ルカによる福音書10章1〜7節
ルカによる福音書の学びも10章に入りますが、最初に興味深いことをお話しします。まず8章1節に「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」とあり、ここではイエス様が福音宣教の主役で、弟子たちはイエス様の宣教といやしの業を見ている状態です。けれども、次の9章1〜2節では、「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために」遣わしたと記されており、イエス様から訓練を受ける中で、宣教の主役は十二弟子となってゆきます。
そして今回の10章1節では「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあります。神の国を宣べ伝える人数が一人から、十二人、そして七十二人へと拡大してゆきます。福音を必要としている人の数が圧倒的に多いことを示し、福音宣教の働きは、限られた人たちだけでなく、みんなで共に担って行くこと、イエス様を信じる者たちが宣教の主役であることを教えています。その中の一人が「わたし」であることをここから知り、主と共に歩んでまいりましょう。
さて、1節の初めに「その後」とありますが、これは9章52〜56節にある出来事、つまりイエス様が派遣した弟子たちをサマリアの人たちが拒否した後ということです。弟子たちを拒否・拒絶したことイコールイエス様を拒絶したことであり、それはつまりイエス様を遣わされた神様を拒絶したということです。イエス様は差別なく、全地をくまなく行き巡って神の国の福音を宣べ伝えます。イエス様を喜んで受け入れ、信じる人たちがいる一方、イエス様を歓迎しない人たちもいます。すなわち、イエス様を信じるわたしたちも謙遜に差別なく人々に仕えて行っても拒否されることがあることを覚える必要があります。
さて、「主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあります。イエス様には行きたい所がまだたくさんあったことが分かります。しかし、イエス様はエルサレムへ向かう必要があったので、弟子たちを派遣するのです。そして弟子たちを二人ずつ派遣します。なぜペアで派遣するのか。それは申命記19章15節後半に「二人ないし三人の証人の証言によって、そのことは立証されねばならない」とあり、ユダヤ社会では一人の証人によって立証されることはなく、いつも二人で行動することが定められ、習慣化していたからです。何事も二人のほうが心強いですね。
さて、新共同訳聖書と口語訳聖書では、イエス様が任命した数は72名ですが、新改訳聖書とリビングバイブルと現代訳聖書では70名と数が違います。これは日本語訳に翻訳する際にそれぞれの翻訳チームが使用した聖書の「写本」が違っていたことに要因があります。写本によって、この人数が70人、72人と違うのです。どちらが正しいのかという問いかけがされるでしょうが、先ほど言いましたように、「宣教はみんなでする」という基本方針が重要なので、そこまで数に関してはそこまで厳密に考える必要はありません。
イエス様に任命され、派遣された弟子の数が70人であれば、それは創世記10章(旧p12)に記録されている大洪水の後に残ったノアの子孫、セム、ハム、ヤファトから出た70部族からその数は来ていると考えられます。そうなると、この地上のすべての氏族、言語、地域、民族へ出て行って、神の国の福音を伝えるためにそれだけの数の弟子たちがイエス様によって任命されたという捉え方ができます。ですから、全世界へ出て行って福音を宣べ伝えよというイエス様のご命令にも納得がゆきます。
もしイエス様によって派遣された弟子の数が72人であれば、それは民数記11章24節から30節(旧p232)に記されているモーセによって集められ、幕屋の周りで預言をした70人の長老と宿営で預言した2人の長老を合わせた数から来ていると考えられます。
預言とは、神様からの語りかけを聞いて、その神の言葉をそのまま民衆に伝えるということですから、イエス様によって派遣される弟子たちは、70人であれ、72人であれ、わたしたちイエス様の弟子はイエス様の言葉を人々とストレートに分かち合うことが宣教であり、神様の愛を分かち合うために派遣されているということを覚えたいと思います。
「宣教・伝道」といっても、何か特別な業を成し、特別な言葉を言わなければならないと考える必要はないと思います。確かに積極性も必要ですが自然体でいることが大切です。イエス様を通して神様に愛され、生かされている喜びと感謝をその生き様で表し、人々に分かち合ってゆくことが大切です。弟子たちは、イエス様が成したこと見て、語られた言葉を聞きました。同様に、日々の生活の中で神様とイエス様が成してくださる業を見たこと、聖書や宣教から自分に語りかけられこと、聞いたことをそのまま周りの人に伝え、日々受ける恵みを惜しみなく分かち合う積極性があれば良いと思うのです。
宣教は、正確にはイエス様の業です。イエス様が働いて神様の愛を示し、わたしたちはその後についてイエス様の業のお手伝いをする、それが宣教だと思います。自分が宣教・伝道すると考えると何もできなくなると思います。イエス様が働かれる、聖霊が働かれる、その後に従って生きてゆけば、自然と神様の愛、イエス様を分かち合うことができるでしょう。そして「どうしてそんなに前向きに、喜んで生きられるの」と人から尋ねられた時には、「わたしはイエス・キリストを救い主と信じています」と笑顔で答える、それが神様の愛に生かされている日常的な生き方、神様の愛を分かち合うことであると信じます。
2節でイエス様は弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言います。神の国の福音、神様の愛を必要としている人の数は莫大ですが、分かち合う働き手の数が圧倒的に少ないので、神様に働き手を祈り求めなさいとの指示です。今も必要な祈りです。しかし、3節前半の「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす」がわたしたちに向けられていることを覚え、イエス様の言葉に背中を押されて派遣されていることを覚えたいと思います。
イエス様は、弟子たちを派遣することは「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言います。イエス様が拒絶されるように、その弟子たちもこの世から敵視され、拒絶され、危険にさらされ、苦しみに遭うことが示されますが、イエス様の存在を伝えることが神様の愛を分かち合うことであり、「神の国が近づいた」こと、イエス様の愛によって支配される時が来たことを知らせることが大きな祝福へとつながる約束が与えられています。
イエス様は弟子たちに「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな」と4節で命じています。十二弟子たちを派遣する際にもイエス様は同様なことを命じました。ここから三つのことをお伝えします。1)まず弟子たちが派遣されていく人々は病いを負った人々とその家族であり、何も持っていない貧しい環境に置かれた人々であります。ですので、そのような人々の中に入って行って、仕えるためにも「財布も袋も履物も持って行ってはならない」とイエス様はお命じになります。
2)わたしたちは、旅行に行くとき、何かの時のために、不測の事態のためにも「お金の入った財布、衣類が入った袋、換えの履物も持って」行きたくなりますが、イエス様はそれら一切を持ってゆくなと弟子たちに命じます。それは、「すべての必要を満たしてくださる神様にのみ信頼すること」を教えるためにイエス様はそうお命じになります。物質的な物にあふれる社会の中で生きているわたしたち、余分なものを持っていないと不安になってしまうわたしたちは、物に頼りすぎていて、手にある物を偶像化してしまうことがあります。しかし、教会も同じであってはなりません。神様にのみ信頼してゆく、神様のお守りと祝福の約束の言葉に信頼して生きてゆく、それが信仰生活なのだと思います。
3)さて、イスラエル・パレスチナのある中東の挨拶は、わたしたちの考える会釈ほどの挨拶ではなく、立ち話以上、世間話に花を咲かせるほどの長さが普通の挨拶であったそうです。そうなるとイエス様から託された大切なことを後回しにさせてしまうことになります。ですので、「途中でだれにも挨拶をするな」という命令は、イエス様の言葉、福音を伝えることが弟子たちの使命であることを忘れるなということ、つまり世間話ではなく、日々出会ってゆく人々に神様の愛を分かち合いなさいということが言われています。
さて、続く5節から7節には、弟子たちが派遣されて行く先々でどこかの家庭に滞在する時になすべきことが記されています。まず5節と6節に「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる」とあります。ここに「平和」という言葉が4回(原文では3回)用いられています。ここで言われている「平和」とは戦争がない状態を表す平和ではなく、神様との平和を得ている状態、何にも代え難い「救い」を得ているということです。ですから、福音を宣べ伝えることは、神様と平和を得る道を示すことであり、人々を救いへと導くことなのです。
すべての人は、神様との平和が必要です。それは、すべての祝福は神様から来るからです。しかし、神様に背を向けたままでは、神様を神と認めないで罪の中に生き続けていては神様の祝福を受けることはできません。イエス様を通して神様につながらない限り、部分的に祝福があっても、準備されている祝福をすべて受けることができないのです。ですから、イエス様は「わたしを信じ、わたしにつながりなさい」と招かれるのです。そういう意味で、「この家に平和があるように」という言葉は、神様を信じ、平和を得て、救いを得なさいという招きであると聞こえてきます。もし神様との平和を求める者がその家にいるなら、神様の愛と平和と救いはその家にとどまります。もし、救いを求める人がいなければ、神様の平和は弟子たちに戻るとイエス様は言われます。
最後に7節です。「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな」とあります。弟子たちはユダヤ人たちでしたが、これから出会ってゆく人々のほとんどは異邦人です。それぞれの文化・宗教の背景の中で食物規定があるでしょう。だからこそ、そこで出される物を食べ、また飲みなさいとイエス様は言われます。弟子たちが人々の文化や食文化を拒否したら、自分たちが差し出そうとする福音も拒否されるでしょう。だから食べ飲むのです。
「働く者が報酬を受けるのは当然」とは当時の格言であったそうですが、福音という素晴らしい祝福を人々に分け与える恵みを弟子たちはイエス様から受けているのですから、福音・平和・救いという祝福・恵みを分け与えられた人たちから感謝を受けても良い、遠慮せずに、その恵みへの応答を感謝して受けなさいということです。
ただ一つだけ、弟子たちがしてはいけないことがあります。それはより良い歓待を受けるために「家から家へと渡り歩くな」ということです。