ルカ(84) 放蕩息子の譬えを語るイエス① 

ルカによる福音書15章11〜24節

15章に記録されているイエス様が語られた3つの譬えの最後を飾るのは、有名な「放蕩息子」の譬えです。しかし、この譬えの主役は放蕩息子ではなく、その息子の帰りをずっと待っていた父親ですので、この譬えの正確なタイトルは、「父の愛」であると言えます。

 

この譬えの登場人物は、父、下の息子・弟、上の息子・兄の三人で、内容は二部構成となっています。第一部(11〜24節)は、父から自分の取り分にあたる財産を受け取った後に遠い外国に行き、そこで放蕩に身をもち崩した下の息子が父のもとに帰って来て、その息子の帰りを大いに喜ぶ父の話です。第二部(25〜32節)は、厚顔無恥な弟の帰還を大いに喜ぶ父に対して、父のもとでずっと真面目に働いてきた上の息子が腹を立てて抗議をし、そのふて腐れる兄を懸命になだめる父の話です。ですので、繰り返しになりますが、この譬えの主役は父であり、父なる神なのです。

 

この譬えを平たく解説しますと、罪人・異邦人が悔い改め、神様に立ち返って救いを得ることを喜ぶ神様に対して、律法をずっと守ってきたと豪語するファリサイ派の人たちや律法の専門家たちがふて腐れて公然と抗議し、その怒りを優しくなだめる神様が彼らに対して罪人の帰り・救いを共に喜ぼうと励ます話です。しかし、悔い改めなければならないのは、罪人・異邦人だけではなく、ユダヤ人たちも同じなのです。

 

イエス様がこの譬えを通して本当に伝えたかったことは何か。それは、ユダヤ人だけでなく、異邦人も神の国にもれなく招かれていて、神様が主催する大宴会の食卓にユダヤ人と異邦人が一緒について、仲良く食事をすることが神様の願いであるということです。すべての人が神様に愛されている存在であることに気付いて、悔い改めて、ユダヤ人と異邦人が一緒に仲良く歩んでゆく、それが神様の願いであり、喜びだということです。神様は、ユダヤ人だけを愛しておられるのではなく、異邦人も、すべての人を平等に愛しておられます。父なる神は、義人だけでなく、罪にある人たちを愛しておられる憐れみの神であるということをイエス様は伝えたかったのです。

 

15章にある三つの譬えは、失われたものが見つかって神様が大きな喜びに満たされたこと、その喜びがいかに大きなものであるかが主題となっています。そして、その喜びを 天と地にもたらすのは、救い主イエス・キリストであるという事です。これらの譬えは、イエス・キリストがこの地上に来られた意味と目的を表す非常に重要な役割を果たす譬えであることを覚えましょう。

 

それでは、11節から12節を読んでゆきたいと思います。「また、イエスは言われた。『ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。』」とあります。

 

申命記21章17節には、父親の財産は長男が三分の二、次男が三分の一受け取る定めがありますが、ユダヤ社会の実際は、父親が存命中は財産の分与は基本的にないそうです。たとえ分配があったとしても、父親が存命中は財産の使用権は父親にあり続けるそうです。

 

また、ユダヤには「集会書」という知恵の文書があって、その33章19節から23節には、「あなたの生きているうちは、子にも妻にも、兄弟にも友人にも、だれにもあなたを支配する権威を移すな。・・・命と息のある限り、あなたの地位を誰にも譲るな。あなたの子らがあなたにねだるほうが、あなたが彼らにすがるよりは良い。・・・・あなたの命の尽きる時、死の瞬間に財産を分配せよ」と記されているそうです。

 

ですから、存命中に財産分与をするというのは異例中の異例、特例であり、一部から「甘やかし過ぎ」と言われてもおかしくないことです。しかし、それ以上に異例といいましょうか、もっとも非常識なのは、13節にあるように、「何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった」とある下の息子なのです。そしてこの息子が、実はわたしたちなのです。わたしたちに重要なのは、この譬えはわたしたちを罪から救うために神が常識を逸脱した愛の業を成してくださったということを覚え続けるということです。

 

この下の息子には様々な不満があったのでしょう。その一つが「自分には自由がない、自由に使える権利もお金もない」ということであったと思います。この不満は弟だけでなく、上の息子・兄にもあったことが29節の「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背くことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊1匹すらくれなかったではありませんか」という言葉からも分かります。

 

しかし、そういう不満・ふて腐れが実は神様に対する罪なのです。「遠い国」へ旅立った下の息子、何を求めて旅立ったのでしょうか。父親の監視から遠く離れて、自分の好きなように暮らしてみたかったのでしょうか。自分の実力を試してみたかったのでしょうか。本当に好き好んでお金を費やす体たらくな生活をしたのでしょうか。遠い国で出会った人たちにそそのかされ、食い物にされたのかもしれません。しかしながら、これはイエス様が語られた「譬え話」ですので、そこまで深く考えるのは不要だと思いますが、この息子とわたしたち現代人の生き様を比較してみるのも良いことのように思えます。

 

「遠い国」とは、神から離れた場所であり、ユダヤ社会では不浄・不潔の動物とされている豚を飼う土地、つまり汚れた土地であり、そのような悪い社会環境に生きて、そこで時間もお金もすべて浪費し、身をもち崩して生きたということです。

 

それだけならば、「自業自得」、「自己責任」と一蹴りで片づけられてしまいますが、14節でイエス様は「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた」という自然災害が起こったというひねりを譬えに加えます。自然災害は、「自業自得」、「自己責任」ではありません。

 

ここでイエス様が強調したい、わたしたちに気付かせたいのは、神という存在なしに、わたしたち人間は本当に無力で儚い存在であるということです。どんなに自由や権利を主張したところで、どんなにその力と自由を誇示しようとしても、ほんの些細なことであっという間にそれらを失い、孤独になり、惨めさをとことん味わうことになるということです、神様抜きの生活ではいつか。

 

今まで豪遊して美味しい物を食べ、美味しい酒を飲んでいた生活は何らかの内外的な原因で一変し、食べるにも困り果て、困窮生活に追いやられるのです。それでもどうにか生きてゆこうと、豪遊生活の中で出会った人たちのところに身を寄せようとしますが、お金だけがつないでいた関係性ですから、お金がなくなると見向きをしません。助けてもくれません。

 

ようやく身を寄せたところでは、15節にあるように「その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた」のです。お金とは無縁の関係性、友情を築くことがどんなに大切かを教えてくれます。この下の息子は、16節にある通り、「豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった」という本当に惨めな生活を強いられます。ユダヤ人にとっては極限の恥です。そのような危機的な状況の中で、この息子に人生の転換期が訪れるのです。そのことを示すが17節の「そこで」という言葉です。

 

17節から19節に、「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』」、彼の心の中にそういう真実な悔い改めの思いが与えられるのです。

 

新共同訳聖書では「我に返った」とあり、口語訳と新改訳聖書では、「本心に立ち返った」となっています。人生が順風満帆の時は、自分は何者であるのか考えることはありません。どちらかと言うと、自信に満ち、地球は自分を中心に回っているように錯覚します。しかし、人生最悪の危機、行き詰まり、どん底に置かれると、自分を見つめるようになり、自分はどうしようもない人間だと、無力な人間であることに気付かされるのです。その境地に至らなければ、とにかく誰か他の人に責任転嫁をしてしまうのです。

 

しかし、幸いなことに、この放蕩に身をもち崩した息子は、どん底で自分の足りなさ、卑しさ、身勝手に生きてきた自分自身を見るのです。そして、これはイエス様の愛の表れだと信じますが、この息子は悪い方向にではなく、父親・神様の方へ心を向けて、自分の弱さ・罪を悔い改めて、父に謝ろうと父親のもとに帰るのです。イエス様はこういう素晴らしい選択肢があることをわたしたちに教え、神のもとに帰るように励まし、招くのです。

 

息子は、惨めな生活を後にし、父親のもとに戻ります。雇い人の一人にしてほしいと言う思いで帰ります。この父のもとに帰ると言うのが、心を改める「改心」なのです。そして続く20節です。「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のです。この「ところが」が父の愛の表れなのです。驚いた息子は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と言ったと21節にあります。

 

しかし、彼が次に準備していた「雇い人の一人にしてください」と言う言葉を言う前に、遮るかのように、22節から24節、「しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』と言うのです。

 

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と言う父の言葉が僕たちに伝えられます。「いちばん良い服をこの子に着せ」とは、これまでの間違い・罪をすべて赦すということです。「指輪をはめてやる」というのは、指輪は権威の象徴ですので、息子としての権威を回復させるということです。「履物を履かせる」とは、奴隷は靴など持っていません。つまり、もう奴隷でなく自由人であるということのしるしです。つまり、イエス様は、下の息子がずっと渇望していた幸せ、権威、自由は、すべて憐れみの父、神様にあるということを示しているのです。

 

行方が分からなかった息子が帰ってきたことを父親は無条件で喜びます。放蕩に身をもち崩した息子を責めたりもしません。ただ息子が生きていたことをひたすら喜びます。この父は、親バカでしょうか。世間的には、溺愛も甚だしい、愚かな愛だと言われるでしょう。しかし、わたしたちも、このような憐れみと慈しみに富んだ神様の存在とその愛が必要なのです。そして実際に神様は存在し、わたしたちの帰りを待っておられるのです。神様は、わたしたちが心を入れ替えて神様のもとに戻ることをひたすら待っていて、わたしたちが悔い改めて神様に立ち帰ると、そこで大きな祝宴が始まるのです。これが、イエス・キリストがファリサイ派の人々とわたしたちすべての人に伝えたかった福音であり、神様の愛なのです。その愛を喜び、心から神様に感謝したいと思います。