ルカ(52) エルサレムへ向かう決意をされるイエス

ルカによる福音書9章49〜56節

今回は、49節から50節までの箇所と51節から56節までの箇所から、二つのテーマに沿ってお話しします。しかし、9章の基本のテーマが「主イエスによる弟子訓練」ということには変わりはありません。どちらも、地の果てまで派遣してゆく弟子たちを整えるために、イエス様が大切なことを教える箇所になります。

 

まず49節から50節の箇所ですが、ここは前回聴いた46節から48節と本来カップリングされて聴くべき箇所でしたので、46節から48節を少しおさらいしたいと思います。そもそもの事の発端は、46節にある「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」事にあります。

 

これは人間の性でしょうか。「だれがいちばん偉いか」、「いや、自分が一番!」という思いが弟子たちの心を支配しています。いつも自己愛で頭の中はいっぱいです。絶えず誰かと自分を比較し、ドングリの背比べのような無駄な競争ばかりをしています。そういう競争の中で、ある時は優越感に浸り、ある時劣等感で苦しむような日々の繰り返しです。

 

何故そのような考えを抱くのか。弟子たちの場合、イエス様に認められたい、褒められたい、気に入られたい、イエス様に最も近い所にポジショニングしたいという強い思いがあったようです。イエス様にもっと愛されたいという強い願望が彼らに共通してあったと考えられます。

 

さて、弟子たちが「誰が一番? 自分が一番!」と争っている最中に、「イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせ」ます。予期せぬイエス様の行動に弟子たちは驚いたと思いますが、イエス様の思惑は何であったのでしょうか。48節に「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」との言葉があります。

 

幼い子どもは親の愛と助け、保護がない限り生きることができない存在です。しかし、イエス様にとって、何ができるか、何ができないかはまったく関係なく、そのままの存在をイエス様は愛してくださいます。弟子たちの前に幼な子を置くことで、イエス様は弟子たちに「謙遜に生きる」ことを教えようとされたのです。

 

ここで覚えたいのは、弟子たちの前に立たせられた幼な子は「謙遜の見本」ではなく、イエス様の名のゆえに「受け入れる」べき対象であるということです。聖書のどこにも、この幼子が素直でおとなしいと書かれていません。もしかしたら、少し手のかかる甘やかされた子であったかもしれません。しかし、どのような子どもであっても、「主イエスの名によって」、「受け入れる」ということが大切なのです。受け入れることが可能な子だけを招いたら、人々に受け入れられない子たちはどこに行けば良いのでしょうか。どのような人でも、主イエスの名によって受け入れることが大切なのです。

 

自分は、イエス様を通して神様に愛されている存在であることを信じ、喜び、感謝して生きる、それが「謙遜に生きる」ことにつながります。誰かに認められ、気に入れられ、愛されることに自分の思いや時間やお金を注入するよりも、もうすでに神様に愛され、罪赦され、恵みの中を生かされていることを感謝し、謙遜に生きることに集中することが重要であり、そのように生きる者が最も偉いとイエス様は教えられます。

 

さて、謙遜に生きることの重要性を教えるだけでなく、もう一つ重要なことをイエス様は弟子たちに教えられます。それが49節と50節です。「そこで、ヨハネが言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。』イエスは言われた。『やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。』」とあります。

 

ここに興味深いことが多く記されています。イエス様の門下と言いましょうか、イエス様の弟子でなかった人がイエス様の名によって人々から悪霊を追い出しているのです。イエス様の弟子でないということは、イエス様に認定されていない、オーソライズされていないという意味にとりたいと思います。このような認識をヨハネたちは持っていたと思います。ですから、この人は「わたしたちと一緒にあなたに従わないので」とイエス様に言っているのだと思います。ヨハネの言葉を裏返しすると、自分たちはイエス様に認定された、オーソライズされた特別な弟子であり、他の人たちと自分たちは違うという誇りのようなものを持っていたとも言えます。つまり、ヨハネたちはまだ傲慢で、自分たちの謙遜のなさを露呈しているのです。

 

ここで大いに驚くべきことは、イエス様に認定された弟子たちが悪霊を追い出せなかったのに、認定されていない人が悪霊を追い出しているという事実です。だからと言って、この人がすごいと言うわけではなく、「主イエスの名」には大きな力があると言うことです。弟子として認定されていない人が悪霊を人から追い出せたのは、彼がイエス様を救い主と信じ、「主イエスの名」よって悪霊を追い出したからです。「主イエスの名」は、人を救う絶大な力があると言うことの証明です。

わたしたちが祈りを終える時も、「イエス・キリストの御名によって祈ります」と言って祈りを閉じますが、それはイエス様の名に神様とわたしたちの間を取り持つ力、執り成す力があるからです。ですから、何事をするにも、イエス様の名によって事を成してゆく時に、神様の愛が豊かに働くのです。

 

イエス様は、ヨハネに対して、「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と言われます。ここでイエス様は何を弟子たちに教えようとしているのでしょうか。それは「寛容になりなさい」という事です。イエス様は、なぜ寛容になりなさいとお命じになられるのでしょうか。今回のケースにおいては、少なくとも三つ理由があると思います。

 

第一に、悪霊を追い出していた人が「あなたがたに(弟子たちに)逆らわない者」であるからです。イエス様の宣教の邪魔も、妨害も一切していないから、そのような人は味方だとイエス様はおっしゃいます。日本にも、世界中にも、キリスト教の宗派、教団、グループが数多くあります。イエス様を救い主と信じ、それぞれがイエス様の言葉に忠実に聴き従おうとしています。みんな、味方なのです。

第二に、この人は「悪霊を人から追い出して」います。つまり、この人はイエス様の弟子さえ出来なかった愛の奉仕をしていたのです。そのような人に対して敵対心を抱くのではなく、もっと寛容になって、心から歓迎すべきと言うことだと思います。

第三に、彼はその愛の業を「イエスの名によって」していたことは明白です。自分が有名になるためでそうしているのではありません。苦しんでいる人に寄り添い、その人を苦しみから解放するために愛の業を成しています。イエス様の弟子として重要なことは、謙遜に生き、寛容をすべての人に示すことです。謙遜に、そして寛容に生きるということが、イエス様に従って歩む、生きるという事なのです。

 

さて、次に51節から56節に記されていることに注目します。ここは、ルカによる福音書において、その前半と後半に分けられる箇所です。これまでは、イエス様の宣教活動の中心はガリラヤ地方でしたが、51節の「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」ことから、後半のエルサレムへ向けての歩み、宣教活動が始まると言うことです。

 

ここで注目すべきは、「十字架につけられる時期が近づくと」ではなく、「天に上げられる時期が近づくと」、主は決意を固められたと言うことです。「天に上げられる時期」とは、イエス様は贖い主として十字架に架けられて死なれるというだけでないと言うことです。死なれたイエス様が神様によって復活の主として甦り、また再び来られる救い主として天に上げられる、そこまで一つの救いのパッケージとしてのエルサレムの歩みが始まると言うことです。わたしたちを永遠に救う道が始まるのです。

 

さて、ガリラヤとエルサレムの間には、サマリア地方がありました。この地方はかつて北王国イスラエルに属していた地域でした、紀元前8世紀にアッシリアに滅ぼされ、民の一部が捕囚の民とされ、残された土地に偶像を信仰する者たちが入って来て、ユダヤ人と異邦人の血が混じり合い、混血の民となり、南部のユダヤ人たちはサマリア地方を避けました。しかし、ユダヤ人が避けるサマリア地方の村へイエス様は入って行かれます。神様の愛とその福音はサマリア地方の人々にもあったからです。

 

しかし、53節にあるとおり、「村人はイエスを歓迎しなかった」のです。サマリアの人々は、イエス様一行が茶化しに来たと思ったのかもしれません。理由として「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」とありますが、たとえイエス様一行がエルサレムを目指していなくても、彼らは歓迎しなかったでしょう。

 

にも関わらず、「エルサレムを目指して進んでおられた」とルカが記すのは、エルサレムでもイエス様は拒絶され、その弟子たちも、教会も、人々から拒絶されると言うことをここで暗示しようとしたかったからであったようです。

 

サマリアの人々がどのような態度でイエス様と弟子たちを拒絶したのかは具体的に記されていませんが、ヤコブとヨハネの反応は大問題です。54節に、「『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った」とあります。これは、旧約聖書の列王記下1章10節、12節、14節の預言者エリヤの言葉に由来します。

エリヤのもとにサマリアの王から遣わされた五十人隊長に対して言った、「わたしが神の人であれば、天から火が降って来て、あなたと五十人の部下を焼き尽くすだろう」と言う言葉です。しかし、エリヤの言葉とヤコブたちが放った言葉には大きな違いがあります。エリヤの場合、御心ならば、主なる神が天から裁きを下すと言っているのに対し、ヤコブたちは自分たちにその権限があるかのような横暴な事を言うのです。

ですから、エルサレムに向かう決意をされていたイエス様は、これはいけないと思い、振り向いてヤコブたちを戒められたのです。神の人、イエス様に従う人は、横暴であってはなりません。傲慢であってもなりません。いつも主イエス様を見上げて、イエス様のように謙遜に、そして寛容でなければ、神様の御心を成すことはできないのです。そのことを心に刻みましょう。