ルカ(67) 金持ちの愚かさを指摘するイエス

ルカによる福音書12章13〜21節

今回のルカ福音書12章13節から21節は、テーマとしては34節まで続きます。そのテーマは「富・お金」についてですが、過去2回にわたって聴きました「偽善」というテーマにも関連性があることを念頭に置きながら聴いてゆく必要があると考えます。

 

最近の日本では、「老後の資金として最低でも2千万円は必要」と言われていますが、格差社会が拡大してゆく中で、国から支給されるわずかな年金で生活を切り詰めて生活されておられる方々、70代・80代になっても仕事をしないと生活できないでお仕事をされている方々、悠々自適にリタイアライフを過ごしておられる方々、実に様々です。

 

ご高齢のみならず、人が生活してゆくために働き、お金を稼ぎます。働いて収入を得て、

生活することに何ら問題はありません。問題があるとすれば、格差社会拡大の根本的な問題である雇用の問題、低賃金の問題、貧困の問題、税金の問題などです。働けど働けど、生活がなかなか豊かにならない人々への支援です。大部分がお金に関わる問題です。

 

わたしたちは、生きてゆくために必要なだけの富を求めて働いているでしょうか。それとも他の人よりも良い安定した生活をしたい願いつつ必要以上の富を求めているでしょうか。今回の箇所には「貪欲」という言葉が出てきます。富を持つことは問題ではなく、富を貪欲に求めることが問題なのであると、イエス様は譬えを通して教えられます。

 

まず13節に、「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』」とあります。親から受け継ぐほどの「遺産」があるだけでも凄いなぁと個人的に感じてしまうのですが、富はある所にはたくさんあるのでしょう。目の前に見える問題は「遺産相続」です。しかし、その奥にある問題は「人間の命」です。わたしたちの多くはお金に注意が行ってしまいますが、イエス様は自分の命に注意しなさいとここでおっしゃいます。命のことは、後ほどお話しします。

 

遺産相続の問題を解決する現代の方法は家庭裁判所において裁判官や調停人が家族の間に立って、遺言状などをもとに遺産の配分をしますが、イエス様の歩まれた時代は、祭司や宗教家がその役を担っていたようです。ですから、この人は兄弟が公正に遺産分配をするように言って欲しいとイエス様に依頼したかったようですが、神に仕える者がお金や富の管理にまで首を突っ込むことはよろしくないとイエス様は常々感じておられたのでしょう。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」(14節)と言って、依頼をきっぱり断ります。神様に仕える者が、教会が、お金に目が眩むと大変な悲劇が起こります。新興宗教など、社会問題になっています。イエス様は、弟子たちにも、群衆のそれぞれの生活の中でも、そのようなことがないように富の取り扱いについて教えます。

 

15節から読んでゆきましょう。イエス様は、「一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』」と教え始められました。ここに注目すべきことがあります。「どんな貪欲にも」とありますが、貪欲にはどのようなものがあるでしょうか。聖書に出てくる貪欲さは基本的に4つです。1)貪欲に貯蔵・秘蔵する、2)貪欲に散財・浪費する、3)貪欲に比較・比べる、4)貪欲に権利をむさぼる、があります。

 

現代では最低でも6つの貪欲さ・むさぼりがあるとされています。1)お金、2)力、3)物、4)時間、5)配慮されること、6)知識・情報です。すでに必要な分が手中にあっても、人はさらに欲しいと必要以上を求めます。それがまさしく「貪欲になる」ということです。

 

以上のような貪欲に注意を払い、用心しなさいとイエス様は言われますが、何故でしょうか。過去2回の学びの中で「愚か者」についてお話ししました。「愚か者」とは神の存在を忘れた者という意味があると言いましたが、ファリサイ派の人々、律法の専門家たちが偽善に走った理由は、神という存在を軽んじ、忘れるので、自分を愛する思いが強くなり、人から愛されたい、アテンションが欲しいと感じ、求めてしまう、だから本当の自分を消し、人が喜ぶような「誰か」を演じてしまう、それが偽善に走ってしまうと言いました。彼らのむさぼりは、人々からの人気・配慮・アテンションであり、宗教者としての権利をむさぼることであったと思います。

 

「貪欲にならないようにあなたの心を守りなさい」とイエス様がわたしたちに教えられる理由は、物の豊かさによってわたしたち人間が神様を忘れてしまい、物が神のような存在になって偶像に走ってしまうからです。旧約聖書の申命記11章13節から21節(p299)には、神の戒めを守り、御言葉に聞き従い、神を愛し、魂を尽くして神に仕えるならば、神はあなたを祝福するという言葉がありますが、同時に「あなたたちは、心変わりをして主を離れ、世の神々に仕え、それにひれ伏さぬよう、注意しなさい」という言葉があり、これが今回のイエス様の言葉にリンクしています。富や物質的な物を貪欲に求めることは、それらを偶像化し、神様の祝福から離れることになる、だから自分の心を守れとイエス様は教えるのです。

 

15節後半で、「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と主は言われます。ここで注意しなければならないのは、「人の命は財産によってどうすることもできない」という言葉です。新改訳聖書では、「いくら豊かな人でも、その人の命は財産にあるのではないからです」と訳されています。これは、人の命は、財産の一部ではないということです。イエス様はここで、「あなたは誤解してはいないか。あなたの命はあなたのものではないのですよ」、ということを教えたいのです。

 

ですから、次の16節から20節で、イエス様は愚かな金持ちの譬え話をされて大切なことを教えようとされます。読んでみましょう。「16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」とあります。

 

ここで、「ある金持ちの畑が豊作だった」とあります。すでに金持ちの人がさらに金持ちになる絶好のチャンスが来て、彼の心は踊ったでしょう。そして次のように考え始めるのです。「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」、これが貪欲さの始まりです。

 

日本語の聖書ではちゃんと訳されていませんが、ギリシャ語の原文を見ますと、17節から19節はこうなっています。「『どうしよう。わたしの作物をしまっておく場所がない』と思い巡らした。『こうしよう。わたしの倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこにわたしの穀物や財産をみなしまい、19わたしの魂に言おう。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』」

 

「わたしの」という言葉があり、人間の所有権が強調されています。しかし、命は別です。命の所有権は、わたしたち神の被造物にはなく、唯一真なる神、命の神様にあるのです。わたしたちの愚かさというのは、神様の存在を完全に忘れ、神様から賜っている、授かっている、委ねられている命を自分の所有物のように勝手に考え、粗末に取り扱ってしまうことです。本来は、神様がわたしたちの生活の軸となるべきであるのに、わたし自身が、自分の生活の軸、中心になってしまっている。そのような大きな勘違いをこの金持ちはしているが、あなたがたも同じような勘違いをしていないかと問われているようです。

 

次に21節に注目したいと思います。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」とあります。ここ注目したいのは、「神の前に豊かにならない者」という言葉です。自分のために富を積む人は、神様の前に「貧しい者」ということになるでしょうか。それでは、その反対の「神の前に豊かな者」とは、どのような人なのでしょうか。

 

まず、神の前に貧しい人というのは、神様に造られ、生かされ、必要が満たされているのに、神様の存在を忘れ、自分の幸福のために生きる人です。目の前のものを愛する人と言えるでしょう。その反対に神の前に豊かな人というのは、自分の命の造り主を信じ、生かしてくださるお方を畏れ敬い、必要がいつも満たされていることを喜ぶ人と言えるでしょうか。

 

20節に、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」とありますが、ギリシャ語の原文を直訳すると、「お前の命は(神へ)返還を要求される」となります。すなわち、わたしたちの命というのは神様からの借り物、授かり物、委ねられたものであるということです。では、何のために委ねられ、授けされたのか。それは神様を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合い、仕え合うためです。富は神様から祝福をもって与えられるものです。しかし、その富を自分のためだけに抱え込み、備蓄しようという考えは、神様の考え・ご計画と一致しないのです。

 

神様の前に豊かな人とは、目の前に与えられたものを神様に感謝すると同時に、自分の命は神様からの授かりもの、借り物、自分の命には意味と目的があると捉え、神様と隣人に仕えることを優先的に考え、その考えの通りに生きる人ではないかと思います。

 

富は生きていく上で確かに必要です。しかし必要以上は求めず、もし必要以上のものが与えられたら、それを他の人と分かち合う、そういう心を持つ人が神様の前に豊かな人だとイエス様は教えます。

 

なぜわたしたちは神様に心を向けて歩む必要があるのでしょうか。松本祐三牧師は、イエス様はここで三つの理由を挙げていると説教の中で言います。1)人はたやすく貪欲に支配される弱い存在であるからです。2)富が神様にとって代わって、偶像に走るからです。3)わたしたちの命の最後はいつ来るか、わたしたちには分からないからです。