もっと大きな霊の賜物を受けるよう努めなさい

「もっと大きな霊の賜物を受けるよう努めなさい」六月第一主日礼拝宣教 2023年6月4日

 コリントの信徒への手紙一 12章27〜31節、14章1〜4節   牧師 河野信一郎

 おはようございます。先週は、たくさんの雨が降り注ぎましたが、今朝は素晴らしい晴天が与えられて感謝です。6月最初の主の日の朝、皆さんとご一緒に賛美と礼拝を神様におささげすることができて、心から感謝です。今日は、4年ぶりの教会ピクニックが礼拝後にあります。新宿御苑へと散歩をします。残念ながら、ご一緒できない方々もおられると思いますが、このピクニックが恵みの時となりますよう、神様の祝福を祈りいただきたいです。

 さて、今朝は感謝なご報告とお知らせが幾つかあります。まず、長い間お祈りいただきましたK姉は、95年にわたる地上での生活を5月28日に終えられ、神様のもとへ招かれて行かれました。昨日、ご親族のみの小さな葬儀が斎場で執り行われ、わたしはメッセージとお祈りをさせていただきました。ご家族は、K姉との別れを惜しみつつも、共に歩んだ年月を喜び、感謝しておられました。日を改めて、大久保教会で記念会を持たせていただきたいとのお申し出がありました。どうぞそのことを覚えてお祈りください。

 また、今朝はS宣教師ご一家が4人のメンバーになって、今朝の礼拝に出席くださっています。心から歓迎します。先月9日に誕生したW君の成長のために祈りましょう。またEちゃんとMさんが今週お誕生日を迎えられますので、S家の上に、日本語習得のためにも、神様の祝福があるようにお祈りいたしましょう。

 さて、今月末の25日の主日礼拝では、アメリカ帰国前のBC宣教師がメッセージをしてくださいます。2011年7月からご一家で大久保教会の礼拝に出席くださり、たくさんのサポートをしてくださいました。この礼拝堂の中にある映像・音響システムは、BC宣教師がほぼすべて設置工事をしてくださいました。礼拝堂には配線がないでしょう。BC宣教師が天井に上がって配線作業をしてくださったからです。BM宣教師は、朝と夕べの礼拝の奏楽だけでなく、奏楽者のレッスンもしてくださいました。すべて神様の栄光のため、この大久保教会のために、その賜物をささげ続けてくださいました。25日の礼拝の後に、ささやかな感謝会を持ちます。皆さんも、ご都合をつけてご出席ください。

 もう一つだけアナウンスさせてください。昨年の5月と7月の礼拝で、特別賛美があった事を覚えておられるでしょうか。5月はHJ兄がビオラで、7月はHM姉がチェロで素晴らしい賛美をささげてくれました。今年は、お二人が一緒に大久保教会に来てくださり、ビオラとチェロによる二重奏の特別賛美を今月25日の礼拝の時にしてくださる予定です。お二人の音楽の賜物がいかに素晴らしいかはすでに経験済みです。どうぞお楽しみに!

 さて、先週の日曜日はペンテコステでした。イエス様の代わりとして神様からこの地上に遣わされた聖霊という神がイエス様を救い主と信じる弟子たちの上に降り、弟子たちは励まされ、キリスト教会がエルサレムに誕生した日を覚え、喜びました。先週のメッセージは、神の霊、聖霊がわたしたちの生活の只中に居て、すべての事を益にするために執り成し、働いてくださるということを聴き、万事を益としてくださる神様に信頼する力も聖霊が与えてくださるという事をご一緒に聴きました。過ぎ去った1週間、聖霊とその働きを近くで感じられ、「本当に神様は生きて働いてくださっている」という恵みを体験されたでしょうか。

 わたしは皆さんに対していつも正直でありたいと思っていますので、包み隠さずお話ししますが、先週はかなりキツイ一週間でした。昨日の葬儀を終えて、やっと重圧から解放されたという、精神的にも非常に厳しい週でした。様々なことに忙殺されて、心に余裕がなく、牧師らしくない言葉づかいですが、「やばい!」と思えるようなピンチが幾度もありました。しかし、その都度、聖霊が救いの手を差し伸べてくださるのです。色々な人を遣わして、わたしの心を守ってくださったのです。「今度の日曜日、礼拝に出席しても良いですか〜」とか、「祈っています!」というメールや電話の励ましがありました。本当に感謝でした。

 さて、今朝のメッセージは、聖霊を通して与えられる「賜物」がテーマです。しかし、皆さんの中には「賜物」と聞いてもピンと来ない、自分には関係ないと思われる方がおられるかもしれません。たぶんその理由は、なぜ「賜物」が与えられるのかが不透明だからです。何のために、何を目的として与えられているのか分からないとその重要性が理解できないと思います。この「賜物」は、ギリシャ語で「カリスマ」と言います。この言葉を聞いて、特別な才能を持つ人のことを思い浮かべるかもしれませんが、「カリス」は「恵み」という意味です。つまり「賜物」は、恵みとして神様から与えられたプレゼントであるということです。この贈り物は、イエス様を救い主と信じるすべての人に平等に与えられた祝福です。

 信仰そのものが神様からいただく恵みでありますから、信仰を「賜物」と呼んで良いと思いますが、神様がわたしたちに期待されている信仰とは、ごく普通の信仰ではなく、山を動かすほどパワフルな信仰です。「ごく普通の信仰」という言葉には語弊がありますが、それは「自分のためだけの信仰」と言い換えることができます。つまり、自分が祝福され、自分の生活だけが守られていれば良いという信仰です。けれども、「山を動かすほどの信仰」とは、神様と人々のために生きる信仰です。キリストのからだなる教会を主眼に置いた、教会を通して神様と隣人を愛する、そのために生きる信仰が「山を動かすほどの信仰」です。

 わたしたちにはそれぞれ、恵みとして与えられた「賜物」があります。その賜物、ある人には一つのものが与えられ、ある人には複数与えられているかもしれません。ある人には一見大きな賜物が与えられ、ある人には控えめに見える賜物が与えられているかもしれません。しかし、自分の信仰がどれほど素晴らしいかを競うために賜物が与えられているのではなく、それぞれの賜物を持ち寄って、教会を建て上げるために神様から与えられている恵みであることを覚えましょう。使徒パウロは、第一コリント12章7節で賜物が与えられているのは、「全体の益となるためです」と記しています。

 ある人には知恵の言葉を語る力、知識の言葉を語る力、他の人には病気をいやす力、奇跡を行う力、預言をする力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力が与えられているとパウロは続けて言います。しかし、これらの賜物、力には落とし穴があります。これらの力、賜物を持っている人を尊敬したり、自分もその力を持ちたいと思ったり、それを得たら自分の信仰は完成したと思い込み、自分の力を誇る傲慢さを持つようになるのです。しかし、神様から与えられる賜物・恵みは、自分を誇るために与えられたものではありません。神様に忠実に仕え、隣人に誠実に仕えて生きるために与えられた恵みであるのです。

 今朝の御言葉、第一コリント12章28節以降にも、様々な賜物を持つ働き人がリストアップされています。そのリストを見て、自分はそのような器ではないなぁ、自分はこんな賜物は持っていないなぁ、これはちょっと責任が大きすぎて自分には担えないなぁと思われるかもしれません。確かにそのようにも思えるでしょう。しかし、それでも皆さんにできることはあるとわたしは思います。使徒、預言者、教師という働きはできなくても、その働きのために立てられている人たちをサポートできる人にはなれると思います。どのようなサポートがあるでしょうか。祈り、献金、励ましの言葉、ちょっとした手助け、色々あるのです。

 わたしたちが最も避けるべきこと、教会の働きと成長を止めてしまうこと、それは自分が負うべき責任を負わないで、誰かに丸投げにしてしまうということです。教会内で、お客さんになってしまうことです。誰かがやってくれるだろうと思わないで、自分は神様のために、隣人のために、教会のために何ができるだろうかと考え、自分にしかできない働きを求めること、神様の励ましと導きを祈ることです。自分は若すぎるから、高齢だから、体が弱いから、病気だから、仕事で忙しいから、年金暮らしだからと思わないで、わたしはこの教会で何をして神様に栄光をお返しすることができるだろうかと祈り、後は聖霊に従うのです。

 教会いうのは、牧師、執事の働きだけで成り立つのではなく、教会員、クリスチャン一人ひとりが、それぞれの賜物を持ち寄って、主に信頼してささげる時に成立すると信じます。それぞれが自分の責任を自覚して、信仰をもってその責任を果たす時に、聖霊の力がともに助けてくださり、教会全体の動きがもっと円滑になり、たくさんの実を結ぶと信じます。

 さて、今朝のメッセージのタイトルを読んだ時、困惑された方も多くいらっしゃると思います。「もっと大きな霊の賜物を受けるよう努めなさい」というタイトルです。今の信仰生活、教会生活だけでも精一杯なのに、もっと大きな賜物をさらに受けるだけのキャパシティは自分の中にはないと思われるかもしれません。では、小さな霊の賜物を受けるように努めなさいと言われれば、大丈夫でしょうか。

 使徒パウロは、31節の前半で、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」とコリント教会のクリスチャンたちを励ましています。同じ励ましがわたしたちに今朝与えられています。しかし、わたしたちはその励ましを負担だと思うでしょうか。しかし、なぜ負担に感じてしまうのでしょうか。わたしたちの心の主が神様ではなく、自分であるからではないでしょうか。だから、心が硬直状態で、心がキャパシティオーバーになっているのではないでしょうか。神様はわたしたちの心に大きな力を注いで祝福したいのに、わたしたちがそれを拒絶しているから、負担に感じてしまうのではないでしょうか。

 コリント教会のクリスチャンたちは、霊の賜物を非日常的な能力・力、特別な人だけに神様から与えられた権能だと思い込み、自分はごく普通の人間、自分には関係ないと思う人が多かったようです。しかし、神様からいただく賜物・恵みは多岐にわたり、その働きには広がりがあり、すべてのクリスチャンに与えられているということを分かっていませんでした。ですから、パウロはクリスチャンを励ますために、31節の後半ですが、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」というのです。「最高の道」とあります。口語訳聖書では「最も優れた道」と訳され、新改訳聖書では「さらにまさる道」と訳されています。

 最高で、最も優れて、すべてに優る道とは何でしょうか。それは愛に生きる道です。神様からいただく最高の恵み・賜物は「愛」です。ですから、14章1節で「愛を追い求めなさい」と励ますのです。ここまでお話ししてきた霊の賜物は、その中に愛がなければ虚しいとパウロは言います。「たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」だから、愛を追い求めよというのです。何故でしょうか。「山を動かすほどの信仰」とは神様と人々のために生きること、キリストのからだなる教会を主眼に置き、教会を通して神様と隣人に仕えて生きること、そこに神の愛が必要不可欠であるからです。

 14章には異言の賜物と預言の賜物について、その相違点が詳しく記されていますが、パウロは「特に預言をするための賜物を熱心に求めなさい」と励まします。その理由が2節から4節に記されています。「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言をする者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造りあげます」とあります。

 なかなか分かりにくいですね。違った言い方をすると、異言とは神様へ向かった言葉、つまり自分を神様に近づける、向上させる言葉です。しかし預言とは、人々に向けられる言葉です。すなわちイエス様の救いを分かち合う中で、神様の愛を分かち合う中で、聞く相手を励まし、慰め、希望を持つように促し、さらに愛の神様に近づける言葉です。そのためには、まずわたしたち一人ひとりが神様の愛を熱心に求め、その愛に生きることが必要なのです。