ルカ(53) 弟子の覚悟を人々に語るイエス

ルカによる福音書9章57節〜62節

2ヶ月半にわたるルカ福音書9章の学びも今回で終わりです。この9章全体のテーマは、「主イエスによる弟子訓練」です。イエス様自らが目を留められ、弟子として召し出した者たちへの訓練です。この訓練は、神の国について宣教をするためのもので、ガリラヤ地方での宣教の時にもなされ、十字架へ向かうエルサレムへの途上でも継続してゆきますが、主イエスが集中的に弟子たちを訓練したのは9章と言えるでしょう。

そういう中で実に興味深いのは、9章の最後に「弟子の志願者」が現れることです。正確には、2名の志願者とイエス様が招かれた1名となりますが、イエス様はこの志願者たちに対して、弟子としてイエス様に従うためにどのような覚悟が必要か、イエス様に従うことには一大決心が必要であること、また主に従う時には犠牲が伴うということを教えています。ある人にとっては、この箇所のイエス様の言葉は非常にハードルの高い要求だと感じたり、信仰を持ちたいという気持ちのある人にはつまずきになるのかもしれません。しかし、その揺らぐ心に伴い、励まして下さるのも聖霊なる神であること間違いありません。

だいぶ前にもお話ししましたが、弟子入りには2パターンあります。一般的なパターンは、弟子になりたいという志願者が「師事」を仰ぎたい師匠の元へ行って、その門をたたき、弟子入りを願うというものです。弟子入りが認められたならば、住み込みで生活し、師匠につかえ、教えを受けるのです。このパターンの弟子入りには、弟子側に並々ならぬ覚悟と意欲がありますから、弟子を迎える師匠にとっては、弟子訓練・指導は比較的に楽だと思います。日本の落語界も同じです。

ユダヤ社会における弟子入りはラビ・ユダヤ教指導者になるためのものがありますが、弟子はラビから律法と祭儀的な慣例を教わります。基本的には、ラビが言ったことをそのまま憶え込むという形です。落語界でも、師匠からお稽古をつけてもらう時、弟子は師匠の噺・落語をまる覚えします。真打になれば、自分なりに噺に色やアクセントを付けられますが、基本的には師匠から聞いたことのまる覚えして話します。ラビの弟子も、師の言葉をまる覚えします。

二つ目のパターンは、イエス様のように、師匠のほうから弟子を取るというものです。日本の相撲界では、部屋からスカウトされることをよく聞きますが、体格が良く、素質のある若者を国内・海外で見つけ出し、本格的に相撲をしないか、弟子入りしないかと誘うのです。誘われた時、そこには不安・葛藤があると思います。イエス様の弟子になる場合も同じです。イエス様が弟子となるように声をかけて招いてくださるので、声をかけられたほうは喜びで舞い上がってしまい、従う決意は後になる場合があります。イエス様を信じたい、従いたいと思いつつ、自分はイエス様の弟子になれるか、従えるかと不安を覚えることもありますが、イエス様は「わたしがあなたを作り変える」と約束してくださっています。

さて、ユダヤ教の弟子入りとイエス様への弟子入りにはそういう違いがありますが、ユダヤ教の場合はラビの言ったことを忠実に「憶え込む」ことが求められます。しかし、イエス様の場合はイエス様の言葉・教えを「行う」ことが求められます。ラビの言葉や律法を「憶え込む」ことは自分の内側に収めるということです。しかし、イエス様の言葉を「行う」というのは聞いたことを外側に出してゆく、すなわちイエス様が生きられたように、神と人々に忠実に「仕える」ということになります。それは自分を犠牲にしても仕えるということになります。何故でしょうか。イエス様がわたしの救いのために十字架で犠牲になってくださって、その犠牲があって、今のわたしたちがあるからです。イエス様の弟子として、クリスチャンとして生きてゆく時には犠牲が伴います。犠牲を払ってでもイエス様に従うという決意・決心が必要です。前置きが非常に長くなりましたが、今回の箇所はそういうことを教えています。

さて、イエス様がエルサレムへ進んで行くというのは、十字架に向かって進んでいるということ、受難に向かい、死に向かっているということです。その後にイエス様の甦り、復活という死に対する勝利がありますが、それでも死に向かって歩むことは簡単なことではありません。しかし、わたしたちは遅かれ早かれ死を迎えるわけで、その先にある復活・永遠の命が希望となり、生きる力にもなります。されど、死は決して楽ではありません。

さて、今回の箇所にはイエス様と3人の人との出会いが記されています。57節に、「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と言う人がいた」とあります。この人がどこから来て、どのような事を通してイエス様の弟子になりたいと思ったのかという動機は不明です。

しかし、イエス様はこの人の決意が堅いものなのか、あるいはカジュアルな軽いものなのかを確かめるために、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と58節で言われます。狐や鳥には帰る場所があるが、イエス様には帰る場所はないと。ですから、ここはイエス様から「わたしに従うことイコールあなたが帰ってリラックスできる所はなくなるけれど、その覚悟はありますか」と問われているのです。

イエス様がサマリアで歓迎されなかったように、弟子たちも世に歓迎されない、その働きが報われない、拒絶や欠乏する生活を味わい、様々な犠牲を伴いますが、それでもわたしに従いますかと問われています。イエス様に従うと神様から大きな報いがあります。しかし、弟子として神と人々に仕えて行くことは気軽に考えるほど簡単ではないのです。しかし、従いたいという思いが本当にあれば、イエス様が弱いわたしたちを励まし、導き、作り替えてくださるのです。大切なのは、「信じて、従いたい」と決心することです。

さて、次の人は弟子志願者ではなく、イエス様から招かれた人です。59節です。「そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った」とあります。ユダヤ社会において父母を敬うことは十戒の5番目に命じられている重要なことであり、亡くなった父親を葬ることは子にとって絶対に果たすべき責任です。それに対する60節の「イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』」というのです。しかし、このイエス様の言葉は、血も涙もない冷酷な言葉に聞こえるかもしれません。そして、多くの人がつまずきを覚えるでしょう。

しかし、ここで問題になるのは父母を敬わない、軽んじても良いということではありません。ここでの問題は二つです。一つはイエス様に従うことに「条件を付ける」ということです。理解に苦しむでしょうが、イエス様の言葉を守ることのほうが、律法を守ることよりも遥かに重要であるということです。この部分は日本やアメリカの文化では折り合いをつけることが困難だと思われますが、イエス様に従うことに一定の条件を付けることが問題の一つです。

もう一つの問題というのは、「これが終わったら、あれが終わったら、あなたに従います」と条件を付けて、「今」は従わないという事です。それがイエス様に従うことを難しくさせている要因の一つであると思います。何故ならば、「これが片付いたら、このことが済んだら」と言っていたら、今なしていることはいったいいつ終わるのでしょうか。なすべき事は次から次へとあって、生活の中の責任を全うすることに終わりはないでしょう。イエス様は、ここで、自分と家族のためだけに生きるのではなく、神様のために生きなさいとおっしゃっているのだと思います。大切なのは、「今、ここから従う」という決断、決心なのだということをイエス様は導き出したいのです。

さて、三人目の人は、二人目の人とは違って志願者です。61節、「また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』」とあります。二人目の人と同じように、イエス様に従うことに条件を付けます。わたしたちも、そういう者だと思います。しかし、この人は家族に別れを告げるだけ許してくださいと頼みます。それぐらい良いではないかとわたしたちは考えますし、それぐらい許してくれても良いでしょうとイエス様の良心、寛容さに期待をしてしまいます。

しかし、イエス様はこの人になんとお答えになったでしょうか。「イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた」と62節に記されています。このイエス様の言葉を聞いた人の心は揺らいだでしょうか。揺らいだか、揺らがなかったかは記されていませんが、驚いたと思います。この61節と62節は、旧約聖書・列王記上19章19節から21節(旧p566)にある預言者エリヤがエリシャを弟子として召し出す出来事につながりがありますので、そこをぜひ読んでください。

エリヤがエリシャを召し出した時とイエス様が志願者に言った言葉で何が違うのでしょうか。エリヤはエリシャの願いを聞き入れましたが、イエス様は志願者の願いに対して「神の国にふさわしくない」とお答えになります。厳しすぎると思われるでしょうか。イエス様につまずくでしょうか。

しかし、「神の国にふさわしくない」とはどういうことでしょうか。ふさわしい人とは、イエス様の弟子として神の国の福音を宣教する人、神様と人々に仕えてゆく人のことで、イエス様の弟子になるには、家族の絆すら犠牲にしなければならないことが求められます。何故ならば、イエス様は父である神様との絆を断ち切って、罪を一身に負い、十字架という呪いの木に架けられて死なれたからです。そこにわたしたちの救いがあるからです。イエス様を信じて従うことは、イエス様がわたしたちの生活の中心となり、イエス様が中心であるということは、神様がわたしたちの生活・人生の中心となるからです。

「鋤に手をかけてから後ろを顧みる」とは、過去を振り返り、過去を引きずりながら生きてしまうということです。過去には良い思い出も、悪い思い出もあります。素晴らしい経験もあれば、辛い経験もあります。どちらにせよ、過去に囚われたままでは、イエス様に従って生きる力は決して与えられません。わたしたちに大切なのは、イエス様を救い主と信じ、過去から解放され、今から神様に向かって忠実に、人々に誠実に心から生きることです。それがイエス様の弟子として生きるということだと教えられているように思います。皆さんは、どのように感じられるでしょうか。