キリストと共に生きる

宣教「キリストと共に生きる」大久保バプテスト教会副牧師石垣茂夫       2024/01/21

聖書:ヨハネによる福音書1章35~42節(p164)

「はじめに」

今年の冬は、寒暖の差が大きいと感じますが、今朝のような寒さにも負けず、皆さまは礼拝に集っておられます。とても励まされます。

これは私事ですが、昨年末に十年ぶりぐらいで、風邪の症状になり、熱は低くいものの、咳が続くようになりました。長引くことを恐れて病院に行きましたところ、弱い感染症であるが、ウイルスではなく、見つけにくい、マイコプラズマという症状だという事が、二週間ほどして分かりました。

現在はようやく、平常の体調に戻ってきまして、今朝、このようにして講壇に立つことができました。皆様のお祈りに感謝します。有難うございました。

この礼拝では、お読みいただきました聖書朗読の箇所を少し広げ、「わたしたちと、主イエス・キリストとの出会いについて」、或いは「キリストの信仰を強め、信仰を持ち続けていくこと」、そのような内容でお話させて頂きます。

「ある日の青年の事」

今から8年くらい前になるでしょうか、暖かな日に、皆さんで教会の大掃除をしたことがありました。

不用品をどう処分するのか、どこを集中的に清掃するのかと、前もって計画して取り組みましたので、終わった時には、「大掃除をした!」という達成感が湧いてきました。

その日のことですが、ひとりの青年が、朝早くから、教会に来ていました。その方は、何も食べていなかったようで、河野家で朝食を出して持てなしていました。

食べ終わりました時に、「少し外に出ますが、礼拝の時間になりましたら戻ります」とわたしに告げ、一度外に出て行きました。その言葉通りに、青年は礼拝が始まる前に教会に戻って来て、礼拝を共にし、昼食も、皆さんと一緒に頂きました。

彼はわたしに、「午後は何をするのですか」と聞きましたので、「今日は大掃除です」と話しますと、「わたしも手伝わせてください。一緒にします。」と言われました。わたしの役目は、1階ホールの大きな窓の清掃でした。わたしはその青年と、合わせて三人で、窓の清掃に取り掛かりました。レールには、土埃が沢山たまっていて、汚れを落とすのに、長い時間がかかりました。三人の中では、初めて教会に来たその青年が、一番よく働いたと思います。

そうした掃除の合間にその青年は、いくつかのことを質問をして、わたしに話しかけてきました。

一番よく覚えている質問は、「信仰を持つということは易しいことなのですか」という質問です。

「信仰を持つことは易しいことなのか」。こう問いかけられましたなら、皆さまならばどうお答えになるでしょうか。わたしは暫く考えて、このように答えました。

「『信仰を持つことは易しいです』或いは、『信仰を持つことは難しいです』と、そのように答えることの方が難しいのです」と答えました。そして、信仰は、持ち続けることが大事だという話をしました。

やがてその青年は、「続けるのですか」と言って黙ってしまいました。その後、青年が再び礼拝に来ることはありませんでした。

後になって考えたことですが、

『信仰をもって生きていくという事は、易しくはないのです。喜びも大きいけれど、辛いこと、苦しいこともたくさん起きてきます』。

青年には、こう答えれば良かったのかなと思うことがありました。

信仰は、『持つ』という一言では表せないのでしょう。『持つ』というよりは、様々のことを乗り越えて、与えられていくものです』と、そのように言えばよかったと思いました。

今朝は、こうしたことを、頭の片隅に置いていただきながら、御言葉に導かれたいと願っています。

「主の道をまっすぐにせよ」

さて聖書朗読では、三月末まで朝の教会学校で扱います「ヨハネによる福音書」から、1章の35~42節(p164)を読んでいただきました。ヨハネ福音書に記された、主イエス・キリストと、最初の弟子たちとの、出会いの物語です。しかし、朗読していただいた個所だけでは、分かりにくいと思いまして、朗読の個所を中心にして、少し前の方、19節以下に範囲を広げてお話しします。

1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。

この35節に登場する「ヨハネ」とは、「バプテスマ(洗礼者)のヨハネ」と呼ばれた預言者です。

「ヨハネ」は、ヨルダン川に沿った荒れ野に住み、「救い主の到来が近い」と告げ、「悔い改めの洗礼バプテスマを受けよ」と伝え、集まってくる人々に「水のバプテスマ」をさずけていました。その噂はユダヤ全土に広まりました。

しかし、当時の多くのユダヤ人たちは、われわれに「バプテスマ」は必要のないと思っていたのです。

『我々ユダヤ人には、バプテスマの必要はない。我々は生まれながらにして神に選ばれ、既に救われている』と、そのように自ら認めていたからです。しかし、そのような時代にかかわらず、ヨハネが「救い主の到来が近い。悔い改めのバプテスマを受けよ」と叫ぶと、ヨハネのもとに多くの人々が集まって来て、バプテスマを受けました。この光景は、人々の注目を集めたことでしょう。

ヨハネの評判を聞いた人たちは、エルサレムの宗教指導者たちをヨハネのもとに遣わしてこう問いかけました。「既に救われたユダヤ人に対し、何故、悔い改めのバプテスマを迫るのか。今、なぜ悔い改めが必要なのか。そもそもあなたは、いったい何者なのか」と、ヨハネに問いかけていきました。

その日ヨハネはこのように応えています。「わたし自身が救い主なのではない。わたしの役目は、『まことの救い主の到来が近い』と、そのことを伝える『荒れ野で叫ぶ者の声』にすぎない。

わたしたちに求められているのは、『救い主の到来を迎える前に、救い主の通られるその道をまっすぐにする』という事だ」と答えています(1:23)。

1:23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

「主の道をまっすぐにせよ」とは、悔い改め、心を神に向けよという意味です。

この、「主の道をまっすぐにせよ」という出来事は、今のわたしたちも経験することです。

「天皇陛下が通る」となればどうするでしょうか。「大統領が通る」となればどうするでしょうか。いつも、事前に大変な警備や準備がなされます。ヨハネは、自分の役目とは、そのような、先触れの役目だ。「救い主の到来が迫っている」と、伝えるだけの者にすぎないのだと答えました。

そのうえで、メシアはすでに、「あなた方、みなさんの中に居られる」と、そのように告げました。

1:26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼バプテスマを授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。

1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」

そして間もなく、「あなたがたの中に居られる」と告げたように、「ヨハネ」は、集まっていた人々の中に、やがて救い主となる「主イエス」を見つけたのです。

1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。

「神の小羊」とは、神殿で、人の罪の身代わりとなる生贄の子羊です。

バプテスマのヨハネは、あなた方の中にいるこの方こそ、まことの救い主だと言いました。この方の到来を告げるために、わたしは荒れ野で叫んでいたのだと告白し、自分の役目の終わりが来たことを確信しました。そして、自分の二人の弟子を、主イエスの方に向かわせました。

1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。

二人は、バプテスマのヨハネに背中を押されるようにして、これまでのラビのもとを離れ、主イエスについて行きました。二人の弟子のうちの一人は、このあと、ペトロの兄弟アンデレだと記されています。

もう一人は誰なのでしょうか。様々な見解がありましたが、キリストの十二弟子の一人、ヨハネであり、この福音書の著者であるとされています。

1:38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、

 1:39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。

当時の事ですが、「ラビ」と呼ばれ、尊敬する指導者に教えを受けるには、その方に対して、「ラビ、あなたの家に泊まりたい」と言ったそうです。そして二人は、弟子となるために、主イエスと共に過ごすようになりました。

1:40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。

 1:41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。

読んでお分かりのように、二人の弟子は、アンデレの兄弟、ペトロのところに行き、「わたしたちはメシアに出会った」と言いました。

このようにして、主イエスに従う者が三人になりました。

やがて、主イエスはフィリポに出会い、「わたしに従いなさい」(1:43)と呼びかけます。そしてフィリポはナタナエルに出会い、彼をイエスのもとに連れていきました(1:45)。こうして主イエスの弟子は五人となっていきました。しかしこの物語が伝えようとしていることは、それで終わりではありません。

「見つける」

お読みしました35節から42節までの8節の言葉の中に、「見る」「見つめる」「出会う」という言葉が8語あります。これらの言葉はみな、「発見した」「出会った」という強い意味の言葉です。救い主に出会ったときの、彼らの感動が伝わる、深くて、強い意味の言葉です。

主イエスに最初に出会った二人は、迷うことなく、「わたしたちはメシアに出会った」とペトロに言いました。兄のペトロも彼ら二人と同じように、救い主を求めていたのでしょう。ペトロ二人に付いて行き、主イエスの前に立ちました。

42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

イエスは彼を見つめて」と書かれています。主イエスはペトロを「じっと見つめて」、ケファ「岩」という名を与えました。

不思議に思えてきますが、主イエスは、ペトロがアンデレたちに連れられ、ご自分の前に進み出てくる前から、彼、ペトロのことを知っておられ、心に留めておられたようです。ペトロが、何か特別なことをしていたり、特別な能力など、優れたものを持っていたからという事ではないようです。ここで大事なのは、ペトロがアンデレたちによって、主イエスのもとに連れて行かれたことが、最も重要なことになっています。

「誰かに導かれて」

わたしたちはそれぞれ、どのようにして主イエスに出会っているでしょうか。

どなたかに導かれなかったならば、未だに主イエスに気付かずにいる者ではなかったのではないでしょうか。

わたしたちそれぞれは、ペトロのように、他の人に声をかけて頂き、キリストに出会うことが出来たのではないでしょうか。

1月の月報には、「星野富弘アート展」の報告が載っています。その中に、河野先生のアイデアで一つのアンケートを試みましたが、その結果が載っています。アンケートは、写真のような大きな紙一枚でした。

「あなたは、星野富弘アート展を、どのようにして知りましたか」という、ただ一つの質問です。この写真が当日、一週間の記録です。皆さんが、快く応えてくださいました。

その結果、外部から来られた方の、実に70%が、「教会の方や友人に誘われて」と回答しておられました。

わたしたち教会の働きには、「友を、主イエスの前に連れてくる」、そうした働きこそ、主イエスは待っておられると、強く感じさせらた結果でした。

ペトロが体験したのは、主イエスの前に連れてこられ、そしてただ「主イエスに見つめられる」ということだけでした。主イエスに「じっと見つめられる」、それだけでした。

初めの五人の弟子たちの信仰はみな、そのようにして始まりました。

しかし、弟子たちの、その先の信仰の歩みどうであったでしょうか。

主イエスを「疑う事」がありました。「主イエスを怪しむこと」がありました。更には、「主イエスを裏切ること」がありました。「主イエスを見捨てて逃げ出してしまうこと」さえもありました。それでも主イエスは、彼らを赦し、ご自分がその傍に居られたのです。

この、弟子たちの姿、これは、まさに今日のわたしたちの姿なのではないでしょうか。

「見たことがないのに愛し」

今朝は、礼拝の初めに招詞で、ペトロの手紙一、1章8節が読まれました。

1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

この「ペトロの手紙」とは、ペトロが晩年になって、初期の伝道地であった、現在のトルコに当たりますアジア州の信徒たちに宛てて書いた手紙です(1:1~2)。使徒ペトロは、この地上で、直接主イエスにお会いし、主イエスに導かれ、主イエスと共に生きた、数少ない人物の一人です。そのペトロが、驚いてこう言ったのです。

『あなたがたは、キリストを見たことがないのにキリストを愛している。今見なくてもキリストを信じている。そして、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。』

ペトロはなぜ、遠い伝道地に、このような励ましの言葉を送ったのでしょうか。

それは、アジア州の信徒たちが、様々な迫害に遭遇し、苦闘していても、信仰を失うという様子がなく、むしろ大きな喜びに溢れていたからです。

ペトロは、その様子を聞いてこう思いました。

「わたしたち十二弟子は、実際に主イエスにお会いし、主イエスに導かれ、主イエスと共に生きて来た。しかし、そのような者が及ばないほど、あなたたちの信仰は強く素晴らしい」と驚き、喜んだのです。

わたしたちの信仰の歩みも、彼ら、アジア州の人たちと同じ道をたどっているのではないでしょうか。

1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

1:9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

わたしたちは、いつも主イエスに見つめられています。

わたしたちも主イエスを見つめて歩んでいます。

愛に溢れた、豊かな御言葉に導かれて、この一週の歩みを歩ませて頂きましょう。  【祈り】