ノア・晴れた日に箱舟を造る人

宣教「ノア・晴れた日に箱舟を造る人」大久保バプテスト教会副牧師石垣茂夫    2023/09/17

 

聖書:創世記 6章1~14節(p5~6)

「はじめに」

ある日主イエスが、「世の終わり」について、弟子たちに向けて、幾つかの話をしました。招詞でお読みしました箇所は、主イエスがノアと大洪水に触れて語りました言葉です。はじめの二節をもう一度お読みします。

 24:36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。

 24:37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。

ノアの時代の大洪水は、箱舟の外にいた生き物の、すべてが死滅するという、すさまじい出来事でした。

わたしたちの生活の身近で、大津波が起き、洪水や大地震が頻発し、各地で大火災が起きています。パンデミックの再来や核戦争の危機も、これまでになく高まって、わたしたちは不安を抱いています。

しかし主イエスは、マタイ24章のはじめで、こう言っておられます。

 

戦争や飢饉ききん、地震が起きるであろう。たとえ、そうした事態が起きても惑まどわされるな、それは産みの苦しみの始まりに過ぎない。『最後まで耐え忍ぶ者は救われる』と言われました。

続けて、『そしてこの福音は全世界に伝えられる。それから、終わりが来る』と言われました(24:3~14)。

どのよう方法で「福音は全世界に伝えられる」のでしょうか。そして何時、「おわり」が来るのでしょうか。

 

わたしたちは普段、「世の終わり」のことを、何のためらいもなく「終末」と言ってしまうのですが、日本語の「終末」という言葉には、とても暗い絶望的なイメージが付きまとっていると感じています。

そこでわたしは「終末」との言葉を、幾つかの聖書で調べてみたのですが、口語訳聖書に、ただ一回(Ⅰコリント15:24)使われているだけでした。他の聖書は皆、「おわり」或いは「世の終わり」となっていました。

そして、手元にあります英語の聖書を三つ調べてみたのですが、こちらは皆、「the end」となっていました。

何故「終末」ではなく「おわり」なのかと考えていたときに、思い出したことがありました。

わたしが高校生の時、英語の先生が「END」についてこのように話しました。「英語の“END”は、ただ“終わり”ではない。目的の成就じょうじゅ、目標が完成するという意味で使われる」と教えてくださいました。

聖書のギリシャ語辞書によりますと、「τελος(テロス)」は、「終り・目的・目標」とありました。「the end」は、原語に忠実な、深い意味の訳語であることを、改めて思い起こしました。

 

この日、主イエスは、弟子たちにノアの物語を思い起こさせています。いつの日にか、「神様の目的が成就する時が来る」という事を、弟子たちに知らせ、あなた方に求められているのは、「おわり」「the end」を知らされた者として、今を生きなさいと話したのです。

「世の終わり」は何時なのか。箱舟を造っている時も、箱舟に入った時のノア自身も、大洪水が本当に起きるのかどうか、それすらも半信半疑はんしんはんぎではなかったでしょうか。どのような思いで、晴れた日に、家族と共に黙々と箱舟を造り続け、箱舟に入る日を迎えたのでしょうか。

今朝は創世記「ノアの物語」から、「その日、その時」を教えられ、「おわり」を待つキリスト者として、どう生きるのかを、ご一緒に考えてみたいと願っています。

 

「原初史げんしょしの物語」

この夏、朝の教会学校で扱ったのは、創世記1章から11章です。専門用語ですがこの箇所を「原初史げんしょし」と呼び、「歴史」とは区別しています。紀元前6世紀の「バビロン捕囚」と呼ぶ、苦難の時代に編纂へんさんされたこの「原初史げんしょし」は、国が滅び、神殿が壊こわされ、神を見失って嘆くユダヤ人が、もう一度、自分たちの神とはどのようなお方なのかと見つめ直したときに、古い時代の伝承を基もとにして綴つづった、信仰のための文書なのです。

この「原初史げんしょし」によれば、人類はアダムとエバに始まりました。

ところが、創り主である神に背いた二人は楽園を追われ、小さな小屋とやせた土地、ひと群れの羊を飼って生活を始めました。ここで注目しなくてはならないのは、二人を追い出したはずの神も、一緒にその楽園を出てしまい、日々、アダムとエバと共に生きていくということです。

やがてアダムとエバには二人の息子が与えられ、カインとアベルと名付けました。この兄弟は、神に礼拝することを両親に教えられていたようで、捧げものを携たずさえては礼拝をしていました。

兄のカインは、あるときから、神は、自分よりも弟アベルの捧げものを喜んでいるのではないかと疑い始め、弟への怒りを増していきました。そしてついに、弟アベルを畑に連れ出して襲おそい、殺してしまったのです。

「弟アベルはどこにいるのだ」と神に問われたカインは、「わたしが弟の番人なのでしょうか」とうそぶきますが、間もなく、自分の犯してしてしまった罪の重さに驚き、怯おびえました。神は、殺人を犯した、このカインを裁かず、カインの命を守ります。

 

「ノアの物語」

そのようにして始まった人類の営みは、アダムから数えて10代目に、ノアの時代となりました。その十代という長い期間に、人の罪はより深くなっていました。その最大の罪は、神と人が同列に置かれて交わるという事でした。

6章を少しづつ読んでいきましょう。

6:1 さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。

 6:2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。

 6:3 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。

 6:4 当時もその後のちも、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。

 

この部分は、古い異教の伝承や神話に基づいて書かれており、ヘブライ人の持つ倫理、「神は神、人は人」という峻別しゅんべつが犯おかされています。それほどに、世の中が乱れてきたことを表あらわそうとしたのでしょう。

人間は自分の分ぶんを越えて、神々をも巻き込んで子孫をこの世に残そうとしたのです。そこで神は、人の寿命を「百二十年」と、短くしました。

「人の一生は百二十年となった。」(6:3)とありますが、人が罪に染まっていく有様を憂うれえた神は、人の生涯の限界を次第に短くして行かれ、120年としたのです。創世記5章を読みますとその様子がよく分かります。

 

「主は、心を痛められた」

5節と6節を読みます。

6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、

 6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。

6:7 主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這はうものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔こうかいする。」

忍耐し続けた神も我慢がまんの限界に達しました。

神は、人の生きる権利を取り上げて、世界をもう一度、新しく造り直そうと決心されました。

大洪水によって滅ぼさなくてはならぬほど、人の罪は深まってしまったと、神は「心を痛め」ながら決断しました。人が亡びることで、最も大きな苦しみを味わい、心を痛められ、悲しんでおられるのは神ご自身なのだと、聖書は伝えようとしています。

神は、人ばかりでなく、造られたものすべてが絶望的に腐敗していくように滅んでいくのを、見てはおれなかったのです。むしろ、造られたものたちの将来に、希望が宿やどることを望んで、大洪水という大手術を決意されたのでした。

 

「晴れた日に箱舟を造る人」

それではなぜ、ノアとその家族だけが洪水からの救いに導かれたのでしょうか。特別な理由はなく、8節に、ただ一言、「しかし、ノアは主の好意こういを得た」(6:8)とあるだけです。

口語訳聖書では、「ノアは主の前に恵みを得た」と表現されています。神によってノアが選ばれた理由は、一方的な神の選び、神の恵みだけだということです。

「ノアの物語」の最後、9章には、ノアが酒に酔って裸の恥を晒さらすという、恥ずかしい場面が描かれています。このようなノアを、「開放的な人だ」と理解する方もいますが、特別な人ではなかったということでしょう。ノアこそ、わたしたちと同じような、神によって救われ、癒いやされなくてはならない一人の人物ではなかったのかと思わされます(9:18~28)。

それでも9節には次のように書かれています。

6:9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢むくな人であった。ノアは神と共に歩んだ。

わたしたちは、個性的で特別な存在が評価され尊重される時代に生きています。そうしたことにも意義がありますが、わたしたちは、どのような人も皆、神の前に等しく置かれています。そのことを忘れてはならないと思います。

ノアは「無垢むくな人」と紹介されています。「無垢むくな人」とは、純真な人、混まじりけのない人との意味です。

神は、自分のパートナーとして、このような人物、ノアを選んだのです。

選ばれたノアは、この選びをどう捉とらえていたでしょうか。選ばれたものの、分からない事、納得できない事に包まれていたと思います。それでも、箱舟を造る決心をして、晴れた日が続く中、箱舟を造り続けました。

そのように、ノアは淡々たんたんと神に従い、神と共に歩んだ人でした。「神と共に歩む」とは、神と語り合いながら生きるということです。

 

11節以下を読みます。

6:11 この地は神の前に堕落だらくし、不法に満ちていた。

6:12 神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。

6:13 神はノアに言われた。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。

 6:14 あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。

 

そしてついに、ノアは、神の言葉に従って完成させた大きな箱舟に乗り込みました。

箱舟での一年に及ぶ生活はどのようなものであったでしょうか。

聖書にその様子は描かれていませんが、閉ざされた空間で、動物のにおいに悩まされながら長い日々を送ったと思います。箱舟での生活では、忍耐を必要とする様々な問題が起きたであろうと想像できます。

やがてノアを先頭にして家族が外に出たとき、ノアが最初にしたのは、主のために祭壇を築くということでした(8:20)。「祭壇を築く」とは「礼拝をする」ということです。

8:20 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。

なぜノアは地上に降り立った時、何を置いても、最初に礼拝をしたのでしょうか。

 

ある方は、地上に降り立った時、第一番に祭壇を築いたノアについてこう言っています。

『ノアは、箱舟の中から、地上で命を失っていくおびただしい人の、悲惨な情景を目にしていた。ノアも、自分こそ、彼らのように、「常に悪いことばかりを心に思い計っていると、神が言われる人間の一人にすぎないのに」、と思った。

ノアは、そのような自分が、明確に救われたと分かったその日、なぜ自分の様な者がは救われたのかと、その恵みの大きさに驚き、主の前にひざまずき、悔い改めないではおれなかった。それが祭壇を築いた理由であろう。』

そのように言っていました。

 

わたしたちにとって箱舟とは、教会であると言われます。

わたしたちは毎週のように、一週の内の最も良い時間帯に、時間をかけて教会に向かいます。

多くの人々が自分の楽しみにためにこの時間を使いますが、わたしたちは礼拝に仕えます。

自分の収入の中から献金を捧げ続けて教会を支えます。

そのようにしてまで、わたしたちは礼拝を守り続け、教会を形作っています。

 

ノアの捧げる礼拝を見た神は、ノアと新しい契約をしました。

8:21 主は宥なだめの香かおりをかいで、御心みこころに言われた。「人に対して大地を呪のろうことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度たびしたように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。

わたしたちは不安が満ちている時代の中で、神の導きを聴こうとして教会に集つどっています。その神は、独り子をわたしたちに送って十字架に付けるほど、わたしたちを愛してくださった神です。

わたしたちは、今朝、礼拝のはじめに、『そしてこの福音は全世界に伝えられる。それから、終わりが来る』とお聞きしました。そのように言われた主イエスと、そのお言葉を信じましょう。主イエスの父なる神と聖霊に導かれて、神様が用意してくださる「the end」に向かって、神と語り合いながら、希望を持って、この一週も歩ませて頂きましょう。

【祈り】