今あるは、神の恵み

宣教『今あるは、神の恵み』大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫          2023/10/15

聖書Ⅰ:イザヤ書5章1~7節(p1067)    聖書Ⅱ:ルカによる福音書13章1~9節(p134)

 

「はじめに」

10月のはじめ、イザヤ書5章を開いて、教会学校と今朝の礼拝説教の準備を始めた頃のことです。NHKの夕方のニュース番組の中で、東京の「ぶどう畑とワイン造り」のことが報じられていました。イザヤ書5章は「ぶどう畑」がテーマになっているという事もあり、わたしは少し長めの、そのニュースを興味深く見ました。

東京でもワインが造れる”、そのような確信を持った現役の歯医者さんの取り組みが実を結んだという話です。

歯医者さんは、経験したことのないワイン造りに挑戦していきました。まず、自分の土地に「ぶどう畑」を造り、見事にぶどうを実らせ、10年かけてついにワインを造れるほどの収穫を得ることが出来るようになりました。

場所は多摩川中流域の「あきる野市」です。その土地は緩ゆるやかな傾斜地で、日当たりが良く、水はけの良い土壌どじょうであるため、歯医者さんには、「ぶどうの木は必ず育つ」という確信がありました。

栽培を続ける中で、酒造しゅぞうの免許を取り、ワイン醸造じょうぞう設備せつびを作りました。賛同する方たちの協力を得ながら、最近は量産できるようになり、現在では、あきる野市の特産品として、「TOKYO ROUGE(トウキョウ ルージュ)」という商品名で販売しています。

放送の最後に、今年の秋の収穫に、近くの福祉施設の障碍者しょうがいしゃを招き、車椅子に乗って畑にやって来た彼らを巻き込んで、ぶどうの収穫を楽しむ様子が紹介されました。この関かかわりは今後深めていくそうです。

わたしは、収穫の恵みの喜びを、自分たちだけのこととせずに、周囲に分かち合っている姿が嬉しくなり、そのような喜びの表し方と、心配りができる人たちは、素晴らしいなと思いました。

同時に、わたしたちはどうでしょうか。

わたしたちは皆、神様の恵みをいただいて歩んでいますが、どのように、その恵みを感謝し、喜びを表しているでしょうか。

わたしたちは、人々の前で「神様、ありがとう」と言って生活しているでしょうか。

そのような思いに導かれました。

 

「ぶどう畑とぶどうの木」

聖書朗読では、イザヤ書5章7節までを読んでいただきましたが、イスラエルの国を「ぶどう畑」にたとえています。ユダヤ人を、「植えられたぶどうの木」にたとえています。そして「ぶどう畑」の主人は神様です。

1節と2節はイザヤ自身が、神様を「わたしの愛する者」と呼んで神様の思いを歌っています。

5:1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃ひよくな丘に/ぶどう畑を持っていた。

5:2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸すっぱいぶどうであった。

「酸っぱいぶどう」とは、「良く育たないぶどう」のことです。神様の期待は裏切られたのです。

ぶどう畑で、いったい何が起きていたのでしょうか。3節からは6節は神ご自身の言葉に代わっています。

『ぶどう畑の主人であるわたしは、あらゆる準備をして、日々の作業を農夫たちに任まかせ、見守っていた。ところが世話を任せた農夫たちは、畑が荒れるに任せ、放置ほうちしてしまった。』と言っています。

この農夫たちとは、当時の政治と宗教の指導者たちのことです。そして主人は、「わたしがこれ以上、ぶどう畑にしてやる良いことは、もうない」。この「ぶどう畑」をわたしは見捨みすてると言われました。

 

そしてこれを聞いたイザヤは、結論のように7節の言葉を発しました。

5:7 イスラエルの家は万軍ばんぐんの主のぶどう畑/主が楽しんで植うえられたのはユダの人々。

主は裁さばき(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。

正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚きょうかん(ツェアカ)。

7節には、原語の語呂ごろ合あわせを表すため、カッコ書きがあり、分かりにくいと思いますので。少し砕くだいて表現しますと次のような言葉です。

「主は楽しみにしてユダの人々を植え、確かな実りを待っていたのに、見よ、流血りゅうけつの惨事さんじ。」

「正義がしっかりと打ち立てられるようにと待っていたのに、見よ、苦くるしみの叫さけび(叫喚きょうかん)。」

「このように正義は捨てられた」と嘆なげき、言葉を終えます。

これが旧約聖書の世界でしたが、現在の有様と、どこが違うのでしょうか。

 

初めにお話しした「東京のぶどう畑」のニュースの、おだやかな情景に心安らいでいたとき、その日から一週間たった時、聖書の舞台であり、ぶどうの産地でもあるパレスチナでは、突然、激しい戦闘が始まり、「これは戦争だ!」と、真っ先に指導者が叫びました。そして戦闘当事者の双方に、多数の死者、負傷者が増え続け、この度は捕虜となった人の数が多いという事です。この先、どのような悲惨な展開になっていくのか、不安が増しています。犠牲者の多くは民間人です。イザヤ書5章7節の「見よ、流血。見よ、苦しみの叫び(叫喚きょうかん)」との言葉、そのものになってしまいました。

何故、このようなことが起きるのかと人々は叫び、茫然ぼうぜんと立ち尽くしています。涙をぬぐう人たちの姿が繰り返して映し出され、その悲惨な状況は現在も拡大し続けています。

この難しく悲しい事態の解決のため、わたしたちに何が出来るというのでしょうか。主なる神の働きとご支配を、願うばかりです。

「イザヤの時代」

預言者イザヤは、紀元前8世紀の初め、南ユダ王国が安定した繁栄の時代に生まれ、そのころ青年期を迎えていました。しかしその繁栄は、周辺の大国が力を落としていた時代であり、そのことがもたらした、偽りの平和に過ぎなかったのです。その時代の南ユダ王国の指導者は、政治的にも宗教的にも堕落して本来の役目を果たさず、豊かさと時代の流れに甘んじた政策を採っていました。その間に、次第に神を忘れ、罪が増していたのです。

預言者イザヤは、宮殿に仕える預言者という特別な地位にあり、王族や政府高官と直接言葉を交わすことが出来る立場にありました。イザヤは「この国は滅びに向かっている」という、神の厳しい裁きの言葉を、神から預かって伝えていきました。その滅びの状況は、既に隣国サマリアの滅亡というかたちで、ひたひたと迫っていたものの、イザヤの生涯の期間は、不思議なように平穏に過ぎていきました。しかしイザヤ亡き後の150年後には、バビロン捕囚という苦難が王国を襲い、南ユダ王国は滅亡しました。

イザヤは、こうした事態に陥っていくであろう国に対しても、悔い改めるならば救いのときが必ず来る、救い主が現れると預言を続けていました。それは実に、700年後に、救い主イエス・キリストの誕生として実現しました。神はそれほどまで長く忍耐し、人々の悔い改めを待ち続けているとイザヤの預言は告げていました。

旧約聖書には、イザヤに続く多くの「真実の預言者」の言葉があります。「真実の預言者」は皆、救い主の到来を預言していました。しかし彼ら預言者自身が救い主に出会うという事は叶いませんでした。

マタイ福音書13章に、主イエスの次のような言葉があります。

13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。

 13:17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

救い主ご自身がこう言っておられます、「救い主の恵みにあずかれるのは、現在のあなた方なのだ」と言っておれれるのです。

 

「主イエスのぶどう畑」

今朝はイザヤ書に続いて、ルカ福音書13章1節から9節までを読み、主イエスの働きに触れたいと思います。

はじめに、ルカ13章1~5節(p134)までをお読みします。

*悔い改めなければ滅びる(小見出し)

13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人じんの血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。

 13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人じんたちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人じんよりも罪深い者だったからだと思うのか。

 

 13:3 決してそうではない。言っておくがあなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。

 13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。

 13:5 決してそうではない。言っておくがあなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。

ガリラヤで、説教をしていた主イエスのもとに、ある人たちが来て、こう知らせました。

「我々ガリラヤ人じんの仲間がエルサレムで殺された。ローマ総督ピラトは、我々ガリラヤ人じんの何人かをエルサレム神殿で殺し、辱めを与えた」と伝えました。

やがて主イエスを十字架に付けることになる、総督ピラトは、これまでも密かにガリラヤ人じんを処罰して、騒動を抑えていましたが、エルサレム神殿で起こしたこの事態は、多くの人が知る所となりました。この知らせを主イエスと一緒に聞いていた人たちは、「神殿で礼拝している最中だというのに、なぜ罪のない我々ガリラヤ人じんだけがこのような目に遭あうのか。神はなぜこの事態を放ほうっておかれるのか」と、怒りを覚え、主イエスに問いかけたのでしょう。

 それを聞いた主イエスは、「なぜ」と問いたくなるようなことは、わたしたちの間では繰り返して起こる、と答え、「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われました。

続けて、「シロアムの建設現場で18人もの人が無くなった、あの事故も同じだ」と言われました。そしてもう一度、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と繰り返しました。

主イエスは、個々の事件や偶発的ぐうはつてき災難さいなんの理由を問いたくなるが、そうしたことを問うよりも、「イスラエルの、神に対する反逆の罪こそ問わなくてはならない。神はあなた方の悔い改めを待っておられる」と言われました。

主イエスは、「神はどこかで必ず、あなたがたのその問いを受け止めてくださる。ひたすら悔い改めて待つように」と人々を諭しました。しかし、聞いていた人々にとって、主イエスの言葉は、すぐ受け入れることが出来る答えだったのでしょうか。主イエスは、それ以上のことを語ることをなさらず、答えを聞いている人たちの思いに、答えを委ねて行かれました。

続けて主イエスは、6節以下の、「ぶどう園に立つ、実を付けないいちじくの木のたとえ」を話されました。

*「実の成らないいちじくの木」のたとえ(小見出し)

 13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。

 13:7 そこで、園丁えんていに言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』

 

 13:8 園丁えんていは答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘ほって、肥こやしをやってみます。

 13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒たおしてください。』」

どうしたわけでしょうか、「ぶどう畑」に、たった一本の「いちじくの木」が立っています。園丁えんていが懸命けんめいに世話をしてきたのに、実を付けないままなのです。主人は切ってしまえと命じました。だが園丁えんていは、もう一年待ってください。もっと丁寧ていねいに肥料を与え世話をしてみますからと、熱心に願いました。

「実の成らないいちじくの木」の命は、「あと一年」です。実を付けて生き延びたのでしょうか。それとも実を付けず、切り倒されてしまったのでしょうか。その先の答えはありません。なぜ、答えがないのでしょうか。

答えがないのは、主イエスがしきりに、わたしたちに求める「悔い改め」と関係していることは確かです。

「悔い改め」と聞いたなら、わたしたちは緊張しますが、易やさしく表現するならば、「あなたの人生を、救い主キリストによって与えられている、新しい命の中で生きなさい」ということです。

それでもなお、悔い改めの呼びかけにためらいを覚え、確信の持てないわたしたちに代わって、園丁である主イエスが、主人の前に立ちふさがり、「実の成らないこの木を、もう一年守る」と言ってくださっています。それが主イエス・キリストの十字架の死という執り成しの姿です。

神は忍耐して、お一人お一人の答えを待っていてくださいます。

わたしたちに求められているのは、答えられない事、答えが分からないことを問い続けながら、主イエス・キリストの十字架の恵みの中を、信仰を持って歩ませて頂くことではいでしょうか。

この、神の恵みは、今すでに、一人一人に注がれています。

【祈り】