「すべてを見極められない人の次の一手」 十月第二主日礼拝 宣教 2023年10月8日
コヘレトの言葉 8章6〜17節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝もご一緒に礼拝をおささげできる恵みを神様に感謝いたします。朝晩、だいぶ涼しくなってきましたが、10月に入っても海面の水温はまだ高いらしく、台風が発生しやすい状態が続いているそうです。気圧や気候の変化で体調を崩しやすい時期ですし、インフルとコロナ感染のリスクがありますので、どうぞ気をつけてお過ごしください。
誠に残念ながら、昨日、ユダヤの安息日に、イスラム原理主義の武装組織であるハマスによる計画的なミサイル攻撃と武装組織によるイスラエル侵入があり、パレスチナとイスラエル間に新たな戦争が勃発しました。アイアンドームという防空システムで大部分を迎撃したそうですが、ミサイル発射数3000発というハマスによる大規模な攻撃で、大勢の民間人も死傷しているとの報道です。戦いも今後エスカレートし、長期化するでしょう。わたしたちにできることは祈ることですから、パレスチナとイスラエルの平和のために、犠牲者が、痛み悲しむ人たちがこれ以上増えないように祈りましょう。
さて、痛ましいニュースの後に感謝なことを分かち合うのは心がとても痛みますが、恵みが与えられましたので分かち合わせていただきます。先週木曜日ですが、友人のGMさんの紹介で二人の若い牧師と出会う素晴らしい機会が与えられました。お一人は10数年前に韓国から留学生として日本へ来日された方で、もうお一人は日本のO出身の方で、大学で上京された時に教会へ導かれ、イエス様を救い主と信じたそうです。それぞれ平日は別のお仕事をされていますが、そのようなお二人が協力して一つの教会を高田馬場で牧会しておられます。お二人のお証しと教会での取り組みを聞いている中で、日本で積極的に取り組んでゆかなければならない喫緊の課題である兼職牧師の働きとその教会形成の最たるモデルを知ることができて感謝でした。一人の兼職牧師が一つの教会を牧会するのは大変ですが、二人の兼職牧師がチームを組んで、一つの教会を共に牧会なさっている様子をお聞きすることができて、とても貴重で有意義な時間を過ごすことができて感謝でした。
貸ビルのフロアを借りて福音を伝える働きと教会形成をされています。ビルのオーナーはとても良心的で家賃も相場より安いと言っておられましたが大変だと思います。午前中は韓国語礼拝、午後から日本語礼拝ということでしたので、夕礼拝のない日曜日の午後に教会を訪問させていただく約束をしました。日本人の牧師は、日本に滞在されている外国の方々のビサの申請を助ける行政書士をされていますので、もし該当する方がおられましたら、ぜひ彼にご相談ください。今後も良い交わりが与えられますようにお祈りいただければ幸いです。
さて、今朝も「コヘレトの言葉」に聴いてまいりますが、読めば読むほど頭を抱えますが、学べば学ぶほど味わい深い、とても豊かな知恵の書物です。この書物をコヘレトという人物に記させたのは神様ですが、このコヘレトは、簡単に言えばリアリスト・現実主義者です。現実に生きる人です。世の中には、輝いていた過去の思い出にどっぷり浸り続けて「昔は良かった」と言い続ける人や、未来だけを見つめて、未来に希望を抱く人たちがいますが、コヘレトは今だけを見つめよう、今をしっかり生きようとわたしたち読者を励まします。
心が温まる懐かしい良い過去であれ、思い出したくもない悪夢のような過去であれ、決して戻ることのない過去をコヘレトは振り返らないし、未来についても理想や推測、可能性だけで考えて現実離れした事にもまったく興味がない。日々の営みの中で幸いなことも、悲しいことも確かに色々起こるけれども、今生きている現実・現状としっかり向き合うのがコヘレトです。今でなければ出来ないことや出来事を真摯に受け止め、逃げずに取り組んでゆく。この人は知恵に豊かであっても、頑固でぶっきらぼうな人であったのでしょうか。実際のところは分かりませんが、どういう人であったのかを想像するだけでも楽しいと思います。
さて、今朝は8章6節から17節に聴きますが、このコヘレトの言葉を読む人の年齢層によって、コヘレトの言葉の感じ方、受け止め方はだいぶ違ってくると思います。例えば、コヘレトが50代からそれ以上の年齢の人たちに対して、「日々大変なことが色々あると思うけれど、あなたの人生はもう後半に入って残りわずかだから、忍耐して一日一日を大切に生きなさい」と言うのと、10代から40代の未来のある若い世代の人たちに、「日々大変なことが色々あるだろうし、これからもきっとあるでしょう。あなたの人生はまだ先が長いけれど、忍耐して日々を大切に生きなさい」と言うのでは、受け止め方が違ってくると思います。
人生の後半に入っている人たちは、「そうだ、残りわずかな人生だ、毎日を大切に生きよう」と思うでしょう。しかしまだ将来のある人たちは、「いつまで、どれだけ忍耐すれば良いのか」と気持ちが滅入ると思います。あまり良い例ではないかもしれませんが、いま国から年金を貰って生活している人たちと自分たちが年金を貰う頃には年金制度が破綻しているかもしれないと不安を持っている人たちとでは、今後の生活の捉え方に違いがあると思います。ですから、将来に不安のある人は、リタイア後のことを考えて貯蓄したり、資産運用をしたりするそうですが、そのような備えができる人というのは、正規雇用の人たちだけでしょう。格差が広がる社会の中で、老後に、将来に不安をもっている人たちは大勢います。
さて、わたしのこれまでの言葉を聞いて強いストレスを感じる方もおられるでしょうし、コヘレトの言葉を読む中で心が圧迫されて苦しいとお感じになられる方もおられると思います。なぜストレスを感じるのでしょうか。理由はコヘレトが、わたしたちが日々直面している現実を包み隠さず、ありのままを語り、いまは人生を楽しみ、人生最後の極限まで先延ばしにして今は向き合いたくない深刻な問題や課題を鋭く指摘し、わたしたちの無力さ、儚さを浮き彫りにし、平安や喜びではなく、不安と恐れを抱かせるように感じるからでしょう。
6節後半から7節には、「人間には災難のふりかかることが多いが、何事が起こるかを知ることはできない。どのように起こるかも、誰が教えてくれようか」と、これまた聞きたくない言葉があります。聖書協会訳聖書では、「災いは人間に重くのしかかる。やがて何が起こるかを知る者は一人もいない」と訳されています。とても否定的な言葉で、わたしたちがいかに小さくて、無力な存在かを表し、聞いたり読んだりして不愉快だと思われるでしょう。
8節に、「人は霊を支配できない。 霊を押しとどめることはできない。死の日を支配することもできない。戦争を免れる者もない」とありますが、「霊」とは「息」、つまり「命」のことです。わたしたちは、自分の命の初めから終わりまで、自らコントロールできないということです。わたしたちの命、人生は、いつも誰か他の人の欲望や権力に支配され、圧迫されていて、真の自由と平等と平和は望めないということでしょう。9節後半にあるコヘレトの言葉、「今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ」は図星です。
10節の「わたしは悪人が葬儀をしてもらうのも、悪人が聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る」という言葉は、現代でも世界各地で実際に起こっています。ニュース報道番組等で日々ご覧になっていると思います。巨万の富を持つ富豪や時の権力者たちがお金の力や権力を乱用し、国々の民を苦しめています。
11節の「悪事に対する条令が速やかに実施されないので、人は大胆に悪事をはたらく」は、現在のアメリカの深刻な問題を想起させます。拘置所の収容数のキャパオーバーと予算カットによる警察官不足の中、10万円以下の万引き・窃盗は重罪とみなされず、翌日には釈放されるということで、若者たちがアメリカ各地で集団略奪事件を繰り返し起こしています。12節には「罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が なお、長生きしている」とあり、現代でも同様な嘆かわしい不条理があり、強くて大きな悪が国内に、世界中にはびこっています。
しかし、12節と13節にとても不思議な言葉があります。「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず 影のようなもので、決して幸福にはなれない」とあります。この言葉だけを読むと、「幸福になるために、長生きするために神様を畏れなさい」というように聞こえ、コヘレトが幸福と不幸を因果応報的に考えているように聞こえてしまいます。ある人は、「キリスト教も、ユダヤ教も、他の宗教もみんな一緒、神を信じれば救われ、信じなければ救われないという二者択一で強引な考えか」と言うかもしれませんが、コヘレトの知恵はそれぐらいのレベルでしょうか。いいえ、違います。
続く14節をご覧ください。「この地上には空しいことが起こる。 善人でありながら 悪人の業の報いを受ける者があり 悪人でありながら 善人の業の報いを受ける者がある。 これまた空しいと、わたしは言う」とあります。コヘレトの目には、神を畏れ敬う人たちが必ずしも幸福にはならず、神をまったく畏れない人たちが幸福に生き、長生きしているように見えるのです。真面目に働く人たちが正当な報いを受けずして貧しいままで、そのような人たちをこき使っている者たちが私腹を肥やしてさらに資産を増やしている状態です。実に不公平で不条理なことが現実に起こっているわけです。神を信じたら救われ、信じなかったら救われないという状態では決してないのです。世界の大富豪と呼ばれている人たちが総資産の20〜30%を寄付すれば、世界の貧困はなくなると言われていますが、実際は貧しく小さくされている人たちは顧みられないのが資本主義の闇です。
コヘレトは続く15節で、「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の日々の労苦に添えられたものなのだ」と言います。ここに「快楽をたたえる」とありますが、コヘレトは決して享楽主義・快楽主義者ではありません。「飲み食いをし、楽しむ」とは、豪華に外食を繰り返したり、豪遊を繰り返して放漫に生きるという意味ではありません。
日々の営みの中で、自分に託された働きを誠実に成して、神様から与えられる日毎の糧を恵みとして感謝して受け取り、それを家族や仲間と分かち合って共に喜ぶという素朴な幸せです。その日を実直に働いて、その日の収入で食べ物を買い、食事や飲み物を準備して神の恵みを楽しむ、それが本当の幸福だとコヘレトは主張するのです。どんなにお金を貯めても、地上での生活が終われば、それらをすべて手放さなければなりません。誰か他の人の手に渡るのです。どうでしょうか。この地上で命が与えられている間、神様から与えられる恵みを感謝しつつ日々受け取り、それを人々と分かち合って共に喜び、そしてこの命を神様にお返しする時が来たら、感謝しつつ神様へ一切をお返しし、委ねるべきではないでしょうか。
16節と17節を読んで終わります。「わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない」とあります。神様の偉大さと人間の小ささを表しているとてもパワフルな言葉ではないでしょうか。
この地上のすべての叡智を結集させ、最大限の努力をしても、わたしたち人間には神様のすべての業を見極めること、悟ることはできないと断言しています。賢者が一つの分野で、例えば医学や科学や物理学で目覚ましい発見をし、素晴らしい社会貢献をしたとしても、素晴らしい文学を残しても、それはほんの一部分にすぎず、神様の業をすべて知り得たわけではありません。わたしたち人間の知恵は神様の知恵に比べれば、天文学レベルで本当に小さいのです。では、この地上に起こるすべてのことを見極めることができないわたしたちにできる次の一手はなんでしょうか。どのようにしたら、自分の命と存在の意味、生かされている目的を見出し、知ることができて喜びと感謝と平安で満たされることができるのでしょうか。コヘレトはその答えを持っていて、真正面から直球でわたしたちに教えてくれます。
あなたを造り、命を与え、愛してくださり、日々恵みを与えてくださる神様を畏れなさい、神様を畏れ敬い、日々を大切にして生きなさいと励ますのです。「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから幸福になれない」というのは因果応報的考えから来るのではなく、神様を信じて神様につながるか、つながらないかの自由が人間の側にあって、神様の祝福の御手を握る人に神様の愛と恵みが豊かに注がれるということです。
イエス・キリストは、ヨハネ福音書15章で「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と言われました。イエス様を救い主と信じて、この主につながることが、恐れや不安から解放され、神様の祝福を受けて幸福に生きる一手なのです。