ルカ(56) 聖霊によって喜び溢れるイエス

ルカによる福音書10章17〜24節

今回の箇所は、一回読んだだけでは理解するのがかなり難しい箇所なのですが、テーマはシンプルに「喜び」です。ただ、喜びと云っても色々あります。ここでの「喜び」とは、神様から与えられる幸い、神の霊である聖霊によって与えられる幸いです。その幸いをただシンプルに、単純に喜ぶということが大切なのだと感じています。

 

イエス様は、神の国が近づいたという福音をまずユダヤの地に伝えるために12弟子を派遣しました。その後、72人の弟子たちを選んでユダヤ以外の異邦人の地に派遣しました。その時、イエス様は弟子たちに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになりました」(9章1節)。イエス様は、父なる神から与えられた「力」を弟子たちに与えられました。それは神様の御心を行うための力です。

 

神の国が近づいた、あなたがたに救いが与えられるという具体的なことを示すために、人々がその福音を素直に信じ、すぐに受け取るために、弟子たちに「病人をいやす」という目にみえる「可視的」な業を行うように命じます。この行為は、まやかしでも、エンターテイメントでもありません。神様が本気で人々に救いを与えようとする愛の業です。

 

さて、本来イエス様ご自身が行くつもりであったけれども、エルサレムへの十字架の道を歩む時が来て、行けなくなってしまった町や村に72人の弟子たちを二人ずつペアにして送り出したのですが、今回の学びではその彼らが任務を終えてイエス様のもとに戻ってきて、喜びの報告をする部分とイエス様がそれを喜ばれたという二つの部分から大切なことを共に聴きたいと思います。

 

そしてここから、わたしたちは何を喜ぶべきか、という事と弟子たちのためにイエス様は何を喜んでくださったかのかという事を学び、喜びに満たされたいと思います。難しい箇所ですので、十分に真理をお伝えできるか分かりませんが、聖霊の力と導きにお委ねしたいと思います。

 

まず17節に、「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。』」とあります。ここで弟子たちはイエス様のことを「先生!」とではなく、「主よ!」と呼んでいます。イエスの名によって成した業、いやしの業がすべて成功し、そのイエス様の名に人を救う大きな力があることを経験したのでしょう。また、彼らが旅先で経験したすべては、イエス様が「主」であり、「救い主」であることを力強く指し示したと思われます。イエス様の名によって、彼らは旅先で日々作り変えられていったのです。

 

わたしたちが作り変えられていく方法も一つしかありません。それはイエス様のお言葉を聞いて、お言葉どおりに生きることです。そのように生きる時に神様の愛の力を生活の中で体験することができ、イエス様を信じ、神様を信じる信仰が育まれるのです。

 

「悪霊さえもわたしたちに屈服します」とありますが、誤解を招く言葉です。ここで勘違いしてはならないのは、悪霊はイエス様の御名の力に、イエス様の御力に服従・屈服したのであって、弟子たちに服従したわけではありません。イエス様から悪霊を追い出し、病をいやす力、神の御心を行う力を授かったので、主イエス様から委ねられたことを成して成果を上げることができたのです。いつも謙遜に生きるべきです。

 

イエス様は18節と19節で、「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」と言われます。ここには興味深いことがたくさん記されていますが、もっとも大切なのは、先ほどお話しした主イエス様が弟子たちに敵のあらゆる力に打ち勝つ力・権威を授けたから弟子たちは御心を行えたということが一つ。もう一つは、神様、主イエスの言葉、聖霊が弟子たちを守ったから、彼らはすべての危害から守られたということです。

 

興味深いのは、神に敵対する存在をイエス様は「サタン」と呼んでいます。20節では「悪霊」という呼び方もしています。サタンと悪霊の違いを分かりますか。サタンは親分で、悪霊はその手下です。「蛇やさそり」も神に敵対する力の象徴と考えられていましたのでここに出てきますが、手下の悪霊どもが地上で主イエスの御名によって撃破されているので、その親分のサタンが天から稲妻のように落ちるのを見たとイエス様は言います。それは、神様の勝利であり、とても喜ばしい勝利です。

 

しかし、イエス様は20節で、72人の弟子たちに対して「糠(ぬか)喜びしてはならない」と注意喚起します。「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言います。この主の言葉には、いったいどういう意味があるのでしょうか。

 

悪霊が自分たちに服従したということを間違って捉えると、自分たちに大きな力がある、自分たちが大きな業をしていると勘違いし、傲慢になってしまう危険性が増します。そういう傲慢さが本来心に持つべき「真の喜び」を締め出してしまいます。語弊が生じるかもしれませんが、悪霊は所詮、サタンの手下なのです。手下に勝っても、親分に負けたら意味がない。しかし、イエス様が十字架の死を通して「罪」に勝利して、そして神様がイエス様を甦らせることを通して「死」に勝利し、神様の愛から引き離すサタンの力に勝利したのです。すべてのしがらみから解放されたことを喜ぶことが生きる力になります。

 

わたしたちが日々の生活の中で常に覚えて感謝すべきことは、自分は神様の深い憐れみの中で救われて、生かされているということです。神様から恵みが与えられているということです。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とは、悪霊を追い出したと今に満足して喜ぶことではなく、宣教している神の国にあなたの名が記され、祝福されていることを覚えて生きなさいということだと思います。つまり、あなたがたがすでにイエス様によって救われていることを素直に喜ぶことが神様に仕え、わたしの弟子として人々に仕える大きな力になるということをここで教えたいのだと思います。

 

さて、今回の学びの後半である21節以降を読み進めて行きましょう。端的に、21節と22節は、父なる神様へのイエス様の喜びと感謝の言葉です。23節と24節は、弟子たちへの祝福の言葉です。神様の愛の業を素直に、ひたすら喜びなさいという励ましの言葉です。

 

「イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。』」とあります。わたしたちを真の喜びで満たし、神様を心からほめたたえさせてくださるのは、神様の霊・聖霊だけです。この聖霊は、イエス様を救い主と信じて、神様に心を開く人々に与えられます。そこから、生かされている喜びが湧き出し、神様とイエス様を賛美する力が溢れ出します。祈る喜びも同時に与えられます。

 

さて、イエス様は「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」と言っておられます。

 

「これらのこと」とは、ガリラヤの地で宣教を始められた当初から行ってきた福音の宣教、悪霊を追い出すこと、病気をいやすことですが、そういうイエス様の業の意味と目的を知恵ある祭司たちや賢い律法学者たちには理解できませんでした。

 

しかし、幼な子(乳飲み子)のような純真な心を持ち、救いを求める人たちにイエス様は神様の愛を示され、それは神様の御心に適うことでしたと言っています。このイエス様の言葉に通じるのが、第一コリント1章18〜21節にある使徒パウロの言葉です。各自読んでみてください。

 

次の22節に、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」とあります。どういう意味でしょうか。

 

簡単に言いますと、1)救いの業(十字架での贖いの死)は父なる神様からイエス様にすべて委ねられていること、2)神様にしかイエス様が地上に遣わされたご計画・目的(罪の贖い)は分からないこと、3)その御心を知る者はイエス様とイエス様を救い主と信じる者のみということです。神様への信頼、イエス様への信仰なくして理解できないことです。

 

神様がイエス様を通してわたしたちを罪と死のしがらみから解放し、救い、恵みへと招いてくださるその真意、御心、ご計画は、人知では計り知ることができないほど遥かに大きくて、わたしたちにはよく分かりません。ただ神様に憐れまれ、罪赦され、愛と恵みの中に生かされていること、弟子として神様と隣人に仕える働きへ招かれていることを純粋に喜び、心から感謝することがもっとも大切なことではないかと示されます。

 

23節と24節は、そこに通ずると思います。イエス様は弟子たちを祝福し、「愛の神様の存在を素直に喜び、ひたすら従いなさい」という励ましの言葉だと思います。「イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。』」とあります。

 

「彼らだけに」、「あなたたちは幸いだ」とイエス様は言われます。祝福を神様から受けられるのは、イエス様を救い主と信じ、イエス様の十字架と復活を信じる信仰を通して神様につなげられた人たちだけなのです。イエス様によって罪清められたことを信じる者が、聖なる神の祝福を受けることができます。

 

まだ罪に支配され、罪の中にある人は、祝福を受け取りたくても神様との関係性が切れているので、受け取る術がないのです。受け取る術は、イエス・キリストを救い主と信じて、神様に再びつなげられることです。それも神様から一方的な憐れみの業、救いなのです。

 

最後に、24節で「言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」とあります。

 

旧約の時代の人々、預言者や王たちは神様をその目で見たかったし、神様の言葉を実際に聞きたかったのです。しかし、新約の時代、神の国が近づき、神の子イエス様がこの地上に遣わされて、初めてまみえることができ、福音の宣べ伝えを聞き、イエス様が神様の愛を具体的に示してくださり、イエス様自らが救いへと招いてくださるので、その招きに応え、イエス様を信じて歩む者は幸いなのです。