ルカ(80) 一切を捨てて従いなさいと招くイエス

ルカによる福音書14章25〜33節

今回の箇所は、聞き方によっては、その人の心につまずきを与え、イエス様から、キリスト教から離れよう、もっと距離を置こう、自分にはキリスト教は無理だと思わせるような酷い内容、辛い内容に聞こえるかもしれません。確かに、ここにはイエス様の厳しい言葉が連続して記されています。しかし、これはいま始まったことでは決してありません。

 

9章23・24節では、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」という弟子たちに対するイエス様の言葉がすでにあります。また、同じ9章57〜62節には、イエス様と旅を共にする一行に対する弟子として生きる招きがあり、弟子となる「覚悟」が問われる厳しい言葉があります。

 

しかし、ここで冷静に考えたいのは、わたしたちの聞き方というのは、わたしたちの感情、願い、都合や思い込みが中心となっている場合が多くあり、神様の思い、あえて言うならば、イエス様の思いを中心に捉えている聞き方ではないのではないかということです。つまり、この箇所をわたしたちの側から聞くと、イエス様の言葉は分からず、厳しい言葉につまずくだけですが、イエス様はここでわたしに何を言っておられるのだろうかと求めてゆく時に、イエス様が本当に伝えたいという真意を知ることができると思います。今回どこまでその真意を知ることができるか分かりませんが、求めることが大切です。

 

さて、今回の箇所は、「イエス様の弟子とは何ぞや!」ということをイエス様が群衆に教える箇所ですが、イエス様の弟子と聞く時、大半の人は、「それはイエス様の教えに非常に熱心な人が弟子であって、自分のような人間はイエス様の弟子ではない」と捉えているのではないかと思います。自分の信仰はとてもカジュアルなものであって、信仰とはまだ呼べないので、イエス様に従いなさいと言われたらたじろいで、身を引いてしまうという人がいるしょう。

 

しかし、25節、イエス様は、ご自分の後について来る「大勢の群衆」に振り向いて、群衆と真剣に向き合って、イエス様に従う弟子とは何ぞやと言うことを教えられるのです。イエス様は、ご自分の後ろをついて来ている「大勢の群衆」を弟子として招いておられるのです。イエス様はいつも平等で、色眼鏡で人を見ません。平等に招かれるのですが、その招きへの応答はそれぞれ個人の意思にお任せになられるのです。弟子とは、イエス様の後について行く人と言えると思いますが、あえて言うならば、人から強要されず、自分の意思でイエス様の後ろについて行く人、それがイエス様の弟子であると思わされます。

 

さて、学びを進めてゆく上でも、ここで再びしっかり捉え直しておかなければならないことがあります。それはイエス様は、現在進行形でエルサレムに向かって歩んでいる、つまり十字架の死に向かって一歩一歩進んでいるという事です。このことは絶対に外してはならないことです。このイエス様の十字架の道、それは何のため、誰のための道であったでしょうか。ご自分のためでしたか。いいえ、わたしたちの救いのため、わたしたちの罪を贖うため、罪の代償をすべて負って支払ってくださり、わたしたちを罪と死の恐怖から解放するための歩みでした。そのようなイエス様の後を大勢の群衆がついてゆくのです。

 

つまり、弟子たちだけでなく、群衆も、わたしたちも、自分は十字架に向かって歩んでいると言うことを捉え、覚悟しなければならないのです。「十字架を負って従いなさい」と聞くと、その苦しみを何とか回避したいという思いのメカニズムが働き、舵を左か右に大きく切って、それから逃れようとしてしまうのがわたしたちです。しかし、イエス様は、十字架の死の先にだけ「救い」があり、「永遠の命・祝福」があると教えられます。

 

十字架の死の先に、これまで一緒に聴いて来た「神の国」があるのです。救いへの道は、十字架を通る道なのです。ですから、神の国に招かれる人は多くても、そこに入るのは至難の業、そこに入れていただくのは神様の憐れみによりすがるしかないのです。ですので、イエス様の弟子としてイエス様の後ろを歩むとは、十字架に向かって歩んでいることであり、神様の愛と赦しに向かって歩んでいるということも言えると思います。

 

イエス様の言葉を他人事のように捉えて聴いてしまっては、イエス様の言葉が他人事のように聞こえてしまい、イエス様の真意が分からずじまいで、イエス様につまずくだけです。しかし、自分に語りかけられている言葉としてイエス様の言葉を聞く時に、つまずきではなく、慰めや励ましを受けることができるのではないかと思うのです。

 

それでは、26節と27節を読みましょう。「26もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」とあります。凄まじい言葉に聞こえてしまいますが、イエス様の弟子とは、生活の優先順位を第一にイエス様にしてゆく者だということです。イエス様を愛して従って生きるか、それとも家族や自分を愛して生きるかという事とです。ほとんどの人は、家族を愛していますから家族を優先的に考えるでしょう。

 

しかし、わたしたちの多くは、家族を与えてくださっているのは神様であることをどこかで忘れているのです。神様から与えられていないものは何一つありません。すべて神様から頂戴し、神様から委ねられているものです。この家族への「愛」がイエス様を第一にしてゆくこと、イエス様に聞き従うことにブレーキをかけてしまう。しかし、ここで立ち止まってよく考えてみましょう。わたしたちの家族に対する愛って、どれほどのものでしょうか。死ぬ気で愛している、家族の幸せのためならば如何なる犠牲もいとわないと言いつつ、実際にはどれだけ家族を愛し通しているでしょうか。家族から裏切られたら、愛の裏返しがあり、すぐに憎しみや怒りに変わってしまう、その程度の不完全な愛ではないでしょうか。裏切られる反対も然り、つまり家族を裏切るようなこともある、そういう弱さを併せ持つのです。わたしたちの愛など、気分でコロッと変わってしまうような一時的で、有限な愛なのです。しかし、イエス様に聞き従うならば、イエス様を通して神様から無限の愛が与えられ、その愛をもって家族や自分や隣人をさらに愛してゆけるのです。

 

「自分の十字架を背負って」と言いますが、そのような時、わたしたちの多くは、「十字架」を災難とか、大病とか、苦しい状態とか、変えられない境遇とかと思い込み、自分はこういう十字架を負って生きていると言いますが、受け入れ難い災難や大病や苦境を受け入れることが大切だと言っておられるのではなく、敵と思えるような人、受け入れられない人を受け入れ、愛して、許してゆく、その人を兄弟、姉妹と呼んで共に生きて行こうとすることが、自分の十字架を背負うということでもあると言っているのだと思います。

 

戦争、紛争、仲違い、喧嘩、罵り合い、なぜ起こるのでしょうか。それは受け入れられる人と受け入れられない人を自分の勝手な観点から線引きし、色分けし、優劣をつけてしまうからです。自分は正しいと思い込み、相手が間違っていると思い込むからです。イエス様は、自分を陥れ、嘘や難癖を付けて十字架に付けようとする人々に向かって歩み、そのような人々のためにもエルサレムへと前進されたということも覚えておく必要があると思います。そうでないと、イエス様に従う者、イエス様の弟子として、攻撃や誹謗中傷や拒絶を経験するどこかでつまずくことになるからです。そのような事につまずかないためにも、イエス様を信じ、聴き従い、主の励ましの言葉によって新しくされてゆく必要があるので、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエスは招くのです。

 

続く28節から33節ですが、二つの譬えがイエス様によって語られています。読んでみましょう。「28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」とあります。

 

一つ目の譬えは、塔を建てようとしたが、途中で資金がなくなり、計画は頓挫してしまったというものです。もう一つの譬えは、戦いをするとき、自分の戦力と相手の戦力を照らし合わせ、自分が劣勢であると最初から分かっていたら、無駄な戦いを回避して和平を結ぶ事に尽力した方が良いというものです。28節と31節に「まず腰をすえて」という言葉が2回出てきます。つまり、物事を始める時には、一時的な感情に押し流されないで、イエス様の言葉を腰を据えてしっかり聴いて、腰を据えてよく祈って、そして腰を据えてよく熟考・熟慮すること、それが弟子となる者に必要だとイエス様は言うのです。

 

最初から自分には無理だと諦めることでもなく、フラットな立場に立つということです。それが「自分の持ち物を一切捨て」るということです。自分の価値観、今までの経験、力、考えをいっさい捨ててゆく時に、イエス様の言葉が新鮮に心の中に入って来て、イエス様の言葉によって新しくされてゆく、それによってイエス様の弟子とされてゆくのです。イエス様に従う時、自分の力は無視しましょう。過去もすべて主にお委ねしましょう。イエス様は二つの約束をなされました。一つは、「わたしがあなたを弟子にしてゆく、人間をとる漁師にする」、もう一つは、「いつもあなたと共にいる」です。この約束を信じてイエス様の後に従う時、わたしたちは神様の愛と憐れみによって、イエス様の弟子として日々立て上げられてゆきます。イエス様に従う者がイエス様の弟子です。