ルカ(75) 狭い戸口から入れと言うイエス

ルカによる福音書13章22〜30節

ルカによる福音書12章と13章という直近の学びの中で、信仰をもって今の時をしっかり見極めるべきこと、終末と神の裁きの前に最大限の努力をもって神と和解すべきこと、特にまず神に対して悔い改めることが重要であることを聴いてきましたが、前回の学びでは、本当に小さな「からし種」のような信仰、目に見えないような「パン種」のような信仰を持つことによって、(その信仰はイエス・キリストを通して神様からいただく賜物でありますが)、神様に大いに祝福されて、外面的には鳥が巣を作って憩うような大木に成長し、内面的にはパン種が粉と合わさって何倍にも膨らむように大きな霊的成長が与えられるということを一緒に聴きました。

 

そのような中でわたしたちに重要なのは、神の祝福に与るためには、まず「悔い改め」ること、神様の招きに信仰をもって「応答」すること、神様に「立ち返る」こと、それが神の国に招き入れられる「条件」であることを聴きました。愛と正義であり、聖なる神様のおられる神の国に入れられ、神様の御前に生きる者とされるためには、イエス・キリストという救い主、わたしたちの罪を贖い、聖(きよ)める救い主イエス様が必要であることを教えられます。悔い改めなければ、滅ぼされるということを実を結ばないいちじくの木の譬えからも聴きました。

 

そういうイエス様の教えの流れの中で、今回の箇所でテーマになることが二つあります。一つは、このままの状態で行くとユダヤ人は神の国に入れず、異邦人がそれに替わって入るということ。もう一つは、この「悔い改めて神様に立ち返るべき問題」は、いつまでも先延ばしにできない問題であり、すぐに決断して行動に移さないと、神の国のドアがいつ閉められるか、わたしたちには分からないということです。もしかしたら、今日明日あるかもしれないし、今週末なのかも知れません。わたしたちにはいつか分からないのです。

 

わたしは脅している訳では決してなく、わたしたちが心の中で思ってしまっている「デッドラインは、まだずっと先のことだろうから、今は人生を満喫しよう」という考えは、人間の傲慢さ、配慮と備えの欠如という問題であるとイエス様からの警告であり、そのように聴くべきではないかと思うのです。自分は大丈夫という何の根拠もない安心感よりも、いつ有ってもおかしくないという「緊張感」が必要ではないかと思うのです。首都圏に住むわたしたちは、直下型地震に備えておくべきと警鐘されていて、基本的には同じ緊張感ですが、イエス様はもっと重要なことをすべての人に教えておられるのです。

 

今回は、ルカによる福音書13章22節から30節に聴いて行きますが、22節に「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」とあることに最初に注目すべきと考えます。イエス様は神の国についての福音を町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられます。すなわち、ご自分が受ける十字架での死に向かって進んでおられるということです。そこに緊張感がないはずがありません。わたしであれば、エルサレムと正反対の方向へ逃げ去るでしょう。しかし、イエス様は違います。父なる神様のご意志に沿って生きられます。

 

その歩みは、神様を畏れているつもりでいて、しかし自分たちが「律法」、「権力」となっている宗教指導者たちとの対峙、罪と汚れに苦しんでいる人々に罪の赦しと自由を与える働き、残してゆく弟子たちへの訓練、愛と祈りと忍耐と神様への信頼なしに前進できない歩みです。イエス様は、わたしたちを救うためにエルサレムの十字架へと進まれるのです。記者ルカは、そのことをしっかり心に留めておくべきと強調したいのだと思います。

 

次の23節に、「すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言う人がいた」とあります。イエス様を「主よ」と呼んでいますから、そのように質問した人はイエス様を信じ従っていた者と考えますが、この「救われる者は少ないのでしょうか」という問いをどのように捉えるべきでしょうか。この問いは人数的なことが問題とされているのではないと思われます。イエス様ご自身は直接的に答えませんが、この部分を掘り下げて考えて行くことは重要だと考えます。

 

ただ、24節以降にあるイエス様の言葉が重要だと思いますので、そこからヒントをもらうことがベストの選択であると思います。そういう中で、この人の質問の意味は、「イエス様、あなたを救い主と信じて救われる者は、どれほどいるのでしょうか」という捉え方が良いのではないかと思えます。間違っているかもしれませんが、わたしはそう思います。

 

では、「救われる」という時、「救い」は何からの救いであるのかという問いかけが出ます。何からの救いなのか。これまでイエス様が語ってこられた様々な問題や課題からの解放、癒し、自由と言えますが、やはり罪と死からの救い、罪と死の不安と恐れからの救い、孤独からの救い、偽善という闇からの救いなど、色々と言えると思います。

 

さて、23節の後半に「イエスは一同に言われた」とありますが、この「一同」とは誰でしょうか。もちろん、ユダヤ人たちです。イスラエル全体となります。一同の中には、小さくされている人たちも、そのような人たちを権力で小さくしている宗教リーダーたちも含まれます。25節から27節の中でイエス様が語られる譬えの中に登場する人々は、どのように描かれているでしょうか。そのような人々にイエス様は次のように語られます。

 

24節、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」とイエス様は言われます。ここには省略されている重要な言葉があると思います。それは狭い戸口から「どこ」に入るのかということ。その「どこ」とは神の国ということです。ですから、神の国へは狭い戸口から入るようにしなさい。神の国に入ろうと努力している人は多いけれども、入れない人たちも多いというニュアンスがあると思います。

 

入れる人と入れない人の違いは何でしょうか。入れる人は謙遜な人、入れない人は傲慢な人、と言えると思います。入れない人は、「自分は入れる」と思い込んでいる傲慢な人で、入れる人は、「神様の憐れみで入れる」ということを信じて、恵みを喜ぶ人です。

 

「狭い戸口から入るように努めなさい」とあります。神の国に入れられるのは、唯々神様の憐れみであり、一方的な恵みであると信じて感謝することに努めるべきです。自分は、神に選ばれた民の一人、神殿で仕える者、律法を守る者と豪語し、自分の行いを誇ることに努めるべきではないとイエス様は言われていると思います。

 

「努める」という言葉の言語は、第一テモテ6章12節では「戦う」という言葉に訳され、第一コリント9章25節では「競争」という言葉に訳されています。神様の恵みをひたすら感謝して、常に謙遜に生き、主イエス様に聴き従うことが「狭い戸口から入る全力の努力」であると思います。使徒言行録14章27節には、狭い戸口とは、イエス様に対する異邦人の「信仰の門」であるとあります。

 

25節に、「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」というイエス様の言葉があります。

 

神の国の戸を閉める権威があるのは神様であり、イエス様です。わたしたちの責任は、神の国への戸口が開いている間に入ることだけです。

 

戸口が一度閉まってしまうと、もう開けられないのです。どんなに戸を叩いでも開かないのです。ですから、信仰と緊張感が必要なのです。戸口がいつまでも開いているという思い込み、神様からの恵み、救いの招きに応えないでいるのは大きな間違いであると言うことができると思います。

 

戸口が閉まり、外に残された人は、「あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう」と26節にあります。どんなに豊かな交わりがあり、熱心にイエス様の教えを聞いても、神様の救いの時に自ら応えなければ、恵みから取り残されてしまうのです。

 

神は愛の神であり、ご慈悲があるべきと訴える人も出てくるでしょうし、様々な理由を言う人も出るでしょう。しかし、戸口はずっと開いていたのです(今もずっと開いているのです)。その時に入らなかったのは、優先順位を間違い続けて言い訳ばかり言う人なのです。銀行が3時で閉まり、郵便局の口座窓口が4時で閉まると、どうあがいても取引が出来ないのと同じですが、神の国の戸口が閉まることはもっと厳しいのです。

 

25節と27節に、主人が「お前たちがどこの者か知らない」と言うとありますが、この言葉はユダヤ教社会からの破門宣言に用いられていた用語だそうですが、イエス様はイエス様を信じない、受け入れない者たちに対する神の国との関係性が無いことの宣言としてここで用いています。たとえ同郷であっても、同胞であっても、神様に造られた者であっても、救いの招きに応えない人の救いには関係がないという厳しい言葉です。厳しいと感じても、救いにはイエス様を救い主と信じる信仰という線引きが必要なのです。

 

また、ただ「信じるだけ」と神様の愛と恵みに「どのように応えて生きて行くか」には大きな違いがあります。どんな人でも、神様の愛を受ける者は、自分なりに恵みに応えて行かなければなりません。首から下の身体が麻痺した星野富弘さんが信仰という心と口に挟んだ筆で詩画をもって主の恵みに応えておられるように、それぞれがそれぞれの形で主を心から崇め、賛美することが大切なのです。

 

神様の御心に沿って生きない人は、不義を行う者であり、神様から切り離されます。傲慢に生き続けるならば、後でどんなに泣きわめいても、どんなに歯ぎしりしても、どんなに悔やんでも、神の国に入るチャンスとタイミングを逸してしまいます。たとえアブラハム、イサク、ヤコブの子孫、ユダヤ人であっても、社会的地位や名声や富や品格があっても、神の国への扉が開いている間に、主の招きに応えて中に入らないとダメなのです。入るためには、イエス様を信じて、悔い改めることが重要になります。

 

これを脅しと聞くか、招きの言葉として聞くかは各自の問題なのです。29節に「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」とありますが、これはユダヤ人ではなく、異邦人たちが救いの座に着くと言う事です。

 

しかし、すべての異邦人が救われ、すべてのユダヤ人が救いからこぼれ落ちるわけではありません。イエス様は、30節で「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」と宣言しますが、イエス様はここで「後の人(異邦人)がすべて先に、先の人(ユダヤ人)がすべて後にある」とは言っていません。救いという神の愛と恵みを受けるのは、人種や性別や年齢などに関係なく、救い主イエスを信じる人なのです。