいう義務とは、肉に対する義務ではなく、神の霊である聖霊を信じ続けて、聖霊の励ましと導きに従い続けるという義務です。つまり、神様の愛と恵みのうちに生かされ続け、その愛と恵みをいつも喜び、感謝して生き続け、神様を賛美して、イエス様を証しし続けることです。それが罪赦され、神様の愛の中に生かされているわたしたち一人一人の責任、責任というよりも、本当に幸いなことであり、素晴らしい特権なのです。

 

わたしたちに与えられている1番の喜びは、14節にある「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」という宣言です。15節に、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。ギリシャ語で「神の子とする」とは、「神の養子になる」ということです。イエス・キリストを救い主と信じ、聖霊の導きに従う者は、神の子とされる、英語ではBelongという言葉になりますが、つまり神様に属する者、神の家族の一員として認められ、家族の一人として数えられる祝福に与るということです。聖霊に励まされ、促されて、なんの遠慮もなく、神様を「お父さん!」と呼ぶことができるのです。まさしく、16節にあるように、「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」。

 

17節の後半に、「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」とあります。わたしたちにとって、「キリストと共に」という部分が重要です。わたしたちは「独りではない」ということです。イエス様がいつも共にいて、共に苦しみ、悩んでくださる。共に涙を流してくださる。共に祈ってくださり、執り成しをしてくださる。いつも一緒であることを聖霊が教えてくれるのです。神の霊に従って歩む時、わたしたちは様々な不安や迷いや恐れに支配されることから守られます。守られる以上に、イエス様の言葉を通して、十字架と復活の業を通して、神様の愛の深さ、広さ、高さ、強さを感じることができ、なによりも神様のご臨在、神様の近さ、主の伴いを感じることができるのです。すべては神様の愛から出た恵みです。聖霊は、その恵みをいつもわたしたちに優しく感じさせてくださるのです。感謝です。