ルカ(4) マリアとエリザベトの出会い

ルカによる福音書1章39節〜45節

これまで、バプテスマのヨハネの誕生の予告とイエス・キリストの誕生の予告がされる箇所に聴いてきましたが、この二つの誕生の予告に共通した流れがあることをお話ししました。まず1)御使ガブリエルがザカリアとマリアに現れる、2)それに対して二人の恐れというリアクションがあり、3)その後に神の計画が伝達され、4)またその伝達に対する彼らのリアクションが記され、5)最後に神様がそれぞれにしるしを与えられるという流れです。ザカリアは神様のご計画を信じることができなかったので、息子が誕生するまで話すことができなくなるというしるしが与えられます。では、マリアの場合はどうであったでしょうか。

 

ガリラヤ地方のナザレという小さな町に生きるマリアという女性に御使ガブリエルが現れ、彼女を通して神の子イエス・キリストが誕生するという予告がされます。御使は言います。「おめでとう(喜びなさい)、恵まれた方。主があなたと共におられる。恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。」と告げ、マリアのリアクションをはさんで、その生まれ来る子がどのような人に成長し、神様に用いられるのかの説明がなされます。

 

その後、彼女に一つのしるしが与えられます。すなわち、マリアの「親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。」というしるしです。これは、「マリアよ、あなたの身にこれから起こることすべては神様の御心、ご計画である。神にはできないことは何一つない」、その神の御心が確かな事であることをこのしるしをもって自分で確認しなさいと言われたのだと思います。

 

マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言い、神様の御心に従うと答えますが、その直後からのいいなずけであるヨセフやマリアの家族たちとのやり取りには大変なことが数多くあったと思われます。皆さんもご自分の家族を思い浮かべながら、自分の家族や一族で同じようなことがあったらどのようなことが起こりうるだろうかと想像してみて頂きたいと思います。マリアはヨセフや家族にどのように説明したのだろうか、どのような困難なやり取りがあったのだろうか。そのような前代未聞のお家騒動がどのように落ち着いて行ったのか。神様がどのように関わったのかということはマタイによる福音書1章後半以外には記されていませんが、神様のヨセフへの言葉がありました。神様の介入と助けと導きがあったことは言うまでもないと思います。

 

多分、そのようなことが収束してからであったと思いますが、39節を見ますと、「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」と記されています。マリアは、ナザレから100キロ近く離れたユダのエルサレム近辺の山里にある町に向かいます。女性の足で100キロは大変であったでしょう。ましてや徐々に身体に変化があらわれる中、まだ安定期になる前に旅することを反対されたかもしれません。そこにも様々な人間模様があったのではないかと思いますが、御使が宣言した「主なる神があなたと共におられる」という言葉に励まされたのでしょうか、ユダの町に向かいます。その目的は、神様から与えられたしるしを確認するためであったと思います。確認して喜びたいと思ったでしょう。

 

彼女は、長い旅の後、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶します。二人は親類であったと記されているだけで、それまで面識や一緒に時間を過ごしたことがあるのかなど分かりません。初めての出会いであったのか、再会であったのか。(わたしはタイトルの付け方を間違いました)16・17歳ほどの女性から「年をとっている」女性への挨拶、初対面であれば少しは緊張したでありましょう。再会であれば、大きな喜びがあったでしょう。

 

しかし、マリアとエリサベトの二人の感情が出される前に驚くべきことが起こります。41節に、「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子が『おどった』」と記されています。正確には「跳びはねた」という意味の言葉が使われています。妊娠を経験された方々には胎児がご自分のお腹の中で動いたり、蹴ったりする実体験があると思います。男性には分からない驚き・喜びであると思います。

 

これは、エリサベトの胎内で成長している「ヨハネ(のちのバプテスマのヨハネ)」が、マリアの胎内に宿っている「神の子・イエス」を主なる神様の子、救い主であると認め、喜んでいることを表しています。これは凄いことです。ヨハネは生まれる前からイエス様を認めている。このヨハネとイエス様の関係性というものは、二人の母親が出会った時から始まっていたということ、それもすべて神様のご計画の中にあったことであることをわたしたちに示すことであります。

 

この出来事は、成人したヨハネとイエス様との関係を反映しています。すなわち、ヨハネはイエス様の先駆者として人々にイエス様が救い主・メシアであると紹介する使命を持ち、その働きを喜んで受け取っていたということが分かるようなエピソードです。

 

ヨハネは母の胎内で跳びはねることによって、自分の母親に「あなたの目の前にいる若い女性は神の子・救い主を宿している女性だよ!」と知らせた、つまりイエス様とその母親を紹介したのです。その後に、なんと書いてあるでしょうか。「エリサベトは聖霊に満たされた」と記されています。聖霊がエリサベトの心を大いなる感動で満たすのです。

 

わたしたちすでにイエス様を救い主と信じている者の役目は、イエス様が神の子であり、救い主であることを周りの人々に紹介することです。ただ知らせることです。わたしたちが知らせた後に、神の霊である聖霊がその人の中で働かれ、その人を満たします。その人は、聖霊に満たされ、励まされない限り、イエス様を救い主と認め、信じ、告白し、ほめたたえながら従うことはできません。

 

この出来事は、聖霊がここで働かれている、つまり神様が働かれているという証拠であり、救い主を認めさせ、感動と喜びを与えるのは神様であるということです。イエス様を信じ、従い続けるためには、この聖霊なる神様が日々の生活の中で必要です。この聖霊なる神様がわたしたちを守り、励まし、神様の愛で満たし、喜びと感動と平安を与えるからです。ですから、日々の祈りの中でご聖霊を求める祈りがわたしたちに大切なのです。

 

さて、聖霊に満たされたエリサベトは、マリアに対して何と言ったでしょうか。42節から45節にこうあります。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と。

 

このようにエリサベトに言わせたのは聖霊であり、つまり神様であられる。神様が「マリアは女の中で祝福された女性。主なる神様がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょう」とエリサベトに言わせた、だからマリアは神の子を宿した「聖なる母」、「聖母」なのだという見解を持つ人たちが現れ、信じるようになった人々がカトリック教会などにたくさんおられます。確かに、マリアの信仰と従順さは素晴らしいと思います。多くの女性が憧れにも似た感情を抱くのも理解できないことではありません。エリサベトからそのように祝辞を言われたマリア本人はどのようにエリサベトの言葉を聞いたでしょうか。また、彼女の胎内で神様にかたち造られていたイエス様は自分の母のことをどのように感じていたでしょうか。本当に祝福された人とは誰なのでしょうか。そして、この時代において「祝福されたる人」とは誰なのでしょうか。とても興味深いことだと思います。

 

イエス様が福音宣教を続けておられる中でエリサベトと同じようなことをイエス様に言った女性がいました。ルカ福音書11章27節にこのようにあります。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』と。エリサベトの言葉と重なります。しかし、そのような女性に対してイエス様はこのように答えられるのです。28節、「しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。』」と。

 

本当に幸いなのはマリアではありません。彼女は自分が最初に宿した息子が十字架に架けられて殺されるのを見るのです。母親にとって、それほどまでに悲しく辛いことはありません。幸いな母は、悲劇の母でもあるのです。しかし、イエス様の十字架の死はわたしたち一人一人のための贖いの死でありました。このイエス様の、神の子の贖い無くして、わたしたちは誰一人として罪の赦しを受け、救われることはなかったのです。

 

本当に幸いなのは、この神の子が自分の罪のために十字架上に死なれ、自分の罪の代価をすべて支払ってくださり、わたしは罪赦され、救われているということを信じ、その神様の愛と憐れみを感謝して受ける人です。イエス・キリストという神の言葉を信じ、聞き続け、イエス様に従い続ける人、イエス様の言葉を守り続ける人であるとイエス様はおっしゃいます。信じ続け、聞き続け、従い続ける力を与えてくださるのも神様であり、その力はイエス様とご聖霊から来るのです。その力を今日も求め、日々求め続けましょう。