ルカ(86) 不正を働く人の譬えを語るイエス

ルカによる福音書16章1〜13節

ルカによる福音書の学びも16章に入ってゆきますが、基本的なテーマ、イエス様の教えは15章からの流れのままです。すなわち、すべての人は神の国へ招かれているが、ユダヤ人も、異邦人も、自分の間違い・罪を認めて悔い改めなければ、神の国へ入ることはできないということです。今回は、特にお金が間違いを起こす原因の一つと教えるのです。

 

例えば、子どもが外で元気いっぱい遊んできました。ある子は野球やサッカーをして土まみれです。ある子は砂場で遊んできて手足が砂まみれです。ある子は泥遊びをして帰ってきました。親は、外で砂やほこりを落とさせたり、玄関口でユニフォームを脱がせたり、手洗いをよくしないとリビングルームへ入れないのではないでしょうか。同様に、罪にあるわたしたちが、罪に汚れたままで、聖なる神の家・国へ入ることはできません。

 

ファリサイ派の人々を筆頭にしたユダヤ人たちは、「自分たちは律法を守り、神に近く生きる者、義人であるから、悔い改める必要はない」と激しく思い込み、同時に律法を守らない人たちを見下し、勝手に罪人と決めつけ、裁いていました。神様の愛も憐れみもまったくない人たちです。そういうユダヤ人たちに対してイエス様は15章の譬えを語って、「あなたがたも悔い改めなければ神の国に入れない。悔い改めよ」と言ったのです。

 

悔い改めるべき者は、徴税人や罪を犯す人々だけでなく、ファリサイ派の人々や律法学者たちもみんなそうなのです。そして、そこにはイエス様の弟子たちも含まれるのです。弟子たちも悔い改めなければ、たとえ「イエス様の『弟子』」であっても、最終的に神様に拒絶されることもあるのです。弟子であるから、バプテスマを受けたクリスチャンであるからエスカレーター式に神の国へ入れられるということは決してないのです。それは勝手な思い込みであり、まったくの誤解であり、最悪の場合、そのような思いは妄想にまでなってしまうのです。そのことを教え、注意喚起するために、16章の最初でイエス様はご自分の弟子たちに大切な教えを語り始められるのです。

 

16章1節に、「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」とあり、14節には「金に執着するファリサイ派の人々」とありますので、基本的に弟子たちに対してイエス様は語り、教えておられますが、ファリサイ派を含むユダヤ社会の人々に語るのです。では、どのようなことを語られるのでしょうか。この16章1節から13節は、二つの内容で構成されています。1節から9節は主人から預かっていたものを不正に流用する管理人の譬えで、10節から13節は「富」についての教えです。

 

つまり、今回の箇所のテーマは、この世の富・お金、その力に惑わされてイエス様から離れないように気をつけなさいという警告となっています。先ほど言いましたように、14節には、律法を守ると自負するファリサイ派の人々のことを「金に執着する人々」と記されていて、15章の放蕩息子のように、宗教者も金に溺れて身を持ち崩してしまう危険性がいつの時代にもあることを教えています。お金と権力に惑わされるのは、政治家だけでなく、すべての人がお金の力に魅了され、身を持ち崩してゆく危険性と隣り合わせなのです。ですから、金の誘惑に陥ることなく、神様には忠実に、人々には誠実に、自分もいつも正直に生きなさい、神様から預かっているものをよく管理して生きなさいとの教えがここにあります。イエス様の言い回しが難しい箇所も多々あり、困惑するところもある部分もありますが、基本的にはお金・富・欲望のマネージメントのことがイエス様から弟子たちに、わたしたちに教えられていると念頭に置きながらこの箇所を聴きましょう。

 

では、今回のイエス様の譬えを読み進めましょう。まず1節と2節です。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』」とあります。管理人とは、主人の財産を管理する会計士のような人で、土地や財産の管理や資産運用を任せられている人で、大きな責任がある人です。そのような人が不正を行っていました。間違った資産運用をしていたようです。利益を着服して優雅な生活をしていたり、取引先からリベートを取っていたり、不適切な運用をしていたのでしょう。

 

告げ口はよろしくありませんが、管理人の不正行為・主人の財産を無駄にしているのが誰の目にも無視・看過できないほど酷かったのでしょう、やむを得ず主人の耳に入れたのだと思います。今日でいう「内部告発」でしょう。主人はすぐに管理人を呼びつけ、会計報告を提出するように命じます。身から出た錆ですが、主人の信頼を完全に失った管理人は危機的な状況に置かれ、解雇を確信したので生き延びるために知恵を尽くします。

 

3節と4節です。「3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』」と考え、次のような行動に移ります。危機的な状況に追い込まれると、わたしたちも知恵を働かせ、生きるための有りとあらゆる手段を考えます。

 

5節から7節に、「5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』とあります。これは明らかに借用書・契約書の改ざん、不正行為です。

 

借りている油の代金を100から50バトスに、小麦の代金を100から80コロスに減額すると言うのは、いずれも約500デナリ、500日分の労賃に匹敵する額です。コロナパンデミックの最中、マスクの配布ではなく、このような減額補助や免除が政府や自治体からあったら、どれだけ多くの人々、家庭、飲食店、中小企業が助かったことでしょう。

 

さて、難解な箇所は8節前半です。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」と言ったとあります。摩訶不思議な言葉です。被害者が加害者を褒めるのです。しかし、ここで主人が、イエス様が褒めているのは管理人の不正ではありません。仕事をクビになるという危機感の中で、生き延びるために管理人が知恵を振り絞って生きる道を探そうとした彼の抜け目のなさ、思慮深い・賢い判断を褒めたのです。

 

イエス・キリストに出会うまで、わたしたちはどのような生き方をしてきたでしょうか。神様から頂いた命、時間、知恵、身体、教育、お金など、どのように用いていたでしょうか。多くの場合、自分のためだけに使ってこなかったでしょうか。神様から委ねられていたものをすべて正しく管理し、運用してきたと胸を張って言えるでしょうか。言えないのがわたしたちではないでしょうか。

 

8節の後半に、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」とありますが、「この世の子ら」とは神という存在を無視した者たちを指し、不正にまみれた日々、世俗的な生き方、物質的なものを常に追い求める生き方、自分の利益ばかりを追い求める人々と一緒に生活をしている人たちです。「光の子ら」とは、神様の愛の中(光の中)に生かされている人たち、いつも誠実に生きようと神様に助けを求めて生きる人たちを指しています。しかし、現実は不誠実な人が力を振りかざし、言葉は悪いですが、「正直者がバカをみる」、そういう世の中です。

 

さて、9節もイエス様の難解な言葉ですが、警告を込めた強い言葉です。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」とあります。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とはどういうことでしょうか。この「不正にまみれた富」とは、この地上での富・お金であって、不正な手段で得た金ではありません。「不正」という言葉に支配されないようにしましょう。

 

そして「この世の富で友達を作りなさい」というのは、この世の富を利用して社会の中で小さくされている人たちに出会ってゆき、愛をもって仕える中で友だちのようになり、共に生きなさいということです。先日、教会の3名の方々とチャリティーコンサートのボランティアをして、多額の支援金が寄せられましたが、金額ではなく、心を捧げる事が重要であって、小さく弱くされている人たちに自分の時間や体や心を使って仕える事、それが「富で友達を作りなさい」という本当の意味です。

 

自分の持ち物は僅かで、取るに足らないと思う必要はありません。神様から与えられている命、体、健康、時間、知恵、力などを隣人のために捧げてゆくことが真に大切であって、ファリサイ派の人々のように口先だけの人は使いものにならないと言うのです。イエス様を通して神様が求めておられるのは、人の目には触れないような小さなこと、本当に些細な事に忠実で、心から支え、仕える愛のある人なのです。10節にあるように、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」というイエス様の言葉はそういう意味です。

 

11節と12節も同じです。「11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」とありますが、この地上で生かされている間、神様から委ねられている富などを最も必要とされている所に注入して用いる忠実さがある人に、神の国でもっと価値のある「永遠の命」を父なる神はお与えになる、そのような祝福をお任せになるとイエス様はここで言っています。

 

13節に、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とあります。弟子たちに言われたイエス様の言葉です。イエス様の弟子、イエス様に従う者は、心を惑わすお金や富に惑わされずに、執着せずに、心がイエス様から離れないようにしなければなりません。神と富との両方を同時に重んじることは不可能であるからです。こういう富の惑わしがわたしたちの近くにいつもあるので、気を付けなさい、何が本当に大切なことかを見極めて、神に喜ばれることを信仰をもって、祈りつつ選び取って生きるようにと、イエス様はこの譬えを通して語られたのです。