この地を正しく裁くために来られる主にハレルヤ!

「この地を正しく裁くために来られる主にハレルヤ!」 二月第二主日礼拝 宣教 2024年2月11日

 詩編 98編1〜9節     牧師 河野信一郎

おはようございます。今朝も皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる幸いを主に感謝いたします。ゲストの皆さん、オンラインで礼拝をささげておられる方々も歓迎いたします。

 今日は、2月11日です。あと1ヶ月しますと、東日本大震災から13年目を迎えます。来月3月10日の朝の礼拝は、「3.11を覚える礼拝」としてささげ、岩手、宮城、福島の3県に立てられています3つのキリスト教会を覚えて祈ります。大久保教会は、過去12年間、この3つの教会を祈りに覚え、支援献金を献げてきましたが、今年もその支援を継続したいと願っています。週報裏面の献金報告欄をご覧いただけると、昨年3月から今日までに献げてくださった東北支援献金の累計額が57,300円となっているのがお分かりになられると思いますが、今朝から3月10日までの間に、この献金額を9万円になるまで献げて、それぞれの教会に3万円ずつ送金したいと願っています。ちなみに去年は、各教会に6万3千円ずつ送金できましたが、今年は能登半島地震の支援のために献げておられるでしょうから、これ以上は難しいかもしれません。しかし、わたしは、昨年献金をお送りした後、涙声でお礼の電話をくださった牧師の声が今でも忘れられません。福音を伝えることが難しい東北の土地で、財政的にも厳しい中で、教会を形成してゆくことが困難な中で、信仰をもって神様と隣人に仕えようとしている諸教会を覚えて共に歩みたいと思うのです。ぜひお祈りください。

 さて、今週水曜日の14日から、今年の受難節・レントが始まります。3月30日まで受難節を過ごします。この期間は、イエス・キリストがわたしたちの代わりに罪の代償を払うために、十字架に架かって死んでくださるために歩んでくださった十字架への道、その道を自ら進んで歩んでくださったこと、その主イエス様の苦悩と苦痛を覚え、その贖いの死を覚える40日間です。このイエス様の道は、他でもないわたしの救いのための道、皆さん一人ひとりの救いのための道であることを覚え、イエス様に心を集中する期間であります。来週の礼拝の宣教は石垣副牧師でありますから、わたしは翌週の25日から受難節・レントに関するメッセージをさせていただきます。わたしたちの救いの根幹に関わることです。そのことを覚えながら、受難節を過ごしてまいりましょう。3月29日には受苦日(グッドフライデー)祈祷会が19時からあります。金曜日の夜ではありますが、ご予定に入れてご出席ください。

 わたしは、この受難節の期間、わたしのために十字架の道を歩んでくださったイエス様に集中するために大好きなチョコレートや甘い物を口にすることを止めます。しかし、今週14日は、ちょうどバレンタインデーですね。わたしが甘い物を好きなことを知っている優しい妹は、今年はバレンタインデーの日から受難節が始まることを知っていたのでしょう。早めにチョコレートを送ってくれましたので、サタンの誘惑に負けないために、13日までに急いで食べ終えようと思っています。それは半分冗談で、半分は本気です。(笑) ある方は、大好きなコーヒーを飲むことを止める方もおられます。SNSを見たり、写真などを投稿するのを止める方もいます。これらは決して義務ではなく、イエス様との関係性の中で、イエス様の十字架の道を日々自分なりに覚えるために、主の前に静まるために、好きなことや楽しみを40日間止めるということで、何か特別なことをしなくても良いわけです。しかし、わたしのために十字架の道を歩んでくださったイエス様と向き合うことは大切であります。静まってイエス様に集中することはイエス様との関係性をさらに豊かに、そして強くしてゆくために重要なことです。自分なりに色々工夫をして、自分の喜びのためにしている何かを止めて、今週14日から3月30日までの期間、イエス様の十字架への道を覚えることが大切です。

 さて、つい先日のことでありますが、ある若い牧師から突然お電話があり、わたしに助言を求めて来られました。その牧師が牧会をされる教会は、幸いなことに若い方々も集われ、礼拝をささげておられるそうですが、「ブレンド礼拝」を試みているのだけれども、なかなか上手く進められない、ご高齢の方々からの理解が得られないで苦しんでいると言うのです。皆さんは、「ブレンド礼拝」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。初めての方もおられるかと思いますが、一つの礼拝の中で、これまでの長いキリスト教の礼拝の歴史の中で歌い継がれてきた讃美歌とここ数十年のうちに作られた新しい賛美・いわゆるプレイズソングを織り交ぜて神様にささげると言う試みです。1500年代の宗教改革の時代から賛美されてきた讃美歌と2000年代に作られた新しい讃美歌。つまり、パイプオルガンの奏楽でささげられる賛美とギターやドラムの演奏でささげられる賛美をブレンドするのです。

 わたしたちの教会では、朝の礼拝では新生讃美歌を用いて賛美をささげ、夕礼拝ではプレイズソングで神様に賛美をささげています。日本の教会で歌い継がれてきた讃美歌が良いという方もいれば、もっとテンポの良いプレイズソングの方が良いという方もおられるでしょう。若い世代は古い讃美歌に魅力を感じず、古い世代は新しい賛美は騒がしいと感じるのだと思います。そこに妥協点はないようにも思えます。しかし、最も大切なのは、誰のために、誰に向かって賛美をささげているのかと言うことです。それは主なる神様であり、救い主イエス・キリストです。自分の好みとか、ずっと歌ってきて馴染みがあるからではなく、神様へ心をささげているか、どうかです。わたしは、ブレンド礼拝が良いと個人的に思っていません。それを進めれば進めるほど、教会の中に深い溝ができると思います。では、どうしたら親やそれ以上の年代の方々と若い世代の人々が共に主に賛美をささげることができるのでしょうか。別々の礼拝をささげるべきでしょうか。そうすれば、一つの教会になるでしょうか。いいえ、二つの教会になってしまうでしょう。韓国のクリスチャンの若者たちの礼拝をYouTubeで見ていていつも凄いなぁと思うのですが、祖父母や親の世代が歌い継いできた讃美歌を現代風にアレンジして賛美をささげています。日本の教会も世代間の歩み寄り、次の世代のことを考えて徐々に若い世代にリーダーシップを委ねてゆかないと教会は消滅するでしょう。

 さて、そのような中で、受難節の中で、3月20日でありますが、T教会を会場に、新生讃美歌が発刊されてから20周年の記念イベント、ヒム・フェスティバルが開かれます。フォーラムや様々な分科会がありますので、教会の皆さんにも参加していただきたいと思いますが、このイベントのベースとなった聖句は、今朝の聖書箇所として選びました詩編98編1節の前半です。「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた」とあります。新生讃美歌が2004年に発刊されてから20年、それだけでも月日の早さを感じますが、古いものでマルチン・ルターの1500年代の讃美歌から1700年代、1800年代の讃美歌、ここ30年ぐらいの中で作られてきた682曲の讃美歌が編纂されています。K音楽主事が仕えてくださった7年の間にたくさんの新しい讃美歌を紹介していただき、共に賛美をささげましたが、それでもまだ歌ったことのない讃美歌がたくさんあります。

 詩編の作者は、礼拝者であるわたしたちに向かって、「新しい歌を主に向かって歌え」と神様への賛美を促し、励まします。ここで二つのことをお話しします。一つは、「新しい歌」ということです。この「新しい歌」について、「新しく作られた歌」、「新しい時代を反映する歌」、「新しい思いを込めて歌われる歌」、「終末における主の到来を迎える歌」などの主張がありますが、ここで詩編の作者が言っているのは、作品自体の新しさではなく、賛美を歌ってささげる側の「心の新しさ」であります。この「新しい」というヘブル語は「新鮮な」という意味があります。つまり、いつも新鮮な心をもって主を賛美しなさいということです。それは、朝ごとに神様の新しい恵みをわたしたちは日々充分に受けているからです。

 もう一つは、礼拝と賛美はわたしたちから神様への心からの「献げもの」であって、神様から何かを受けるということが礼拝の目的ではないということ。ですから、「礼拝をささげる」ということはあっても、「礼拝に与る」ということはないのです。なぜ賛美と礼拝を主におささげするのか。その理由を詩編の作者は、1節後半で「主は驚くべき御業を成し遂げられた。 右の御手、聖なる御腕によって 主は救いの御業を果たされた」と明言しています。「驚くべき御業」とは、ユダヤ人にとってエジプトの苦役から解放され、カナンの約束の地へ入れられたことであり、バビロニア捕囚からの解放とエルサレム帰還です。しかし、新約の時代に生きるわたしたち、異邦人を含めたすべての人々にとっての神様の御業とは、イエス・キリストの十字架上での贖いの死と死を打ち破って甦られた復活の出来事です。

 ここに主の「右の御手、聖なる御腕によって救いの御業を果たされた」とありますが、救いの御業は神様の愛の力、情熱・熱意から来る業であって、わたしたち人間の努力や能力で自分を救うことはできない、ただただ神様の憐れみ、恵みであることを強調する言葉です。

 2節に「主は救いを示し、恵みの御業を諸国の民の目に現し」とあり、続く3節では「(主は)イスラエルの家に対する慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は わたしたちの神の救いの御業を見た」とありますが、神様はイエス様を通して、イスラエルの民だけでなく、すべての民族、すべての異邦人を愛していることを示されたのです。イエス様の贖いによって、わたしたちは神様の御前で義とされた。正しいものとされ、恥のない者とされた、そこに神様に愛があるということを先週のメッセージで聞きました。

 今朝の礼拝への招き・召し出される言葉として、4節から6節を聞きました。ここでも「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え」と励まされています。「全地よ」とは、地球上のすべてのものが主なる神様によって造られ、神様を賛美するために生かされているというわたしたちの使命、目的を示す言葉です。神様はイエス様を通して、わたしたちが目で見て、耳で聞いて分かるように十字架上で、そして復活を通して救いを示してくださいました。この恵みが与えられているわたしたちの使命というのは、地の果てまで福音を宣べ伝え、全地が主なる神様に賛美をささげるように、人々に心から仕えることです。自分の好きな讃美歌だけでなく、人々が喜びをもって神様にささげる賛美を一緒に歌って、神様の愛に生かされている喜びを叫び、歓声をあげることです。「歓声をあげて、喜び歌い、ほめ歌を歌え」とは、「熱意を込めて歌え」という意味ですが、神様に命救われ、神様の愛の中で生かされている喜びと感動を表しなさいということです。

 5節と6節に、「琴に合わせてほめ歌え 琴に合わせ、楽の音に合わせて。ラッパを吹き、角笛を響かせて 王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ」とありますが、琴はギター、ビオラ、チェロ、バイオリンなど弦楽器を指し、ラッパや角笛はトランペットやホルンなどの金管楽器を指し、ピアノは構造的に見ると鍵盤楽器であり、弦楽器であり、打楽器であると言えます。他にもクラリネット、サックス、フルートなどの木管楽器もあり、様々な楽器を用いて、声を合わせて神様にのみ賛美をささげて、神様のみに栄光をお返しすること、それがわたしたちの礼拝です。

 7節と8節には、「とどろけ、海とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものよ。潮よ、手を打ち鳴らし 山々よ、共に喜び歌え」とありますが、これに9節の「主を迎えて」という言葉が付け加えられます。これは詩編作者が願い、そしてイメージする最高の礼拝の形です。それは、全世界の人々と全被造物、神様に創造されたすべてのものが共に主なる神を、救い主を賛美するようになることです。「手を打ち鳴らし、共に喜び歌え」とは命令ではなく、主イエス・キリストによって、神様の愛によって、そのようになる時が必ず来るという主なる神様への信頼と期待が込められた言葉です。願い、祈りと言っても良いでしょう。

 その願い、祈りに神様は応えられます。9節、「主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き 諸国の民を公平に裁かれる」とあります。神様は再びイエス様をこの地に派遣されます。主の再臨が必ずあります。この地は混沌としています。戦争や紛争、自然破壊、貧困や格差の問題、政治家とお金の問題、権力や富を持つ者たちの癒着などの不正、分断がさらに広がっています。そのような中に、そのような地を正しく裁くために、救い主が再び来られるのです。この救い主の再臨と正しい裁きに望みを置いて生きることが信仰生活であり、賛美と礼拝の生活と言えると思います。わたしたちは思い煩ったり、不平不満を言ったり、人を批判することを言ったり、ありもない噂話をするために生かされているのではなく、創造主なる神様とわたしたちの救い主イエス・キリストを見上げ、賛美し、日々仕えるために恵みの中を生かされているのです。そのことを覚えつつ、受難節を過ごしましょう。