ルカ(79) 神の宴への招きを断るなと云うイエス

ルカによる福音書14章15〜24節

前回の学びでは7節から11節に集中し、「いかに謙遜に生きるか」ということに重点を置いてしまいましたので、後半の12節から14節にあまり触れませんでした。ですので、今回の学びに入る前に、少しだけその部分を触れさせていただきたいと思います。

 

12節から13節には、イエス様を会食に招いてくれた人へのイエス様のアドバイスが記されています。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」とイエス様はおっしゃいました。

 

日本にも「お返し」の風習があります。「返礼」というものです。これはギブアンドテイクの法則に則っている風習ですが、何かを「与える」ことができる者同士の間で成立するもので、どちらかが「与える」ことができませんと、関係性は気まずいものになってしまいます。ある程度の資金を持っている人と貧しさの中にある人に差が出てしまいます。

 

イエス様は、与えることができる者同士で喜ぶのではなく、返礼ができない人たちに恵みを分かち合い、共に喜びなさいと言われます。ここでイエス様が教えたかったことは、神様と私たち人間の関係性です。神の国への招きは、神様からの招きがあって初めて成り立ちます。神様からのこの大きな恵みに返礼できる人は誰一人いません。ですから、いつも謙遜であるべきであり、罪の赦しと救いを代価なしに無償で与えてくださる恵みをただ感謝して受け取り、喜ぶことが大切であることをイエス様はここで教えておられるのです。

 

松木祐三という日本ホーリネス教団の牧師のルカ伝講解説教集を読んでいましたら、フィリップ・ヤンシーというアメリカの有名なクリスチャン著述家の『だれも知らなかった恵み』という本の一部が紹介されていましたので、皆さんにも紹介したいと思います。

 

「婚約していた若い女性が五つ星のホテルで結婚披露宴を計画していたのですが、婚約者の男性から結婚を白紙に戻すという連絡がありました。女性は披露宴の契約をしたホテルに行き、披露宴をキャンセルしようとしましたが、予約金は一割しか返却されないということが分かりました。そこで彼女はキャンセルしないで晩餐会を開くことにしました。ホテルの宴会担当者は、いったい誰を招くのだろうと不思議に思っていました。当日晩餐会にやってきた客人たちは、障がい者施設から来た人たちやホームレスの人たちで、五つ星ホテルの正装した従業員たちに給仕をさせ、このことは新聞記事にもなりました。」

 

その後に、松木牧師の「ヤンシーは、神様の恵みとはそういうものではないかと言おうとしている」という言葉が添えられていました。皆さんは、この話を聞いてどのように感じられるでしょうか。晩餐会の主催者が出席者を決めることができる、つまり神の国への招き・神の国での宴会に招かれるのは、神様が主権のもとに決定されるということです。

 

14節に、「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者

たちが復活するとき、あなたは報われる」とありますが、ここでイエス様がおっしゃっていることは、今生かされている「世の中」で、人から「お返し」を受けようと計算された善行に生きるのではなく、死を迎えた後、「神の国」で新しい命に生きるという大きな報酬を受ける約束に生きなさいと云うことです。ある書物に、「真の謙遜は計算せざる慎みであり、真の栄誉は予期せざる祝福」とあったことを思い出します。この世の人々からの評価が重要ではなく、神様の評価が最重要であると言うことだと思います。

 

それでは、今回の箇所である15節から24節に聴いてゆきたいと思いますが、その前にイザヤ書25章6節から10a節をぜひお読みいただきたいと思います。そこには、神様が祝宴を設けられ、すべての民が招かれるということが記されています。

 

ルカ14章15節に、「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」とあります。この問いかけに答える形でイエス様が大宴会の譬えを話されますので、おのずと「イエス様の言われる大宴会とは、神の国での食事会」と理解することができると思います。この客の言葉に対して、イエス様は「はい、そうですね」と答えることもできたと思いますが、一つの課題と言いましょうか、問題があることを指摘しようとして、一つの譬えを話されるのです。

 

その問題点というのは、神の国での食事会に、つまり神の国に人々は招かれているのに、神様の招きに応えない人があまりにも多すぎるということです。16節から読みましょう。「16そこで、イエスは言われた。『ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、17宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、「もう用意ができましたから、おいでください」と言わせた。18すると皆、次々に断った。最初の人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」と言った。19ほかの人は、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」と言った。20また別の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言った。』」とあります。

 

結婚式・披露宴には出欠を取り、招きに応じる人数によって主催者側は準備を周到に進めるのですが、中近東の晩餐式も同じように前もって日時が招待者に知らされるそうです。この譬えの背景には、招きに出席すると最初は意思を示したのに、2回目の最終的な招きを断ってきたということがあります。準備された晩餐会への出席を断るとは、これ以上失礼なことはなく、イスラエルとアラブ社会においては、一度了解したにもかかわらず、間近になって断るのは、今後いっさいお付き合いはしないという強い意味があるそうです。

 

さて、大宴会の招きを断ってきた3種類の人々の理由が記されています。18節に「すると皆」とありますので、断ってきた大勢の人たちの多種多様な理由の中から基本的な3つの理由をイエス様は挙げていると考えられます。それらを一つずつ見てゆきましょう。

 

最初の人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」と言ったとあります。この理由、よく考えますとおかしいです。何故ならば、普通は購入する前に下見をして、納得した上で買うはずです。土地を見ないで買う人はいないと思います。通常であれば、「畑を買いたいので、その土地を観に行かねばなりません」になるはずです。つまり、招きを断る言い訳・口実であったわけです。

 

ほかの人は、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」と言ったとありますが、これも同じですね。牛を購入する前に、牛の健康状態をしっかり調べて確認するべきです。畑を買った人と同じ言い訳にすぎません。

 

この人たちの共通点は、畑や雄と雌の牛を5組も購入できるほど財産を持った裕福な人たちであったということです。「財産のある者が神の国に入るのは難しい」とルカ18章26節にもありますが、神様からの招きを断っているのは、こういった裕福な人たちであり、このような人たちが自分から言い訳や口実を作って神の国に入ることを拒んでいるということが分かると思います。すなわち、神様が拒絶する前に、自分たちから神様からの招きを拒絶するのです。何故でしょうか。この世の富や力や幸いを求めているからです。

 

また別の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言ったとありますが、神様からの晩餐会への招待を断る理由は自分の結婚でした。他の理由として家庭、冠婚葬祭、仕事や商売、趣味などがあるでしょう。家族を大切にすることは、確かに大切ですが、その家族を与えてくださっているのは誰でしょうか。自分の生活のことで頭がいっぱいだから神様のことは横へ置くというのは良くないし、その選び取りによって、神の国での永遠の祝福はないということをイエス様は言っておられるのではないでしょうか。神様を最優先する先に、家族や仕事や生活の祝福があるということを覚えたいと思います。

 

21節から23節に、「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ』とあります。

 

宴会への招きを断るのは非礼でありますから、断られた側の主人が怒っても不思議ではありません。しかし、その主人は、広場や路地にいる貧しい人たち、身体にハンディを持った人たちを宴会に招きなさい、無理やりにでも引っ張って来なさいと僕に命じます。食事の準備はすでに完了し、祝宴の時が来ているからです。この主人は強引すぎるでしょうか。いいえ、招かれた貧しい人たちは、その招きを大変喜んだことでしょう。貧しく小さい存在である自分たちは招かれないと思い込んでいたでしょうから。最初に招かれ、その招きを断ったのは傲慢なユダヤ人たち、そして広場や路地で招かれて食事会の席に着いたのは、罪人や宗教的に汚れた者と扱われた人たち、そして異邦人たちと理解できます。

 

最後に、24節に、「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」というイエス様の言葉でこの譬えは終わっています。この「言っておく」という言葉は、将来を見据えた預言的警告です。つまり、神の国の祝宴に参加できるように、早く悔い改めて救いの招きに応えなさいという警告です。すべての人は、神の国へ招かれています。神の国の祝宴に今も招かれています。この招きを断る理由は何でしょうか。大切な家族、やり甲斐のある仕事、趣味や旅行、自分の夢や願い、色々とあるでしょう。あるいは、もう少し時間が必要と言うかもしれませんが、イエス・キリストを通して恵みとして与えられている神の救いへの招きを退けないようにしましょう。