信じる者を失望させない神

「信じる者を失望させない神」 四月第四主日礼拝 宣教 2024年4月28日

 ローマの信徒への手紙 9章30〜33節     牧師 河野信一郎

おはようございます。4月の第四日曜日の朝を迎え、ご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。ゴールデンウィークということで、すでに26日頃から最長10日間の休暇を楽しんでおられる人たちもおられるようですが、日本から海外に旅行される推計52万人の方々は、円安の影響で大変だと思います。しかし、主の日を大切にし、神様に賛美をささげ、み言葉に聞こうとされている皆さんを神様は大いに祝福してくださると信じます。

ロシアによるウクライナ侵攻開始から26ヶ月、ミャンマーでの軍事クーデターから15ヶ月、パレスチナ・ガザにおけるイスラエルとハマスとの激しい戦闘が始まってもうすぐ7ヶ月、能登半島地震から4ヶ月の月日が流れています。国外国内で、未だに厳しい状況が続き、多くの命が犠牲になり、国内外に避難生活を強いられている方々が多くおられます。

しかし、被災地以外の日本では、海外からの旅行者と国民の旅行者が色んな観光地で重なり、オーバーツーリズムで大変なことになっています。この戦いのある地と戦いのない地の格差、アンバランスさをどのような言葉で形容できるでしょうか。

そのように形容しようとするのは、身と命の危険を感じず、日々の生活が自分の頑張りようでどうにか守られ、お金で物事を解決できる人々、戦いのない世界に生きるわたしたちだけなのではないかと思います。しかし、そのようなことを神様はわたしたちに求めておられないと思いますし、喜ばれないと思います。神様の喜び、御心は何でしょう。そのことを知るためには、祈りと聖書に聞くことが大切です。イエス・キリストを通して神様から与えられている命、身体、時間、富、能力、いま手にしているものを真の平和の実現のために用いることができるように、憐れみの神に心から祈り求めましょう。

さて、今朝は、「信じる者を失望させない神」というテーマで神様の愛をローマの信徒への手紙9章から分かち合わせていただきたいと願っています。新しい年度が4月から始まってから早1ヶ月が経とうとしていますが、皆さんのこの1ヶ月間の歩みはいかがであったでしょうか。祝された日々であったでしょうか。普段と何も変わらなかったでしょうか。それはそれで幸いな事だと思います。

ただ、3月から4月にかけて生活環境が劇的に変わった方々は、とても大変な日々を過ごされたのではないでしょうか。わたしの娘たちも3月にそれぞれ大学を卒業し、4月から一人は就職し、一人は神学校へ入学しましたので、環境と生活リズムに慣れるまで毎日大変のようで、毎日疲れて帰って来て、夕食後にすぐに休んでしまいます。わたしたち親にできることは、彼女たちが日々守られ、神様の御心に沿った生活ができるようにと願い、主の伴いと励ましと祝福を神様に祈り求めることです。

皆さんの中にも、新年度に入ってからの環境の変化で心身ともに大変疲れる時間を過ごされている方もおられると思います。教会のU兄は、4月から日曜日出勤が始まったため、朝の主日礼拝に出席することができなくなりました。そのため、夕礼拝に出席され始めましたが、夕礼拝は第二と第四の日曜日のみですので、霊的飢え渇きを感じ、サタンからの霊的攻撃もあるのではないかと心配しながら祈っています。皆さんにもU兄の信仰が守られますようにお祈りいただきたいと思いますし、互いを覚えて祈り合いたいと思います。

さて、わたしも例外ではありません。16年ぶりにわたし一人の単独牧会となり、1ヶ月が経とうとしています。新年度が始まった当初は、大きな期待を持ち、「さぁ、やるぞ!」という意気込みがあったのですが、願っていたことが好転しないどころか、何か雲行きが怪しいと言いましょうか、どんどん悪い状況に陥っているのではないかと日毎に、日曜日ごとに感じるようになって、焦る気持ちを持つ自分に気付き始めました。

大久保教会の牧師として働く以外にも、連盟や連合などの様々な働きが重なり、「安請け合いしなければ良かった」と後悔したり、頼まれたら断れない自分を責めたりという日々の連続でした。しかし、もうアップアップな状態になりそうな時に限って、神様は恵みを与えてくださいます。久しぶりの再会や新しい出会いをタイミングよく与えてくださり、常に励ましてくださいました。神様は、いつもわたしたちを気遣い、恵みを与えてくださる本当に素晴らしい憐れみ深いお方である。神様に信頼する者を絶対に失望に終わらせないお方であることを体験させられます。

わたしたちは、神様を信じて日々歩んでいても、自分を取り巻く状況が自分の意に反して悪い方向、悪い状況に向かっているように感じてしまい、気持ちが落ち込み、やる気が出ないことが時折あります。何かにつまずいてしまうのです。その何かとは、自分であったり、人の意見や言葉であったりします。しかし、その状況とは、本当に悪化している状況ではなく、「悪く見える」状況であるということが多くあります。つまり、わたしたちの心の状態によって、ストレスを感じたり、疲れを感じている時には物事が悪く見えたり、何の心配もないストレスフリーな時には物事が良く見えたりするのです。

それでは、物事が悪く見えて落ち込みそうになる時の心の状態は、どのような状態でしょうか。その反対に、すべての物事が良く見える時の心の状態は、どのような状態なのでしょうか。聖書から簡単にお話しします。物事を前向きに捉えることができず、ほとんどの事を悪く見えてしまう心の状態に陥る人は、自分の知恵や力や努力に頼り切ってしまい、外からの助け、サポートを一切受け付けない頑固な人です。その反対に、物事をいつも前向きに捉えることができ、いつも心が平安な状態の人は、神様の愛と憐れみを信じ、感謝する人です。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、ユダヤ人と異邦人をよく比較します。9章30節と31節にもこうあります。「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」とあります。

ここに2種類の「義」があることに気付かれると思います。一つは「信仰による義」、もう一つは「律法による義」です。この「義」というのは、神様の「義」であり、その意味は神様の「正しさ」です。神様の「義」の他に義はなく、神様の「正しさ」以外に真の正しさはないという事です。少し難しくなりますが、「神の義」は、「神の主権」を表す言葉として聖書では用いられます。神の義とは、神様の絶対的な権力を示し、誰の意思にも支配されない神様の固くて強い意思・御心を示すものです。

この30節と31節の言葉ですが、神の存在も、救いを得る術すら知らず、救いを求めることもできなかった異邦人たちがイエス・キリストを救い主と信じる信仰によって救われ、神様の御前に「義」と認められ、神の子とされます。信仰によって、信じることで救われると言うこと。それはまさしく、「神様からの恵み」です。わたしたち異邦人が救われるのは、憐れみ深い神様の愛をイエス様を通して感謝して受け取り、信じて喜ぶことによります。

しかし、神の民・ユダヤ人たちは、自分たちの「義」を律法に追い求め、律法を守れば救われる、つまり自分たちの「行い」、たゆまない努力によって救いは得られると信じ込み、ずっと追求して来ました。けれども、律法を完全に守ることはできないし、律法を守ると言う「行い」だけでは、神様の御前に「義」と認められていない、救われていないと使徒パウロは言うのです。パウロは32節で、「イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように考えた」と言って、ユダヤ人の間違い、思い込みを指摘しています。

救いは自分たちの「行い」によって得られると信じ込んでいるユダヤの人々にとって、十字架という呪いの木に架けられて死んだイエスが救い主・メシアであるはずがない、そんな者を信じることだけで救いを得られるはずはないと思い込んでいました。まさしく、ユダヤ人たちにとって、イエス様は「つまずきの石」であり、このイエス様につまずいたのです。

先ほど、「物事を前向きに捉えることができず、ほとんどの事を悪く見えてしまう心の状態に陥る人は、自分の知恵や力や努力に頼り切ってしまい、外からの助け、サポートを一切受け付けない頑固な人」と申しましたが、律法を守っていれば救われる、大丈夫と思い込み、神様の憐れみであり、救い主イエス様を信じない人、ユダヤの人々は、傲慢さやプライドなどで心が狭くなるので、すぐに人と自分を比較し、相手を簡単に裁きます。そのような人たちの心は、喜びとか、感謝の思いではなく、いつも不安や不満で満たされています。

その反対に、神様の愛と憐れみを信じ、喜び、感謝する人は、物事をいつも前向きに捉えることができ、いつも心が平安な状態に保つことができます。神様に信頼し続けているので、神様はその人の心を愛で満たし、御言葉で励まし、聖霊によって守り、歩むべき方向性を示してくださいます。ですから、日々の歩みの中で、複雑な人間関係の中で心と体が疲れ、少し自己中心になり、信仰の道を迷いそうになっても、主がいつもわたしたちと共にいて、助け導いてくださるので、神様に信頼する人たちは、日々のストレスやプレッシャーに押しつぶされることなく、生きる力が尽きることもなく、失望に終わることはありません。憐れみの主に感謝です!