恵みの日を無駄にしない

「恵みの日を無駄にしない」 七月第五主日礼拝 宣教 2023年7月30日

 コリントの信徒への手紙二 6章1〜10節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。教会の皆さん、お帰りなさい。ゲストの皆さん、ようこそ大久保教会へ。心から歓迎いたします。早いもので、7月も今日を含めてあと二日、火曜日から8月に入りますが、連日真夏日が続いています。今週も災害級の猛暑になるということですが、そのような中、今朝も教会へ帰ってきてくださり感謝です。皆さんのお顔を拝見するだけで、大いに励まされます。今朝もご一緒に賛美と礼拝をおささげすることができて感謝です。

 

昨日、どうしても外出しなければいけない用事がありましたので、日中に外に出ましたが、たくさんの植木が葉焼けしたり、干からびて、死んだような状態でした。植物に必要なだけの水分が地面や植木鉢になく、水を吸い上げることができません。陽射しの強さで弱っている様子を見て、かわいそうに思いましたが、この礼拝堂や教会内の植物も、少し油断をして水を上げるのが遅くなると、すぐにヘタってしまいます。今週は、水曜日から金曜日までユースキャンプの奉仕で出かけますので、植物はすべて一階ホールに避難させて、庭の植物にもたっぷり水を与えて出かけたいと思います。すべての植物には、丁寧なケアが必要です。

 

同様に、わたしたちにも魂のケア、心配りが必要です。そのケアリングは一人の仕事ではなく、みんなで一緒に担うケア、チームケアです。日本のキリスト教会では、そのチームケアを「相互牧会」と呼びます。「牧会」と聞くと、「それは牧師の仕事では?」と思われる方もおられると思いますが、それは自分の教会に牧師がいるからそういう考えになるのであって、牧師がいるのが当たり前という錯覚です。牧師が不在の教会のことを考えてみてください。そのような教会はどのようにして相互ケアができますか。教会員がお互いのことに心を配ってゆくしかないのです。この暑い夏も、お互いに声をかけ合いながら、お互いのことを覚えて祈り合いながら、信仰の熱中症になることを避けつつ、無理しないで歩みましょう。

 

さて、一つ、切実なお願いです。ぜひわたしのためにお祈りください。今週2日から4日までのユースサマーキャンプが今年の山場と云いましょうか、大きな責任を果たさなければならない緊迫する三日間です。このキャンプが終わると、大きな重責から解放され、気持ち的にかなり楽になります。キャンプの総合的責任と講師としての責任があります。

 

キャンプのテーマは「新しい出会い」で、このキャンプを通じて、新しい友との出会い、救い主イエス様との出会い、そして本当の自分と出会いを体験してほしいと祈りながら、心を細部に配りながら準備をしています。東京、千葉、埼玉、静岡、山梨の15教会から、10歳から20歳までの幅広い年齢層の24名のユースと11名のスタッフ、総勢35名が山中湖で出会います。わたしは、開会礼拝と講演、計3回メッセージを担当します。講演は、高校生と大学生たちへの御言葉の分かち合いです。自分の証しもたくさんします。10名の素敵なスタッフが与えられていて感謝です。娘の安奈も小中学生グループの分団のリーダーを初めてします。良い訓練になればと願っています。スタッフは、皆ボランティアです。わたしは、この礼拝の後、皆さんを送り出し、青年の交わりが終わり次第、キャンプモードに入ります。教会には4日の16時頃に戻る予定です。お祈りのサポートをよろしくお願いいたします。

 

さて、先週もご案内しましたが、来週8月6日の主日礼拝から、わたしが宣教する時は、コヘレトの言葉を12回のシリーズでご一緒に聞いてゆく計画です。予定では、11月12日まで続きます。この学びが終わる頃には、涼しくて、とても素敵な秋を迎えることができると思います。旧約聖書の中でも難解な書物と言われる「コヘレトの言葉」ですが、「神様からのラブレター」という観点からご一緒に聴いてゆきたいと願っています。この暑さですから、礼拝に毎週出席して神様からの語りかけに耳を傾けることは困難かもしれませんが、そういう場合は、オンラインで礼拝にご出席ください。教会ホームページでお読みください。

 

さて、今朝は12章から構成される「コヘレトの言葉」の概要をできる限り分かりやすくお話しして、この書物のテーマに新約聖書の中で最も近いであろうと導かれたコリントの信徒への第二の手紙の6章から御言葉に聴いてゆきたいと願っています。この新約聖書のコリントの信徒への手紙が、旧約聖書の「コヘレトの言葉」にある主からの語りかけを理解するために良い助けになることを願いつつ、聖霊の豊かな導きを祈っています。他の新約聖書の箇所にコヘレトの言葉の重要なテーマに共通する御言葉があるかもしれませんが、もしそのような新しい発見がありましたら、その恵みを皆さんとその都度分かち合いたいと思います。

 

さて、「コヘレトの言葉」は、口語訳聖書では、「伝道の書」という名が付けられ、新改訳聖書でも「伝道者の書」と名付けられています。しかし、ヘブライ語原典の書名が「コーヘレト」ですので、新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」となりました。一昔前は、イスラエル統一時代の第3代王のソロモンが書き記した知恵の書であると一般的に考えられていましたが、近年の聖書研究の中で、実際にはもっと後の時期に書かれた書物であるという見解になり、ソロモン王が記したと考えるのは難しくなりました。

 

この「コヘレト」という名前は、「共同体を集める者」という意味だそうです。なんの共同体なのか、イスラエルという共同体を指していると思いますが、つまり主なる神様によって選ばれ、招かれ、導かれ、祝福の中に生かされている人々を集め、その恵みを数えるように励まし、神様に賛美と礼拝をささげるように導く者という意味があるようです。近代の研究で分かっている範囲では、この人はイスラエルに属する者、有能な知者で、多くの弟子を持つ教師であったということです。

 

しかし、そのような知者が記した書物ですが、ユダヤ教の中では、特に紀元二世紀頃、この書物は聖典に含める価値のある書物なのか、どうかが議論されたそうです。その理由は、この書物には、イスラエルの伝統的な信仰の態度をくつがえすような言葉、信仰そのものを否定しているような言葉がたくさん記されているからです。例えば、1章18節は、「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」とあったり、7章7節では「賢者さえも、虐げられれば狂い、賄賂をもらえば理性を失う」とあったり、9章3節の後半では「生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ」という言葉があります。しかし、最も衝撃的な言葉で、異常な程までに繰り返される「空しい」という言葉、数えただけでも38回出てきます。とても悲観的で、消極的、後向きに感じます。この書物は、支離滅裂で統一性のないことが無造作に記されているとずっと考えられ、「偉大な反面教師」と呼ばれてきました。

 

しかし、そういうことが色々あっても、この「コヘレトの言葉」という書物は旧約の聖典の一つの書として選ばれ、ユダヤ教でも、キリスト教でもこれまでずっと読まれてきました。それはつまり神様の御心である、と思うのは、わたしだけでしょうか。神様がわたしたちに伝えたい想いがあるからこそ、この書物が聖典、旧約聖書に加えられたのではないでしょうか。この書物は、支離滅裂で統一性のないことが無造作に記されているとずっと考えられてきました。しかし、近代の研究では、全体として非常に緻密に構成され、明確な意図、一貫性のある書物であるということが指摘され、それが通説とされるようになりました。

 

この書物が記され、編集された時代が今の時代と同じような状態であったのか、分かりませんが、急激に変動する社会の中で、不確かな世の中、不安定な状況の中で、いつも悩み、右往左往しながら生きている人々、わたしたちに対して、それでも神様はあなたを愛している、生かしている、祝福しようとその準備をいつもしている、だから一度視点を変えてあなた自身の人生を振り返ってみなさい、そして今の生活を見つめ直してみなさいというように、わたしたちを励ましているのが、このコヘレトの言葉ではないかと思うのです。

 

「空しい」という言葉が38回も出てくると言いました。「空しい」という言葉は、一体どういう目的で使われ、わたしたちに何を指し示そうとしているのでしょうか。空しいとは、空っぽ、物事には意味がない、生きることには目的がない、喜びがない、達成感がない、どんなに頑張っても満足感が得られない、だから何を見ても、何を聞いても、食べても、何をしても意味がない、空しいだけということでしょうか。何が意味のないことなのでしょうか。自分の存在でしょうか。そんな事はないと信じます。何故ならば、そうなると神様の存在、御業を否定することになりますし、神様の愛はわたしたちに必要でなくなるからです。

 

さて、もう一つ考える事があります。空しいと感じる時、それは時間的に過去のことでしょうか、現在のことが空しく感じるのでしょうか、それとも未来のことでしょうか。若い人たちには次のような感覚はまだ無いと思いますが、歳を重ねてゆくと、今の現実に直面する中で、あまりにも現状が大変なので、将来に希望を抱けないで、昔のことが懐かしく感じてしまうということがあります。つまり、現実逃避をしようとするということです。苦労や苦い経験もいっぱいあったはずなのに、昔は良かった、あの時代は輝いていたと過去を懐かしむのです。そういう人がたくさんいます。若い人たちは、過去がない代わりに、未来があります。しかし、現実と向き合う中で、生活が豊かにならない中で、将来を悲観してしまい、やる気が出ない、だから取り敢えずは今を楽しもう、将来のことは将来考えれば良いと考え、将来の備えをしないということがあります。少子化の問題はその表れだと思います。

 

ある人は、「過去にあまり良い経験がない、将来もあまり明るい見通しがつかない、今の生活も働いても、働いても、いつもギリギリの状態で不安しかない」という方もおられると思います。ある人は、「もうすでに取り返しのつかない地球規模の自然破壊、世界を巻き込む戦争、核戦争の不安、食糧不足、水不足の時代、混乱が始まった。もう世の終わりが来る。もうどうでも良い。だから気ままに生きよう。」と考えている方もおられると思います。

 

この書物は、そういう観点から記されたものではないと思います。その理由。それは神様からのラブレターであるから。神様からの愛のメッセージ、わたしたちが日毎に受け取るべきメッセージは何でしょうか。「今日も、神様の御手の中に、ご計画の中に自分は生かされ、愛されている」ということ、「主が今日もわたしと共に歩んでくださる」ということではないでしょうか。過去を振り返ることでも、未来を悲観することでもなく、今日、神様が「一緒に生きよう」と言って招いてくださることに感謝して応える事ではないでしょうか。このコヘレトの言葉を神様からの愛の言葉として読み進めてゆく中で、「今日を大切に生きなさい」と招かれているように感じることができると思います。

 

今朝、わたしたちが共に聴くべき言葉としてコリントの信徒への手紙二の6章の1節から10節が導かれましたが、重要なのは1節後半から2節の使徒パウロの勧めの言葉です。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。 救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」とあります。「恵みの時」とはいつの事でしょうか。若くて、力があって、可能性があって、輝いていた昔ではありません。また、不透明で不安要素が多く漂う将来でもありません。今が、今日が、神様からいただく「恵みの時」、イエス・キリストを通して与えられている「救いの日」であるとパウロは言います。

 

4節。パウロが経験したことと同じではないとしても、皆さんも、これまで生きてきた中で、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓を経験し、大いなる忍耐をもって生きて来られたのではないでしょうか。8節。人生の中で、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもあった事でしょう。しかし、6節後半と7節。そのような過去の中でわたしたちを守り導き、救ってくださり、主の器として用いてくださっているのは誰でしょうか。それは神様、イエス様、聖霊。あなたを生かしてくださるのは、偽りのない愛、真理の言葉、神の力ではないでしょうか。

 

わたしたちに大切なことは、昔を懐かしむ事でも、将来を悲観する事でもありません。確かに、神様が永遠の命を与えてくださるという希望は持ち続け、それに向かって生きるべきです。しかし、過去も未来もすべて神様にお委ねし、神様から与えられている今日という日を恵みの日として感謝して生きるということ、6節の前半にあるように、今日という日を純真さ、知識、寛容、親切な心を持って、神様には忠実に、人々には誠実に生きることが御心であると示され、コヘレトの言葉が本当に伝えたい事ではないかと感じます。

 

神様からいただく恵みの日を無駄に過ごしてはならないのです。ある聖書訳は、「神の恵みをいたずらに受けてはならない」と訳しています。何故ならば、無駄に過ごすこと、いたずらに受けるということは、目的もないままに、喜びも、感謝もなく、ただ生きていることは空しく、もったいない時間を過ごすことであるからです。

 

今朝読まなかった12節で、パウロは、「あなたがたは自分の心を狭くしています」と言います。心が狭くなると、自分の事しか考えられなくなり、そうなると神様と隣人と一緒に生きられなくなります。しかし、空しいと感じる中にも、無駄だと感じる中にも、神様の愛は散りばめられていると思います。その恵みをこれからのシリーズの学びの中で、心を大きく広げながら、神様の愛を皆さんと共に受け取って行きたいと願っています。