ルカ(61) 神の言葉を守る人が幸いというイエス

ルカによる福音書11章24〜28節

前回の11章14節から23節の学びでは、悪霊について難しいお話しをしてしまいましたが、悪霊は存在します。悪霊とは神から人を引き離す存在です。この学びの中で、主イエスが「神の指」をもって病人を癒し、悪霊を追い出しておられたという御業は、神の国の到来の「しるし」であったことを聴きました。神の国の到来とは、神のご支配の時が来たという意味です。神様がすべてのすべてを支配され、そのご支配の只中に生かされることが真の幸いであることを聴き、イエス・キリストの言葉に聞き従うことの重要性を聴きました。また、悪霊と闘い、勝利するためには、神の霊・聖霊が絶対的に必要であり、わたしたち人間の力では到底太刀打ちできないことを聴きました。ですから、父なる神様へ聖霊を祈り求めなさいとイエス様は11章13節で言われるのです。

 

さて、今回の学びに入る前に、一つだけ復習と言いましょうか、前回お話しした内容の中に、御言葉の深掘りが不十分であると感じましたので、もう一度振り返っておきたいと思います。それは21節と22節にあるイエス様の言葉なのですが、「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」とあります。

 

例えば、家の家財・財産は、S警備会社やA警備会社のような強い者がしっかり警備していれば守られますが、その警備がどんなに強固なものであっても、「もっと強い者が襲って来て」は、なす術はありません、瞬く間に財産は奪われてしまうでしょう。雇われた警備員は、他人の財産を守るために自分の命を盾にすることはせず、一目散に逃げるでしょう。

 

前回、「強い者」はサタンで、「もっと強い者」はイエス・キリストであると申しました。イエス様はわたしたちをサタンと罪から救うために、その命をささげてくださいました。そこに神様の愛があります。イエス様は、聖霊に満たされた救い主であり、その前にサタンはひれ伏すしかありません。人々から悪霊が追い出され、次々と癒やされていくのは、イエス・キリストに大いなる神の力、愛の力があることを証明し、その神の愛のご支配の時が、今あなたがたの只中に来たとルカは伝えようとしているのだと強く感じます。

 

この世における「強さ」、それは人間の勝手な思い込み、勝手な価値観によって作り出された社会的地位であったり、身分であったり、富であったり、要するに「力」であるわけです。それが人間の「頼みの武具」です。祝福の源である神という存在を忘れて、そういうものが強さだ、幸せだと信じ込み、それらを得ようと日夜頑張り、そしてそれを維持し続けようと懸命になる人が多いわけです。サタンの魂胆は、わたしたちを神から遠ざけ、時間が経てば古くなってどうでも良いものを目の前にチラつかせ、惑わすことです。

 

しかし、サタンよりももっと強い神の御子イエス・キリストがこの世に来て、この世の強さよりももっと素晴らしい「強さ」がある、それは父なる神の愛であると宣言し、この世のものに惑わされることなく、神の愛とその力に信頼しなさいと招かれるのです。

 

わたしたちが考えるこの世の「財産」、それは後に「分捕り品」という言葉になりますが、それは土地などの不動産や富などです。しかし、神様がイエス様を通して与えてくださるのは「信仰」です。この世の力・富・財産ではなく、神様が愛と憐れみをもって与えてくださる信仰を受け取りなさいと招いてくださっているのです。この世の富は有限で、いつか手放さなければならない時が必ず来ます。しかし、神様が与えてくださる信仰は、永遠に続き、永遠の祝福になります。わたしたちに必要なのは、この世のものではなく、永遠に続くものです。それは神様に愛の中に永遠に生かされるということです。

 

わたしたちが心に留めておかなければならないこと、それは信仰とは神様から恵みとして与えられ、その与えられている信仰は、イエス・キリストと聖霊によって日々守られているという真実です。イエス様に信仰が守られているから、わたしたちは平安を得ているわけです。SやA警備会社によって守られているのではなく、イエス様と聖霊に守られて、生かされている。そこに神様の愛を感じることができると思います。守られているから、自分も信仰を守ることができる。すべては愛の神様から出ています。

 

さて、今回の学びは、24節から26節の箇所と27節から28節の箇所です。この二つの箇所に関連性がないように感じられるかもしれませんが、そうではありません。悪霊と完全に決別し、主イエスの言葉に日々聞き従うことが、わたしたちにとって最も幸いな道であるということを2つの短い言葉を通してイエス様はわたしたちに教えようとしています。

 

まず24節から26節を読みましょう。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」とあります。

 

「汚れた霊は、人から出て行くと」とは、イエス様によって人から悪霊が追放されるということですが、その人は悪魔の支配から解放され、救われるということです。その救われた人の心は、聖霊によって掃除がされ、整理整頓がなされます。追放された汚れた霊はどこへ行くのか、「砂漠をうろつき、休む場所を探す」とあります。イザヤ書34章14節を見ますと、砂漠や荒野は「悪霊の住処」と言われています。しかし、休む場所を探すが見つからない。何故か。想像するに、イエス様によって多くの悪霊が人々から追い出され、砂漠が悪霊で満員になっているからでしょう。

 

ですので、元いた場所に戻ろうと考えるわけです。しかし、元いた場所は聖霊によって、イエス様の言葉ですでに綺麗に掃除されていました。悪霊は、「そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く」とイエス様はおっしゃいます。そして、「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」とおっしゃいます。これはイエス様の語られる譬えでありますが、イエス様はここでとても大切なことを弟子たちに、わたしたちに教えようとしています。

 

その教えとは、たとえイエス様によって悪霊を追い出していただき、救いを得て、心が整理整頓されても、その後、その心をそのまま何もしないでおけば、悪霊はさらに強い悪霊たちを連れ込み、住み着き、最初よりももっと酷いことをして苦しめるというのです。そうならないために何をしなければならないのか。それは心をイエス・キリストの言葉で満たすということです。神様に愛されている、イエス様によって罪赦されている、聖霊がいつもわたしと共にいて守られるという主の約束の言葉、愛の言葉で心を満たせば、悪霊にはもう戻ってくる余地はないのです。

 

日本ではクリスチャン人口は1%以下と言われていますが、なぜそんなに少ないのでしょうか。これまでイエス様を救い主と信じてバプテスマを受ける人の数が少なかった訳ではないのですが、ある人たちは、救われたことが信仰生活のスタートであるのに、ゴールだと勘違いして、もう大丈夫と安心してしまい、心を無防備のままの状態にしてしまうために、再び汚れた霊が一斉に入り込んできて、絶対に神へ立ち返らせないように悪霊は総力を上げて妨害するので、徐々に神様に信頼しなくなりだし、徐々に教会から離れ、信仰が弱くなり、神様の愛とイエス様の赦し、救いから完全に離れてしまう、そういうことも少なからずあるのです。

 

そのようにしてしまう原因は、信仰を導くはずの牧師や教会にも責任があるでしょう。しかし、イエス様を救い主と信じた人が、各自が、主の言葉を心から慕い求め、各自の心に蓄えてゆく必要があるのです。牧師などに人任せにして、自分で自分の心の世話をしない人は、つまずくとすぐに自分以外の人に責任をなすりつけます。大切なのは、自分の信仰のことは誰かに任せるのではなく、自分がイエス様と向き合って生きてゆく中で、自分でイエス様の声を聞き、自分で応答して生きるということです。

 

さて、続く27節に「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』」とあります。群衆の中に、イエス様の教えとその御業の素晴らしさに感動した人がいました。それは不思議なことではないでしょう。しかし、この人はイエス様を宿し、イエス様に乳を与え、イエス様を育てた母親は幸いな人だと叫びます。

 

確かに、わたしたちも立派な人に出会うと、その人の生い立ちやその人を育てた親の育て方が良かったのだろうと思ってしまい、羨むことがあります。そして、そういう親に自分もなりたかった、そういう親に自分も育てて欲しかった、そうすれば子どもの人生も、自分の人生も変わっていたかもしれないと妄想に走ってしまい、「たられば」の世界にどっぷり浸ってしまうことになりかねません。それが落とし穴になり得ます。

 

マリアは確かに幸いな人です。しかし、なぜマリアは幸いな人なのでしょうか。イエス様を宿したからでしょうか。いいえ、違います。マリアは、神様の御心に従ったから、イエス様の地上での母という役目を受け、イエス様を育てたからです。御心に従ったから、彼女は幸いな人と呼ばれるようになったのです。それがなかったら、幸いではないのです。

 

イエス様は、本当に幸いなのは誰なのかを28節で明言します。「しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」』」と。神様は、イエス・キリストを通して、わたしたち一人一人に幸いを得て欲しいと願っておられます。幸いとは、最初に触れたこの世の富や力を得ることではありません。神様から派遣された救い主イエス・キリストと出会い、この方によってすべてのしがらみから解放され、自由を得て、イエス様と共に歩む中で得られる幸いです。この幸いを受けるためには、神の言葉を聴き、それを信じ、それを守ることだとイエス様はここで言っておられます。それはつまり、イエス・キリストの言葉・教えを聴き、それを素直に信じ、その言葉をそのまま行うこと、守ること、主の言葉に誠実に生きてゆくことだと言われるのです。