ルカ(82) 見失われた羊を探し出す愛を語るイエス

ルカによる福音書15章1〜7節

ルカによる福音書の学びも15章に入ってゆきますが、まず14章からの流れについてお話しします。14章1節から24節には、わたしたちが神の国へ、神の国での「食事」に招かれていることが記されていました。食事に招かれた人がどういう人であるのか、どういう人であるべきかも確かに重要でありますが、イエス様が語られた内容でもっとも重要なのは、「神様」がわたしたちを神の国へ招かれるということ、つまり神の国での主体性は常に「神様」にあり、唯一の主権者は「神様」であるということです。神の国に招かれ、大宴会の席につくことができるのは、わたしたちの行いや努力ではなく、信仰でもなく、唯々、神様の憐れみ・愛がわたしたちに注がれているからであることを聞きました。であるからこそ、わたしたちは常に謙遜に、神様の愛をいつも喜んで生きることが御心です。

 

続く14章の後半の25節から35節では、イエス様の弟子として従う条件がイエス様から出されました。その条件は非常に厳しいと感じてしまうものですが、イエス様の弟子として、十字架に向かって突き進むイエス様に従うには、強い覚悟と決意が要求され、また弟子として神様の愛を分かち合う中で周囲の人々に良いインパクト・影響を与える者でなければ、塩気を失った塩のように神の国の外側に捨てられてしまうという実に厳しい言葉も聞くことになりました。今日的な言い方をしますと、イエス様の弟子であるためにどれだけの出費・コストが必要であるのかが語られ、コストパフォーマンスが問われるということです。最近、「コスパが良い」という言葉を耳にしたり、自分で言ったりすることが増えたかと思いますが、支払った金額以上のものが得られると、経済的であるとか、様々なコストを削減できるから効率的であると言い、そこに人々の関心が寄せられています。

 

そういうコストパフォーマンスのことを聞くと、「エー、神様って、そういう現実的でシビアな考え方をするの。もっと寛容であると思っていたー」と神様に不信を感じるかもしれませんが、神様の愛と憐れみはわたしたちが考えるような、そんなみみっちいレベルの愛ではありません。それゆえに、神様の愛・憐れみがいかに大きいものであるのかが15章に記されているのです。つまり、わたしたち人間をイエス様の弟子とするために、神の国に招いて、神の子とし、大宴会の席に着かせるために神様が支払われるコスト・犠牲・愛がどれだけ大きいのかをわたしたちに知らせる譬えが全体を通して続いてゆくのです。

 

前置きが長くなりましたが、この15章にはイエス様が話された数多くの譬え話の中でも有名な譬えが3つ連続して語られます。野球で例えるならば、ピッチャーから最初にカーブがきて、次にスライダーが来て、最後に強烈なストレートが来るという感じです。最初の2球は揺さぶりで、最後が核心に迫る譬えということができると思います。

 

15章には、羊の群れを離れてさまよう一匹の羊を探し出す人・羊飼いの譬え、紛失した銀貨を探し当てた女性の譬え、そして消息を絶った息子が帰ってきた父親の譬えがあります。これらの譬えは、失われたものが見つかって大きな喜びに満たされたことが主題となっています。すなわち、神様から離れてしまった人・罪人を見つけ出して救えた大きな喜び、宝のような存在である人が見失われ、探し回ってようやく見つかったという大きな喜び、放蕩に身を持ち崩した子が父親のもとに帰ってきた時の父親の喜びがどれほど大きなものであるかが示されています。そして、これら三つの譬えは、イエス・キリストがこの地上に来られた意味と目的を表す非常に重要な役割を果たすものとなっています。今回は、その最初の譬えに聴きいてゆきたいと思います。

 

福音書15章1節から7節にある99匹の羊を残して迷い出てしまった1匹の羊を探しに行く羊飼いの譬えはとても有名な譬えですが、その枠組みはルカ5章27節から32節にあるイエス様が徴税人のレビを弟子に招く箇所と共通していますので、まずそこの部分、27節から30節を読んでおきたいと思います。新共同訳聖書の111ページの上の段です。

 

「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人や他の人々も大勢いて、一緒に席に着いていた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人たちと一緒に飲んだり食べたりするのか。』」とあります。

 

今回の15章1節から2節にも同じようなことが記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」とあります。つまり、5章と15章のコンテキスト・枠組みは同じであるということです。そういう批判がある中で、イエス様は譬えをもって話し始めるのです。3節から6節です。

 

「3そこで、イエスは次のたとえを話された。4『あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。』」とあります。

 

わたしたちがまず基本として理解すべきは、これは「譬え」であるということです。羊の群れから迷い出た1匹を捜し回るために、他の99匹を野原に残してゆくのは賢明さが足りないと云う意見を持つ人もいるかもしれませんが、この譬えの強調点は残された99匹ではなく、迷子になってしまった羊への羊飼いの愛情、闇の中で心細く彷徨っている人への神様の心配と愛着の大きさと見つけ出した時の大きな喜びが強調点となっています。

 

詩編119編176節(p968)を読みますと、信仰者が神様に対して、「わたしが小羊のように失われ、迷うとき、どうかあなたの僕を探してください」と懇願している言葉が記されていますが、旧約の時代から神の民は羊に例えられています。また、ヨハネによる福音書10章3〜5節(p186)を読みますと、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、他の者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」とあります。神様とわたしたちの関係性、イエス様とわたしたちの関係性というのも同じであって、神様はわたしたち一人一人を知り、イエス様を通してその名を呼んでくださり、御国へと招いてくださる。わたしたちも神様の声、イエス様の声に従順に聞き従う、それが永遠の祝福、神の国へ招き入れられてゆくことへとつながってゆくのです。

 

さて、4節から6節を注意して読みますと、「見失った」という言葉が3回出てきます。この「見失った」というのは、羊飼い・神様からの視点です。どういう理由か羊の群れを離れて彷徨っている羊であれば「迷子になった」という視点になります。つまり、見失った羊・人をすべての犠牲を払ってでも一生懸命に探してくださる神様がおられるということです。神様は見失った命を探し出すまで決して諦めない愛の神であるということです。神様にはコストパフォーマンスは関係ありません。コストがどれほどかかっても、失った羊・人を見つけ出すことが神様にとって最も重要なのです。神様は、わたしたち罪にあるものたちを救うために、そのひとり子を与えてくださいました。イエス様をわたしたちの身代わりとして呪いの木に架けられたのです。それ程までに神様に愛されているのです。

 

その愛の大きさが分かるのが5節と6節です。「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう」とあります。「羊を担ぐ」とは、見つけ出した羊をもう決して離さないという神様の強い意志が表れています。「一緒に喜んでください」という招きの言葉に、見失われていた羊が見つかったという喜びを自分にだけ留めておくのではなく、親しい友人や隣人たちを招いて共に分かち合う、そこに喜びの大きさが表れています。そしてこの羊が見つかったことを「共に喜ぶ」という招きは、イエス様が罪人たちと共に食事をしていることに不満を抱いていたファリサイ派の人々や律法学者たちへの招きの言葉、加わってくださいという頼みの言葉にもなっているのです。

 

しかし、7節に「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」とあります。見失われた羊は「罪人」であり、羊飼いに見つけ出されたというのは、罪人が悔い改めて神様に立ち返ることを指します。「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」というのは、ファリサイ派や律法学者たちを指しています。これは、「自分たちは律法を守っている義人である」と誇っている人たちへの、ある意味、皮肉を込めた言葉でしょう。

 

ルカ15章の今回の箇所に関連性するルカ5章31節と32節には、「イエスはお答えになった。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めされるためである』」とありました。イエス・キリストがこの地上に来られた目的、それは罪を犯し、神から離れて暗闇の中を彷徨って苦しんでいる人たちを見つけ出して、罪とその苦しみから解放し、神の愛へと招くこと、共に歩んでくださり、神のもとへと導いてくださるということです。

 

日々の生活の中で律法を守りようのない人々(徴税人)は罪人で、神様に見捨てられた人々、そういう人々は神の国に招かれないと考えられ、見られていた中で、イエス様は、「そうではない、そういう人たちを見つけ出して、神様の愛の中に生かすために自分は来た。この救いへの招きを受けて神様に立ち返る人々を神様は大いに喜ばれるとイエス様は言われ、神の国はそういう人たちに開かれ、招かれていると言うのです。感謝ですね。