わたしは福音を恥としない

宣教「わたしは福音を恥としない」 大久保バプテスト教会副牧師石垣茂夫                 2023/06/18

聖書:ローマの信徒への手紙1章16節(p273)

 

「はじめに」

 今週の6月23日について、最近のカレンダーでは「沖縄おきなわ慰霊いれいの日」とか書いてあります。沖縄では、この地での実質的な戦闘が終わった日が6月23日とされ、1965年、琉球政府によって「沖縄慰霊の日」と決められ、休日となっています。

バプテスト連盟女性連合では2008年に、その日を「命ぬちどぅ宝の日」とすると決議し、以後、連盟の諸教会の間で覚えられるようになりました。連盟の諸教会ではどのように守られているでしょうか。

わたしは、「本土の人が、もっと沖縄で起きていることに関心を持ち、関わってください」との、沖縄からの声を何度も聞きながら、何も出来ないでいる自分に、もどかしさを感じています。

世界中を、平和を脅おびやかす、力による圧力が覆っているなかで、わたしたちに求めら、出来ることはどのような行動でしょうか。皆さんで心に留めて考え、祈り求めてまいりましょう。

毎週、朝の教会学校では、4月半ばからこの6月末まで、12回にわたって「ローマの信徒への手紙」を学んでいます。

中身がぎっしりと詰まった長い手紙ですので、当時の人たちはどのようにして、この手紙を読み、そして聞かされていったのか、気になります。現在のわたしたちよりも、はるかにゆっくりと、少しづつ聞いていったのではないかと思われます。

【表1】この地図は、ローマ帝国が支配した時代、二千年前の地中海世界です。

「ローマの信徒への手紙」は使徒パウロが晩年になって、旅の途中のコリントにて、約三か月で書いたとされています。本来ならば手紙を書くのでなく、自分自身がローマに行きたかったのだとパウロは残念に思っていました。それだけに、これまでの経験を元に、福音と信仰の全てを網羅もうらして、一気に書いたのではないでしょうか。

【表2】パウロは、ユダヤ人両親のもと、現在のトルコ東部、地中海沿岸のタルソスに生まれました。生まれたのは、紀元元年の頃と言われますので、イエス・キリストとは同世代です。

当時のユダヤ人は、経済上の理由、或いは政治情勢によって、地中海世界のあちこちに散らされて住み、「離散りさんのユダヤ人(ディアスポラ)」と呼ばれていました。中でも北アフリカのアレクサンドリアと並んで、パウロが生まれ育ったタルソスにも、ユダヤ人が多数住んでいました。ローマ帝国の支配下にあり、言語は「コイネー」と呼ばれるギリシヤ語でした。

パウロは、厳格なユダヤ人家庭に育ち、「ユダヤ人の中のユダヤ人」と自分から言うほど、律法の教えを守る、信仰心の強い人物でした。そのため、エルサレムのユダヤ教会に起きたキリストの出来事と、その広まり方に対しては、危機感を持ちました。

パウロが心配したように、イエスを、キリスト・救い主として受け入れた人々の新しい信仰は、整備されたローマに通じる道を通って、短時間のうちに首都ローマに達していたのです。

青年時代のパウロはといえば、キリストの福音を伝えている主の弟子たちを脅おどすため、「殺そうと意気込んでダマスコに行った」と表現されているほど、過激に行動していました(使徒9章)。

そのパウロが、復活のキリストに出会うことで、180度の回心をなし、一転してキリストの福音を伝えている主の弟子となったのです。ユダヤ教徒にとって、これは驚きの出来事であり、キリスト者にとっては信用のできない、受け入れがたい行動をする人物でもありました。

そのためパウロは、同族からの迫害を受け、苦難を背負って歩むことになりました。そのパウロが、長い伝道生涯の晩年に書いたのが、「ローマの信徒への手紙」です。

わたしは、今日の宣教の御言葉を、1章16節、この1節のみにしました。

【表3】「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

「わたしは福音を恥としない」このインパクトのある言葉が、繰り返してわたしに迫って来たからです。

使徒パウロは、「ローマの信徒への手紙」を書き始めて、挨拶も早々に、その本文に入ると、突然のように、「わたしは福音を恥としない」と宣言しました。

なぜこのように言わずにおれなかったのか、パウロには、「恥」と思うようなことがあったのでしょうかか。今朝は、そのようなことを、ご一緒に考えてみたいと願っています。

 

「守谷伝道所での出会い」

少し長い前置きになりますが、わたしは先週、11日の教会の礼拝は、お休みをいただき、友人が中心となって、10年前に開拓伝道を始めた茨木県守谷市にある、日本基督教団・守谷もりや伝道所の礼拝に出席しました。その礼拝に行かせていただいたことで、思いがけない出会いがありました。

【表4】伝道所のある守谷市は、今は、秋葉原から筑波学園都市に向かう「つくばエクスプレス」に乗りますと25分ほどで守谷駅に到着します。茨木県ですが、利根川を渡って最初の町です。

その伝道所は、駅に近い場所を借りて2012年に開所しましたが、様々な事情があって、駅から徒歩ですと50分はかかる、とても離れた場所に移転しなければなりませんでした。そして移転して四年後には、73歳の牧師が、がんのため亡くなり、その後四年間、無牧師で活動し、現在に至っています。

最初は、礼拝を守ろうとしても説教者がおらず困難を覚えたそうですが、不思議なように、引退した牧師たち何人かの申し出があり、毎月一回の礼拝を担ってくださるようになり、現在は毎週、安心して礼拝を守ることが出来ています。この先、どのように教会を形造かたちつくっていくのかは、難しい課題ですが、限られたメンバーで、力いっぱい、忠実に仕えておられました。

【表4】11日の礼拝ですが、その日の説教者は洪性完(ホン・ソンワン)という名の、70歳の韓国人牧師で、既に現役を退いておられました。もしわたしが説教者の名前を聞いていなかったならば、日本人だと思ってしまうほど、日本語の堪能たんのうな方でした。30分ほどの説教は、創世記ヨセフ物語の最後の場面から、平和を作り出していくことの大切さをお話しなさいました。

礼拝後、かなり長い時間、先生と歓談したのですが、洪性完(ホン・ソンワン)先生は、在日ざいにち大韓だいかん基督きりすと教会きょうかいの総そう幹事かんじという要職ようしょくを務めて後に引退した、著名な方であることが分かりました。

先生は、韓国の牧師家庭に生まれ、30歳まで一般の会社に勤務して過ごしておられましたが、ある転機があって、日本人への伝道に導かれて献身し、日本語を全く知らないまま、東京神学大学に入学を許されました。入学当時は、日本の書物を読むときに、漢字だけは理解できたので、それを手掛かりに独学で日本語の勉強を続けたそうです。

それ以来、先生は、ひたすら日本人と日本の文化を知ることに時間を割き、これまで読まなかった日本文学も読んで理解を深め、日本語の説教を目指してきたという事です。

しかし、そのように努力してきたことは報われず、日本の教会での牧師就任は、韓国人であるがゆえに、10年間待ちました。ひたすら耐えて、日本キリスト教団の事務的な仕事をして時を待っていたそうですが、叶わなかったそうです。

先生のお話を聞きながら、この方はパウロのような方だと思えてきました。

そして一つの、パウロの言葉が浮かんで来たのです。

【表5】「9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。」(Ⅰコリント9:20)、このパウロのこの御言葉です。

先生はあるとき、在日ざいにち韓国人かんこくじんの教会には、日本語しか話せない同胞が沢山いることを知り、間もなく在日ざいにち大韓だいかん基督きりすと教会きょうかいの牧師になりました。その教会では、彼らのために、毎週、習得してきた日本語での説教を続けて来たと言っておられました。

洪ホン先生の最初の思いは、かなえられませんでしたが、日本に生まれ、その地で福音を求めている同胞、在日韓国人の救いのために、他の全てのことを投げ打って働いて来られました。

先週は、思いがけない、そのような出会いがありました。

「ローマの信徒たち」

使徒パウロが、ローマにキリスト者が居るという事をを知ったのは、ギリシアのコリント伝道の際に出会った、プリスキラとアキラ夫妻によっての事でした。ローマにいた彼らには、次のような騒動が起きていました。

ローマのユダヤ人キリスト者たちが、異邦人を教会に迎え入れた時に、会堂で騒動が起きました。

騒動の原因はユダヤ人キリスト者たちにあったと言えます。

ユダヤ人は神に選ばれた民族としての誇りを持ち、神の律法を守ることで、人間として道を律りっしていった人たちです。彼らが抱いていた信念をそのままにして、キリスト教徒となっていたのです。そこで彼らが現地の異邦人に求めたのは、割礼を受け、律法を守る「ユダヤ人のようになる」ということでした。

ユダヤ人信徒は、分け隔てのない、キリストの愛に根差した公平な立場での信仰でなく、「ユダヤ人のためのキリスト信仰」を求めていたのです。具体的には、これまでのユダヤ教の教えを守り、誤りのない人物、失敗のない人間になるようにと求めたのです

これに対して、異邦人キリスト者たちは逆らい、むしろ何をしても自由だ、許されていると主張しました。そのために、互いに反目はんもくし、騒動になっていたのです。

ローマ皇帝はこの事件を知って、ユダヤ人はすべて国外退去せよとの命令を下したのです。そのため、プリスキラとアキラ夫妻はローマを逃れ、てやむなくギリシアに滞在していたのです。

「福音を恥としない」

【表6】 使徒パウロは1章のはじめで、自己紹介をしています。そこでは自分のことを、「すべての異邦人を信仰の従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされた」(1:5)と言っています。続けて10節では 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」と言っています。

是非、ローマを訪問したい、訪ねて、福音を伝え励まし合いたいと、自分の願いを述べています。

そして本文に入るのですが、突然のように、「わたしは福音を恥としない」と宣言しました。

なぜこのように言わずにおれなかったのでしょうか。

「恥」の反対は「誇り」です。そのため、敢えて「わたしは福音を誇りとする」と翻訳した聖書があるほどです。しかし、「誇りとします」との言葉より「恥としない」と言ったほうがインパクトがあるのでしょう。

この手紙の1章から11章までで、パウロは、キリスト教徒の迫害者であった自分が回心し、キリストの福音の宣教者となったときに、なんとしても伝えたいことは、「ユダヤ人こそキリストの福音を受け入れてほしい」という事でした。

しかし、ガリラヤの貧しい家、身分の低い夫婦の間に生まれたイエスを救い主と認める事、そしてなんといっても、恥ずかしい十字架の死と、死人の中から復活した出来事を、多くのユダヤ人は受け入れられないのです。そのような恥ずかしい救い主は、救い主ではないと、彼ら多くのユダヤ人は拒んだのです。実は、パウロも、以前は同じ思いでした。

ところが、回心の時、アナニアを通して復活の主イエスから告げられたことは、「異邦人や王たち、イスラエルの子らに、わたしの名を伝えるために、あなたを選んだ」(使徒9:15)との言葉でした。やがてパウロが、アンティオケアの教会でキリストの福音を告げると、異邦人が次々と救われていったのです。これはパウロにとって思いを越えた出来事でした。

パウロは、そのようにして、異邦人に広まっていく福音について、「福音を恥としない」と言い切ったのです。

 

「福音は神の力」

ユダヤ人たちは、自分たちが独占できるはずの神と、自分たちが独占できるはずの救い主を、あの異邦人たちと共有することなど、とても耐えられない。これはユダヤ教徒にとっての「恥」だ。そう思ったのではないでしょうか。わたしにはそのように思えてきました。

その救いとは、口で説明できないほどの、一方的な「神の憐れみによる」出来事だとパウロは言いました。

先ほど紹介した、洪性完(ホン・ソンワン)先生は、なぜ日本に来られたのか、詳しく聞く時間はなかったのですが、わたしは次のように理解しました。

自分は伝道者となり、だれに対しても、自分の国を飛び出すほどの勇気をもらって伝えたいと導かれたのです。日本人対しては日本人になって、福音を伝えて来られたのです。それほどの覚悟と力を、神は与えておられたのです。これは「福音の力」です。自分の力量ではできないことです。

 

【表3】「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(1:16)

今朝の16節の御言葉は、ローマ書の主題です。「恥としない」とは、「誇りとする」という意味だとお話しました。「誇る」とは、「告白する」「隠さずはっきりと表明する」という事です。

わたしたちの中に「福音を恥じる」「告白していない」ということがあるなら、そこから解放されましょう。神は、ご自分がお創りになった人と世界に対して、キリストの出来事を通して、責任をもって「真まことの神」となられました

神は生きて力強く働いてくださいます。

キリストによってそのことを信じ、信仰と喜びを以て神に従って歩ませて頂きましょう。【祈り】