ルカによる福音書11章29〜32節
今回の箇所に記されているイエス・キリストの言葉は、11章14節から16節に記されている出来事が発端となっていますので、そこをまず読みたいと思います。「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。しかし、中には『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』という者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」とあります。
群衆のほとんどは、イエス様の救いの業を見て驚嘆しましたが、群衆の中には否定的なリアクションをとる人々がいたとも記されています。イエス様の業を素直に信じることをしない人たちがいて、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言ったり、イエスを試そうとして、天からのしるしを求めて、難癖を色々とつけるわけです。
しかし、イエス様は17節から20節で、「わたしが悪霊の頭ベルゼブルであるはずがない。わたしは父なる神から遣わされ、神の言葉と救いの業(いやしや悪霊を追い出す業)をもって神の国をもたらす救い主である」と群衆に宣言します。そして今回の箇所では、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者たちに対して、天からの救いのしるしは自分であると群衆に対して宣言するのです。
29節に、「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。『今の時代の者たちはよこしまだ』」とありますが、「今の時代の者たちはよこしまだ」というイエス様の言葉を他の聖書訳では、「この時代は邪悪な時代である」口語訳、「この時代は悪い時代です」新改訳、「今の時代は、悪人のはびこる悪い時代です」リビングバイブルと訳しています。言葉をもっと変えて言うならば、「今の時代の人々は、神の国が来たという明確な宣言が神の子から直にあっても信じないから不幸だ」ということになると思います。
では、群衆にとって、また今日を生かされているわたしたちにとって何が幸い、幸福なのかということになりますが、イエス様はルカ7章23節で「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われます。神様はルカ9章35節で、イエス様のことを「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言われます。
そして、前回聴いた11章28節では、イエス様は「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と言われます。「神の言葉を聞き」とは、神が「わたしの子に聞け」とおっしゃるイエス・キリストに聞くことであり、「それを守れ」とは、イエス様を信じて、イエス様のお言葉通りに生きるということです。これがわたしたちにとって幸いを得る、幸福に生きる唯一の道なのです。
さて、イエス様は群衆に対して「今の時代の者たちしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言います。まず人々が欲しがる「しるし」とは何でしょうか。それは、目に見えるかたちの証明です。聞いただけでは信じられないのが人間の弱さです。聞いただけで信じられない人は「目で見ないと信じない」と言い、実際に見ても、「さらに見ないと信じない」と言い、さらに見ても「実際に触れなければ信じない」と、その身勝手さ、傲慢さがエスカレートしてゆきます。
話しがわき道に逸れますが、死から甦られて弟子たちの前に最初に現れた時にイエス様に会えなかった弟子のトマスは、他の弟子たちの言葉を信じないで、「あのお方の手に釘の跡を見、この指で釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。
その8日後、イエス様はまた弟子たちの真ん中に立たれ、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とおっしゃり、復活されたイエス様を見て、主の言葉を聞いたトマスは悔い改めます。
そのトマスに対してイエス様は、「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」とおっしゃいます。神の言葉をイエス・キリストから聴き、そのまま素直に信じ、そのまま行う人、守る人は幸いということです。しかし、その素直さをかき消しているのが自己愛、自己中心、自己防衛というわたしたちの中にある「罪」です。
さて、イエス様は29節で「今の時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われます。この言葉だけ聞いても意味が分かりませんから、イエス様は30節で補足します。「つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」と。
この補足の言葉も意味が良く分からないかもしれませんね。「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、わたしも(イエス・キリストも)今の時代の者たちに対してしるしとなる」ということです。
さて、イエス様は「今の時代はよこしま、邪悪、悪い者たちがはびこる悪い時代だ」と言われますが、旧約聖書の時代にも同じような邪悪な時代、神様に対して背を向けて生きる人たちがはびこる土地がありました。その代表格がニネベというアッシリア帝国の首都、ユダヤ人を苦しめた敵国であり、異邦人の都でした。
そこに住む人々を悔い改めさせ、救うために、神様はユダヤ人預言者ヨナを派遣しようとしましたが、敵国アッシリアの人々が救われることに抵抗したヨナは船を使って遠くに逃げようとしましたが、彼は結局、海に投げ出され、大きな魚に飲み込まれ、三日三晩、魚のお腹の中で、闇の中で過ごすことになり、そこで彼は悔い改めて神様に祈りました。
その後、魚から吐き出され、陸地に戻されたヨナはニネベに行って、「あと40日すれば、ニネベの町は滅びる」と命じられたとおりに神の言葉を語ります。その神の言葉を聞いた人々はみな悔い改めます。人々は、ヨナを通して語られた神様の言葉を聞いただけで悔い改めます。それで主なる神様はニネベを滅ぼすことを止められました。つまり、悪に染まっていたニネベの人たちが悔い改めて神様に立ち返ったので、神様は彼らを救われたのです。
昨年の8月から11月まで礼拝の中で、12回のシリーズでヨナ書に聴きました。ヨナ書はとても面白い書物で、色々な大切なことを教えてくれます。教会ホームページの「宣教要旨」に残されていますので、ご興味のある方はお読みください。
さて、ヨナのしるしは旧約の時代の人々に与えられたものです。しかし、新約の時代のしるしは、イエス・キリストです。30節に「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子(イエス)も今の時代の者たちに対してしるしとなる」とあります。
ここでイエス様の「しるしとなる」という未来形の言葉を大切にしてください。神様の愛のしるし、イエス様の愛のしるしは、イエス様の十字架の贖いの死と死に勝利する復活にあって、この11章の時点ではまだ未来のことですから、ここでは未来形になっています。
先ほどのヨナの話で注目すべきことは、魚の中での三日三晩です。これは死の闇に包まれた墓の象徴です。その闇の中からヨナは光の中に吐き出され、ニネベへ派遣されて神の言葉を語り、ニネベの人々は悔い改めました。主なる神様は彼らを憐れみ、救いを与えました。
イエス様は32節の後半で、「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある」と言われます。「ここに、ヨナに勝る者がある」とありますが、この勝る者とはイエス・キリストご自身のことです。
イエス様の時代にも邪悪な時代、罪にある人々が大勢いました。神様の救いの業を見ても悪霊の仕業だと言う人たち、天からのしるしをもっと見ないと信じないという者たち、イエス様を試みる、陥れる人たちが大勢いました。
しかし、そのようなわたしたちを救うために神様はイエス様を十字架につけ、イエス様はわたしたちの罪の贖いとして、十字架に死んでくださいました。そのイエス様は墓に葬られ、三日目に復活されました。
この復活のイエス・キリスト、救い主を信じる者たちに罪の赦しと救いを与え、新しい命に生きる道を示してくださいました。ユダヤ人だけでなく、イエス様を信じるすべての人、異邦人たちもすべて救われます。すべて神様の愛と憐れみから来ます。
この神様の愛と憐れみ、救いを受けるために必要なことがあります。それは「悔い改め」です。悔い改めるとは、今まで神様に背を向けて、神様の願う正反対の方向へ歩んでいたことに気付かされ、神様にごめんなさいと言って、神様の方向に身をひるがえし、神様へ向かって生きてゆく第一歩です。
ルカ10章13節から16節に、悔い改めないコラジン、ベトサイダ、カファルナウムという町々をイエス様が叱る場面がありましたが、その時イエス様は言われました。「わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方(神)を拒むのである」と。
自分の間違い、罪を認めなければ、どういうことが待ち受けているのでしょうか。32節に「ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである」とあります。悔い改めない人々は、「裁きの時」に罪に定められるとあります。
しかし、悔い改めた人は救いが与えられるので、裁きの時でも裁かれません。悔い改めない人、神の語りかけ、救いへの招きがあっても、それを拒む人には神様の救いはないのです。信じるか、信じないか。悔い改めるか、悔い改めないか。神の側に立つか、サタンの側に立つか。光の中を歩むか、闇の中を歩むか。その中間はないのです。
31節に「南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある」とありますが、これも難解な言葉です。
これは旧約聖書の列王記上10章1節から13節(旧p.546)にある出来事です。南の国シェバの王女がイスラエルの王ソロモンの名声を、ソロモンが知恵のある王だと聞いて彼の知恵を試そうとエルサレムに来て難問をたくさん浴びせますが、ソロモンは見事なほどまですべての難問を的確に解答します。シェバの王女は、その知恵と言葉に感嘆し、ソロモンを試みるという自分の間違いを認め、悔い改めるのです。
そのソロモンの知恵とその言葉よりも、それをさらに勝る者があるとイエス様は言われます。それが神の知恵と力、神の言葉としてこの世に来られた神の御子、イエス・キリストご自身です。イエス様が、わたしたちに対する神様の愛の証、しるしです。
このイエス様につまずかず、このお方をわたしの救い主と心から信じ、このお方の口から出る言葉に聞き、その言葉を守る人は真に幸いであるということです。この世のしるし(地上で受ける富や名声や地位等)だけを求めて生きないで、イエス様とイエス様の言葉を慕い求める生活を日々送りましょう。神様の愛と憐れみに感謝して歩ませていただきましょう。