ルカ(88) 死後の逆転世界について語るイエス

ルカによる福音書16章19〜31節

ルカ福音書16章の最後の学びの箇所は、他の3つの福音書には記録にないルカ特有のイエス様の譬えとなっています。そしてテーマは、前回の14節から18節につながっています。すなわち、金に執着しすぎる人と金に執着しようも貧しすぎてお金のない人のことが記されています。お金を愛する金持ちと極度の貧しさの中にいる人の譬えです。

 

今回のイエス様の譬えは、二つの主題からなります。第一の教えは、19節から25節となりますが、生きている間に自分の至福のために富を欲しいままに使ってきた金持ちと極度の貧しさに苦しみ続けた者の死後の国での立場が逆転し、貧しかった人が天で慰められ、お金持ちは陰府で苦しみにさいなまれるという教えです。もっと平たく言えば、権力ある者、富める者は低くされ、貧しき者、弱き者は高められるということです。

 

マリアの賛歌(ルカ1章46〜55節)の51節から53節にこうあります。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力のある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」とあります。またイエス様の「平地での教え・説教」(ルカ6章20〜49節)の中で、20節と21節で、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなた方は笑うようになる」という主の言葉があります。

 

第二の教えは、27節から31節で、もし旧約の時代の言葉、つまり神の言葉(律法と預言者の言葉)をもっても金持ちを悔い改めさせること(改心させること)ができないのであれば、新約の時代の言葉、つまりイエス・キリストという神の言葉、そのイエス様の様々な奇跡の業をもってしても、金持ちはイエス様を信じない頑なさがあるという教えです。

 

この二つの教えは、26節の「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」というイエス様の言葉で結ばれています。イエス様は、神の国と陰府の世界には大きな淵があって、陰府から天に迎えられることはないとはっきりと言われています。ですので、この譬えは、富に溺れて改心しない人々への警告、終末の神の裁きの警告となっていて、富を持つ人々への悔い改めを促すものとなっています。

 

それでは19節から22節を読みましょう。「19『ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。』」とあります。

 

当時の金持ちや貴族が身にまとう衣はエジプト産の柔らかい紫の麻布であったそうです。この譬えの金持ちは、「毎日贅沢に遊び暮らしていた」とあります。あまりある富を持って暮らしていたのでしょう。しかし、その金持ちの家の前に、ラザロという名の身体中に肌の病気をもった貧しい人が「横たわっていた」とあります。「ラザロ」という名前はエリエゼル(神は助ける)という意味の名を短縮形にした名前で、例えば、マイケルがマイク、エリサベスがリズというように短縮形で呼ばれるようなものです。「横たわっていた」とは、極度の空腹感で起き上がれない状態です。このような人が自分の家の前で苦しんでいても、金持ちは助けようとしません。しかし、神様が彼をその後、助けるのです。

 

やがて、このラザロと金持ちはどちらも死を迎えます。ラザロは極度の栄養失調でしょうか。金持ちの死因は分かりませんが、死んだ後の彼らの立場は明らかに逆転します。ラザロは天使たちによって神の国で催されている宴会にいるアブラハムの側に連れて行かれます。金持ちは人々の手で葬られます。この金持ちがたどり着いたのは、23節にあるように「陰府」でした。「金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた」とあります。

 

「アブラハムのすぐ側」という言葉を直訳すると「アブラハムの懐(ふところ)」になるのですが、これには二つの意味があるそうです。一つは、アブラハムの子として迎え入れられる、ということです。もう一つは、特別な客・主賓として迎え入れられる、ということだそうです。神の国で催される宴会に招く側・神様の心意気が伝わってくる言葉です。

 

「陰府」とはどういうところでしょうか。24節の金持ちの言葉から分かります。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」とありますが、陰府とは、父アブラハムが主なる神と交わした祝福の契約がない所です。神様の憐れみがない所です。激しい炎の中で悶え苦しみ、喉の渇きに苦しむ所です。神様から遥かかなたに離れた場所です。選民ユダヤ人であることなどまったく関係のない苦しみの場所です。わたしたちは、そのような所に自分の身を置きたいでしょうか。そうではないはずです。

 

お金持ちとラザロの立場が明らかに死後に逆転している、これはイエス様が語られた譬えではありますが、イエス様のあの6章での教え通りになっているというのも明らかです。つまり、イエス様の教えには一貫性があるということであり、その一貫性は2000年を超えた現代でも続いていて、優しいイエス様から与えられる大変真面目な警告なのです。つまり、わたしたちにそうなって欲しくないというイエス様の憐れみ、慈しみに富んだ心がここにあることを覚える必要があるのです。

 

それでは、金持ちの「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」という言葉に対して、アブラハムはなんと答えたのでしょうか。25節です。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と言うのです。

 

地上で金持ちであった人は、24節、27節、30節で、「父アブラハム・父」と3度も叫んでいます。これは血縁による救いを求める叫びです。アブラハムも、金持ちのことを「子よ」と25節で答えていますので、血のつながりを認めています。しかし、血のつながりは救いに何の役にも立たないのです。祖父母や親が「敬虔な」クリスチャンであろうが、子であるあなたの救いとはまったく関係がない。自分で悔い改めて、自分でイエス様を救い主と信じて、自分で救いを、神様の愛と憐れみを求め、神様の御心にそって生きてゆく、一人ひとりに信仰が与えられることを覚えて、自分の信仰もさることながら、愛する家族や子の真の救いを祈り求める必要があるのです。

 

さて、イエス様は、はっきりと言われます。「あなたは、地上で生かされていた時のことを思い出しなさい。あなたは、地上で良いものを神から頂戴していたが、それを貧しいラザロ、あなたの家の前で苦しみ悶えていた彼に良いものを与えることは一切しなかった。あなたには弱い人たちを憐れむ心がなく、自分を喜ばせるためだけに富を浪費していた。ラザロは、あなたのような富のある人々から保護されることも、養われることもなく、地上では何も良いものを受けることができなかった。今、地上での命が終わった後、あなたもラザロもそれぞれにその報いを受けている。ラザロは喜びに満たされ、あなたは苦しみに満たされている。父なる神はすべて知っておられるのだよ。小さく弱くされていた人たちを神は憐れみをもって神の国へ招き、憐れみの心を持たずに傲慢に生きていた人たちを厳しい裁きをもってあるべき所へ置くのです」というのです。

 

イエス様は、この譬えを通してわたしたちに大切なことを教えてくださいます。自分のためだけに生きるのではなく、弱く小さくされている人たちにいつも目をとめ、憐れみの心を注ぎなさいと。もっと謙遜になり、周りに存在する人々に目を配り、あなたにできる心配りをしなさいという教えです。

 

この地上で生かされている間、神様からいただいている豊かな愛をあなたがたが人々と、特に神の愛を必要としている人たちと分かち合う、喜びを分かち合う姿を神様はいつもご覧になっている、そのことを思い出しなさい、神様の視線があることを知りなさいとイエス様はおっしゃっています。

 

このイエス様の教えを「因果応報的思想」に基づいたものだと人は言うかもしれませんが、最も重要なのは「行い」ではなく、その行いの中心にあるはずの「憐れみの思い」です。イエス・キリストを通して神様に今日も愛され、憐れまれている者として、日々出会ってゆく隣人、共に生きている人々に対していつも憐れみの心をもって接して仕えてゆくこと、それが神様の願い・御心であることを覚えて実践しましょう。この思いと実践がないと、神様とわたしたちとの間に、陰府から渡ろうとしてもできないし、天からも越えて来ることのできない大きな淵が立ちはだかるとイエス様は警告されます。

 

さて、27節から31節にある第二のテーマです。「27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」とあります。

 

金持ちは、死人の復活があれば自分の兄弟たちは悔い改めるから、ラザロを彼らのもとへ送ってほしいと父アブラハムに嘆願します。しかし、アブラハムは、「お前の兄弟たちは神の言葉に聞くべきだ」と言いますが、金持ちは「彼らは、言葉は信じなくても、死人の復活という奇跡なら信じて悔い改めるでしょう」と言います。果たしてどうでしょうか。

 

29節の言葉は、16章15節から16節に関連づけられています。すなわち、律法と預言者の言葉の時代はバプテスマのヨハネまでで終わり、イエス・キリストという神の言葉の時代が始まった。しかし、多くのユダヤ人たち、特に富と権力を愛する傲慢な人たちはモーセを通して語られた神の言葉に聞き従っていると言いつつも実際には神の言葉通りに生きていない。そういう人たちは、たとえラザロが死の中から復活しても、つまり、イエス・キリストが復活しても、どんなに大きな奇跡の業が神様によってなされても、心が頑なであるために悔い改めて信じることはないとイエス様は言われるのです。

 

では、金持ちの兄弟たちをはじめ、今を生きるわたしたち、多くの人々に救いの希望はないのでしょうか。いいえ、救いを神様からいただく方法が一つだけあります。それは、イエス・キリストの言葉を神の言葉として信じて、その言葉通りに生きることです。イエス様の言葉は、わたしたちを救い、癒し、日々生きるために必要な知恵と力、信仰を与え、神様につなげ続ける力があるのです。主イエス様の言葉を日々聞きながら、神様の憐れみの中で、小さい事に忠実に生きることが神様の永遠の祝福を受ける唯一の道なのです。