ルカによる福音書11章1〜13節
ルカによる福音書の学びも11章に入ります。今回の1節から13節は、「イエスはある所で祈っておられた」という言葉で始まります。この言葉を聞いてすぐにピンと来る人はすごいと思います。何故ならば、そのよう人は、ルカによる福音書では、イエス様が祈られる時、その後に続くことがイエス様にとって次のステージに移行してゆく重要な時期か、弟子たちや群衆に非常に重要なことを教えられるかのどちらかであるからで、そのことをすぐに察知しているからです。今回の重要な教え、それは祈りに関することです。
ある場所でイエス様が祈っておられ、その近くで弟子たちがイエス様を待っていたようです。待っている間に、自分たちもイエス様のように祈りの人になりたいという強い思いを抱いたのかもしれません。イエス様が祈り終わると、「弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った」とあります。バプテスマのヨハネが自分の弟子たちにどのような祈りを教えていたかは不明です。しかし、ここから分かるのは、ヨハネも祈りの人であって、弟子たちに祈ることを教えられたという事です。祈りは、信仰者にとって呼吸と同じように重要なことです。
祈りは、神様と個人的につながり、神様と親しく会話をすることです。神様以外の誰かに「聞かせようとする祈り」は祈りではなく、空中回転する独り言、パフォーマンスです。しかし、誰かと一緒に神様に祈る時は、一緒にいる人たちにはっきり聞こえて、「アーメン」、「はい、その通りです」と言い合える配慮と関係性が大切です。一緒にお祈りをしているのに、その言葉が聞こえないと一緒に祈る人たちにストレスをかけてしまうことになります。また、祈りは神様との会話ですので、自分の思いをただ言い放しにするだけでなく、神様の御声を聞こうとする姿勢が大切です。そのような祈りは、神様と一対一の会話の中で深めてゆけば良いことで、「ある場所でイエス様が祈っておられた」ということからも、一人の祈りの大切と、信仰の友との祈りの大切さが分かると思います。
さて、2節から4節までは、イエス様が弟子たちに教えられた祈り、「主の祈り」と呼ばれる部分です。わたしたちも、礼拝や祈祷会などで、心と声を合わせて共に祈ります。同じ言葉で一緒に祈れることは、全体に一致をもたらし、心に平安が与えられます。
まず2節に、「そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい。 「父よ、 御名が崇められますように。 御国が来ますように。」とあります。あなたがたが神様に祈る時、「父よ」と呼びかけなさいとイエス様は励まします。これは当時としては、とても驚くべき招きでした。何故ならば、当時の祭司の祈りは、「天地の造り主、すべてを治める神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、民をエジプトの苦役から救い出し、約束の地に導きたまいし神・・・」というような言葉をつけて、神という存在を手の届かない遥か遠い所におられる存在のようにして、祭司である自分たちしか神様にアプローチできないというイメージをイスラエルの民に与えるような祈りかたをしていました。
しかし、ここでイエス様は、神様を「父よ」と呼びかけなさいと弟子たちに言われます。当時使われていたアラム語の「アッバ」という言葉です。「お父さん、お父ちゃん」という父親に対する子どもの信頼心、愛情の表れの呼びかけです。この呼びかけには二つの側面があります。一つは、神様というお方は決して他人ではない、あなたを創り、日夜愛してくださり、生かしてくださる方であるから、愛と親しみを込めて神様を「お父さん」と呼びなさいと招かれている側面。もう一つの側面は、神様はわたしたちをご自分の子として見てくださり、親しい関係を持ち続けたいと切に願っておられるということです。この二つの側面を一つに実現してくださったのがイエス・キリストであり、聖霊です。
イエス様は、十字架上で贖いの死を遂げてくださることを通して、神様とわたしたちの関係性を清めて、正しくしてくださいました。その事実を信じる者に神様は聖霊を与えてくださいました。この聖霊について、使徒パウロはローマ書8章15節と16節でこう書き記しています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と言っています。神様を「アッバ、父よ」と呼べるのは、イエス様と聖霊が神様の愛の豊かさを教えてくださり、神様の親近感を感じさせてくれるからです。
次に「御名が崇められますように」と祈りなさいと教えられています。これは、わたしたちがいつも神様を礼拝し、神様の御心に適ったことを行うことができるように聖霊の助けと豊かな導きを祈り求めなさいということです。聖霊の助けなしに、わたしたちは自分の力だけでは礼拝をすることも、御心に適ったことも出来ない、いつも主なる神様により頼む純真な心を求めなさいということであると思います。
次に「御国が来ますように」と祈りなさいと教えられています。御国とは、神様の「ご支配」です。あなたがわたしのすべてを、わたしたちのすべてを力強く導いてください、その導きに従うことができるように助けてくださいという願いをしなさいということです。わたしたちの人生の舵取りは神様がしておられるのであって、わたしたちではないことを認め、神様のご支配の中に生きてゆきますという願いと信頼の言葉であります。
続く3節から4節の神様への願いは、「わたしたち自身のこと」を祈りなさいということで、遠慮することなく、自分のためにも祝福を祈りなさいという招きです。3節の「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という願いは、生きるために必要なものを日毎に与えてくださるのは神であるという信頼を込めた祈りです。三日先、一週間先の物質的な必要まで満たして欲しいという願いではなく、神は日毎に、その日の必要をその都度満たしてくださる、そのように信じて祝福を祈り求めなさいということです。
4節の「わたしたちの罪を赦してください、 わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という祈りは、赦すから赦して欲しいという交換条件ではなく、父なる神様がすでにわたしの罪を赦してくださっているから、その恵みへの応答、感謝のしるしとして、わたしに対して負い目のある人をわたしも皆赦します。あなたがわたしを赦してくださるように、わたしも隣人を赦すことができるように憐れんでくださいという祈りです。
「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」という祈りの「誘惑」とは、試練や終末の苦難も含まれますが、その様な誘惑が来ないようにしてくださいという祈りではなくて、誘惑が来てもそれに陥ったり、負けたりしないように助けてくださいと求める祈りです。イエス様の受難の時、弟子たちはこの誘惑に負けて散らばってしまいますが、誘惑が来るもっと前から神様に祈り続け、その祈りを習慣化させなさいと招かれていると思います。
さて、続く5節から8節は、懸命に祈ることを教える譬えです。「5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」とあります。
中東では日中は暑いため、夕方から夜にかけて移動することが多く、夜中に目的地に着くということがあったそうです。旅をしている友が立ち寄ってきたが、この友に食べさせるパンをこの人は準備していませんでした。しかし、空腹な友のことが可哀想で、近隣の友だちのところにパンを借りに行きました。しかし、友はもうすでに家族たちと一緒に床について対応できない、諦めて帰れと言います。普通の人はここで諦めて帰ってしまうでしょう。しかし、空腹な友のことを思い、諦めずに食い下がって祈るなら、執拗に願い求めるならば、必要なものは与えてくれるであろうという譬えをイエス様はここで話します。神はケチで食い下がらないと応えてくれないという譬えではなく、祈りがすぐに聞かれなくても、簡単に諦めるな、友の魂の飢えを満たすために最善を尽くせということです。
9節と10節に、「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」とあります。「求めて」も、すぐに答えが得られない時があって苦しむことがありますが、「求める」ことをさらに一歩踏み込んだ「探す」ということをして、それでも与えられないならば、「門をたたきなさい」と励まされています。これらは、隣人を愛する時、仕える時の祈りであって、自分を愛し、自己を満足させるための祈りではないことを覚えておきましょう。
だからと言って、自分のために求めてはいけないということではありません。もしわたしたちの祈りが神様の御心に適ったことであれば、「了解」と言ってすぐに必要を満たしてくださるでしょう。もし御心が他にあるならば、「いいえ」と言って、もっと必要なものを与えてくださるでしょう。今受けることが神様の御心でないならば、「もう少し待ちなさい」と言って、最善なものが絶妙なタイミングで与えられるでしょう。
しかし、わたしたちがひたすら神様に求めなければならない祝福、最も重要なものとは何でしょうか。愛してくださっているわたしたちにいつも最高のものを与えてくださるのが神様です。わたしたちが絶えず求めるべきもの、わたしたちの地上での生活の中で最も重要なもの、それ「神の霊、聖霊」であることを11節から13節でイエス様は教えています。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」とあります。
「蛇やさそり」はユダヤ社会、特に文学においては、人に加害を与える物としてだけでなく、人と惑わし、苦しめる「悪霊」を象徴します。悪人である父親であっても子どもにそういうものを与えないように、天の父なる神様、愛の神様は悪霊を追い出し、祝福を与える聖霊を与えてくださるとイエス様は言われます。その聖霊を祈り求めさない、いつも共に聖霊の守りと導きの中で暮らしなさいと祈りと聖霊と共に歩む祝福へと招きます。
何故でしょうか。次回に続く箇所は、悪霊との対峙、霊的戦いには神様の霊、聖霊が必要であるから、その備えを今ここでして、祈りによっていつも戦いに備え、父なる神様との関係性をさらに深め、強め、神様に信頼しなさいと励ましてくださるからです。