ルカによる福音書13章18〜21節
前回(13:10-17)の学びでは、イエス様が安息日に、ユダヤ教リーダーたちから差別を受け続け、病の霊・サタンに支配されていた「アブラハムの娘」を病の霊から解放し、完全ないやしと自由を与えるという御業について聴きました。その御業を見ていた群衆はこぞって、イエス様のなさった素晴らしい業を見て「喜んだ」ということが記されていましたが、この救いの業は、神の国の到来を証しするものであり、神の国がどんなに素晴らしい祝福であるのかを知らせるほんの始まりにすぎません。
「神の国」とは、「神のご支配のあるところ」という言い方もできます。すなわち、イエス様が神様の愛をもってこの地をご支配し、神様の愛以外の力によって支配されている人々を解放し、自由を与え、神様のみ翼の下に置くことを意味します。ですので、神の国に招かれ、生かされるとは神様の愛の中に生かされるという捉え方ができると思います。
今回、イエス様は「からし種の譬え」と「パン種の譬え」という二つの譬え話を通して、神の国がいかに大きく、そこに迎え入れられる神の子たちが受ける祝福がわたしたちの想像を遥かに超えるほど大きいものであるかを教えようとしています。
余談になりますが、イエス様は神の国について教える時、必ずと言って良いほど「譬え」を話されます。目に見えない神の国について分かりやすく話すために、譬えをもって話すことが効果的と考えたのでありましょう。4つの福音書にはイエス様の譬え話が60ほど記録されていますが、イギリスの聖書学者ハンターは、それらを4つに分類しました。1)一つは、神の国が到来したことを示す譬え、つまりイエス様ご自身を通して神の国が来ているということです。2)二つ目は、神の国の到来は「恵み」であること、すなわち受ける資格のない者たちが神様の愛と憐れみを受ける時が来たことを教えるためです。
3)三つ目は、神の国に招かれるのはどういう人かということを教える目的があります。ユダヤ人たちは律法を厳守する者、金持ちや地位のある者が神の国に入れると考えていましたが、そうではないと主イエスは教え、誰が神様に招かれ、入れられるかを教える目的があります。4)四つ目は、恵みのうちに招かれている神の国に入り損ねないよう警告するためです。すなわち、自ら心を開かなければ、イエス様は心の内に来てくださらず、神の国に入れないということ。悔い改めて心を開かなければ、頑ななままでは救いはないということです。今回の二つの譬え話は、二つ目の目的、神の愛と憐れみを受ける時が来ているということ、それを受け入れたらいく倍にも祝福され、成長があるという譬えです。
まず18節の最初に「そこで、イエスは言われた」とあります「そこで」という言葉は、「それゆえ」、「従って」という意味の語になっています。すなわち、先行の安息日の女性のいやしの意味を説明する意味合いがあるということです。つまり、ユダヤ社会の中で最も小さくされ、粗末に扱われていた一人の病ある女性がイエス様によって見出され、いやされ、救われ、自由にされ、喜びで満たされ、神を賛美するまでに引き上げられ、大きくされたということ。彼女の救いに神の国の到来を証しする御業があるということです。
さて、イエス様はここで二つの譬えを話されます。一つは「からし種の譬え」、もう一つは「パン種の譬え」です。この二つの譬え話にどのような違いがあるのでしょうか。一言で言いますと、「からし種の譬え」は、神の恵みによる外的成長の素晴らしさ、「パン種の譬え」は主の恵みによる内的成長の素晴らしさを教えるもので、神様の愛が人に注がれると、目を見張るような成長が外的にも内的にもその人に与えられるということです。そのことを念頭においてこの二つの譬えを聴くと、より分かりやすくなると思います。
まず18節と19節に、「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」とのイエス様の言葉があります。神様の愛がこの地上に注がれると、神様のご支配があると、スズメや鳩の餌のような本当に小さな「からし種」が土の中で芽を出し、その高さは5メートルから7メートルに達するような、目を見張るような大木に成長します。その成長を与えてくださるのは神様です。からし種のような信仰であっても、恵みを与えてくれる大地に根を張り巡らしてゆけば、神様が上より太陽の光を与え、雨をもって水を与えて大きく成長させてくださるということです。
「その木は成長して」とありますが、木は成長する中でたくさんの枝を張ります。これは神様の愛のご支配の範囲が拡大するということです。「その枝には空の鳥が巣を作る」とは、神様の主権はユダヤだけではく、異邦人の諸外国にも及ぶということです。弟子たちがイエス様の福音を地の果てまで宣べ伝えてゆく中で、神様の愛と憐れみによる救いとそのご支配が全世界へまで及び、異邦人たちも救われるということです。神の国が地の果てまで拡大する。その拡大は小さなからし種一粒ほどの信仰から始まるという教えです。そしてその信仰は、神様からイエス様を通して一方的に与えられた「恵み」であることは間違いありません。すべては神様の愛から始まります。
この信仰は、イエス・キリストがわたしたちの罪を一身に負って十字架に架かって死んでくださった贖いの業・救いの業からすべて始まります。イエス様がその命を捨ててくださり、神様がイエス様を死より引き上げ、甦らせてくださったことによって、そこから新しい命が芽生え、大木に成長してゆき、わたしたちがその木にとどまり、そこに巣を作り、そこで憩い、命を育み、福音を分かち合うために、そこから地の果てまで飛び立ってゆくことができるようになります。それもすべて神様が成してくださる愛の業です。
少し前の話になりますが、ルカ12章31節と32節に「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」というイエス様の言葉が記されています。神の愛のご支配を求める者に祝福があり、必要が満たされると約束されていると同時に、「小さな群れ」が主に信頼して忠実に歩むならば、祝福されて大きく成長させられるということが約束されています。信仰をもって主に従う時に、祝福、霊的成長があるということです。
少し先の話になってしまいますが、ルカ17章6節には「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」とイエス様がおっしゃっている箇所がありますが、もしわたしたち一人一人が、神様の愛と罪の赦しと救いとご支配を心から喜び、感謝するならば、その喜び・福音は外に向かって放たれてゆき、世界中の多くの人たちにも届き、その人たちが主に心を開いて信じるならば、神の国はこの地上でさらに拡大してゆくということです。
さて、20節と21節を読みましょう。主イエス様は、「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」と譬えを語られます。この譬えは、主の恵みによる内的成長の素晴らしさを教えるもので、神様の愛が人に注がれると、パン種が粉を膨らませるように、内的な成長がその人に与えられるということです。パン種をとって三サトンの粉に混ぜて時間をおくと、パン種が活発に活動して、全体が膨れ上がり、それを焼くと160人ぐらいの人が食べられる量のパンとなり、多くの人々の霊的糧、祝福になります。パンを焼かれる人は、イースト菌の威力がどれほど凄いものかよく分かると思いますが、神様の愛がわたしたちの心の中に入りますと、わたしたちの内側に大きな変化が生じてきます。その変化は時と共に大きくなってゆき、神様を愛し崇め、周囲の人々を愛し、祝福する力となってゆきます。
神様の愛がわたしたちの心に入ると、どのような変化が起こり、成長につながるのでしょうか。いくつか挙げてみたいと思います。まず第一に、聖霊がわたしたちの心の中で豊かに働いて、救いの確信が日々与えられ、喜びが溢れ出てくるはずです。聖霊によって、自分の弱さを痛いほど知ることにもなるでしょう。しかし、それは良い意味で用いられ、神の御心に向かって成長するはずです。心の中にあるすべての不純物、不要なもの・重荷が取り除かれてゆき、心がもっと軽くなり、平安と感謝で満たされるはずです。
二つ目は、今まで持っていたこの世の価値観が、神様を中心とした価値観へと変えられてゆき、それがしっかり確立するように変えられてゆくはずです。それが基礎となり、そこに信仰が築かれてゆくはずです。つまり、今まで分からなかった自分は何のために生きるべきなのか、日々の生活の中で何を大切にすべきなのか、何を最重要なこととして捉え、取り組むべきかが神様を基礎として価値観を持つことによって分かるはずです。
それによって、三つ目の変化、イエス・キリストに似た者へ、主イエス様の弟子として変えられて行きます。神様の愛に生かされ、イエス様によって罪悪感や恐れから解放されると平安が与えられ、内側から変えられて行きます。今までは自分を頼りにすべてのことに取り組まなければなりませんでしたが、神様の愛、パン種が心に入ると、新しい人を思いやる人へと神様が変えてくださいます。
この三つの変化を止めることなく継続し、祝福され続け、周囲を祝福してゆくためには、日々の祈り、聖書を読んで御言葉に養われること、礼拝、主と神の家族との交わりが大切になります。主を信じて、主を見上げて、主の語りかけを聞いて励まされてゆくことが大切になります。神の国は、わたしたちの心の中にも与えられてゆきます。神の国は神様から始まり、イエス・キリストを通して招かれ、聖霊によってわたしたちの心の中に完成する、そういう言い方もできるのではないかと思います。