復活の主イエスから目を離さない

「復活の主イエスから目を離さない」 四月第一主日礼拝 宣教 2024年4月7日

 ヨハネによる福音書 21章15〜23節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。教会前の桜が満開です。今週後半には葉桜になるでしょう。楽しんでください。また公園や道沿いに植っている木々に新芽がつき始め、最高の新緑をしばらく楽しむことができます。神様の創造の業を十分に堪能してください。先週月曜日から新年度が始まりましたが、その最初の日曜日の朝に、神様の恵みのうちにこの礼拝堂に招かれ、みなさんと共に賛美と祈りと礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。

 

先週の日曜日でI副牧師が退任され、実に16年ぶりに大久保教会は牧師一人の牧会となりましたので、少し緊張しておりますが、わたしの背後には主の励ましと皆さんのお祈りがあることを感じております。主と皆さんに感謝しています。コロナパンデミックが始まった2020年からずっと休止していた子どもメッセージを今朝から再開しました。モニターも備え付け、視聴覚を使って聖書に記されている神様の言葉を子どもたちに分かち合ってゆきます。また、主の晩餐式の守り方もコロナ前に戻ります。そして極めつけは、今日から昼食が再開されます。しばらくは第一と第三の日曜日だけになりますが、懐かしいメニューも再登場しますので、朝の礼拝の次に、昼食と交わりを楽しみにしていただければと思います。もう一つ言い忘れましたが、10時10分から大人の教会学校も続いています。礼拝の中で牧師が一方的に語るメッセージという形で魂の養いを受けるのとはまた違った素晴らしい養いをグループで聴くことで受けることができますので、ぜひ教会学校からご出席ください。

 

さて、大久保教会の牧師として皆さんにお祈りのお願いが一つあります。子どもの頃から皆さんに愛され、祈られてきたAさんが東京神学大学に先週入学しました。彼女を推薦した教会の牧師として、また父親として、わたしも入学式に出席しましたが、まさか自分の娘がキリスト教の中学・高等学校の聖書科の教師になりたいと言い出して神学校へ入学するとは夢にも思いませんでした。わたしも30年前に経験がありますが、神学校での学びは楽ではありません。確かにたくさんの感動や大きな恵みを経験しますが、特に最初の一年は環境が大きく変わりますし、ギリシャ語や原典の釈義の授業などに頭と心が中々ついて行けずに苦悩と涙と叫びの連続になるはずです。わたしの神学校での最初の一年は、とにかく悲惨で、神学校から消えて誰も知らない土地へ行こうと何度思ったことでしょう。神学校では、神様と教会に仕える器、主の僕となるべく高度な訓練を受けます。自分の力の無さを痛感させられ、傲慢さや考えの甘さが砕かれ、作り変えられます。多分、彼女は日曜日には笑顔で皆さんと接するでしょうが、今後もっと忙しく、苦しくなるでしょう。お祈りください。

 

さて、今朝の礼拝への招きの言葉として、今年度の年間聖句を読ませていただきました。本来ならば、年度初めの今朝の礼拝の中でメッセージとして語るべきところですが、来週14日の朝の礼拝の中で語らせていただきます。今朝は、次回の礼拝へのお誘いとしてもう一度読ませていただこうと思います。ヘブライ人への手紙11章6節です。週報の表紙にも記載されています。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」とあります。神様に喜ばれる信仰とは、どのような信仰でしょうか。神様に近づくとは、どういうことでしょうか。どのようにして霊的成長が与えられ、教会形成、福音の宣教を進めて行けば良いでしょうか。新しい年度を共に歩んでゆく上で指針となるメッセージになると思いますので、是非ご出席ください。

 

さて、先週のイースター礼拝では、たくさんの方々とイエス様の復活をお祝いできて感謝でした。イースターは、イエス様の十字架の死と三日目の甦りが一体となって救いの完成がなされた日です。わたしたちの救いのため、神の子イエス・キリストが十字架に架かって贖いの死を遂げてわたしたちの罪を帳消しにしてくださり、わたしたちに永遠の命を与えるために、愛の神様は十字架で死なれたイエス様を三日目に墓より甦らせてくださったこと、罪赦されたことを喜び、神様に感謝をささげる日です。このイエス様の十字架と復活を一言で表現するとすれば、それは人生のリセットです。心のリセットと言っても良いでしょう。

 

神様に対してわたしたちが犯した罪によって壊れてしまっていた神様との関係性がイエス様の犠牲によって正常化し、神様に再びつなげられ、祝福された関係性が再び始まった日です。神様の愛に生かされるようにリセットされ、イエス様の復活の力によって新しい命がスタートする、人生の再出発ができるチャンスを与えてくださったのがイエス様の十字架の死と死から三日目の復活なのです。この新しくされた残りの人生をどのように歩むべきでしょうか。わたしたちがどのように生きたいかと考え、願う以前に、主はわたしたちにどのように日々を過ごしてほしいと願っておられるでしょうか。そこが重要な部分だと思うのです。

 

今朝の聖書箇所は、ヨハネによる福音書21章で、イエス・キリストが甦られた後、ガリラヤ湖の湖畔で7人の弟子たちにご自身を現された時のことが記録されています。14節に、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これで三度目である」とありますが、この時にイエス様がなされたことは弟子たちのために朝食を準備されたことです。弟子たちが漁を終えて陸に戻ってみると、すでに食事のための炭火がおこしてあり、その上に魚がのせてあり、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」とイエス様は招かれるのです。イエス様がパンと魚を弟子たちに与えられたと13節にあります。つまり、復活されたイエス様は、弟子としての責任を放棄して地元のガリラヤ湖に戻って漁をしていた弟子たちを本来の姿に戻すために、食事の準備をし、弟子たちに仕えられたのです。

 

つまり、復活されたイエス様とイエス様を甦らせた神様がわたしたちに求めておられることは、仕える、仕え合うということだとここから読み取れます。仕えるとは、愛することです。仕え合うとは、愛し合うことです。しかし、わたしたちには、心から素直に仕え合うことが難しい、愛し合うのが難しいと感じてしまうこと、誰かとわだかまりがある、そういうことがよくあります。この「わだかまり」から解放するために、イエス様は弟子たちに現れ、仕え、声をかけて行かれるのです。そして、この「わだかまり」、とっても強い心のねじれを持っていたのがシモン・ペトロです。21章15節から28節は、イエス様とペトロのやり取りが記されていますが、この箇所は、イエス様がペトロをわだかまりから解放し、弟子として復帰させる、復職させる箇所となっています。

 

シモン・ペトロは、十字架に架けられる前の食事会の時に、「どのようなことがあってもイエス様を裏切りません。見捨てません」と豪語していたのですが、自分の命を守るためにイエス様を知らないと三度も否定しました。イエス様を否定するとは、イエス様とのつながりを断ち切るということです。愚かにもそのようなことをしてしまった意思の弱い自分を強く責め、イエス様に顔向けができないとずっと心を痛めていたシモン・ペトロ。素直に「ごめんなさい」と言えない、また面と向かってイエス様に謝るチャンスを逸していたのかもしれませんが、そのようなペトロにイエス様のほうから先に声をかけられるのです。

 

15節をご覧ください。「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。」とあります。イエス様を三度否定したペトロに対して、イエス様も三度「わたしを愛しているか」と問われます。三度目に聞かれた時、ペトロは心を痛めて悲しくなったと17節にありますが、ペトロから三度も否定されたことを知っており、心を痛めていたイエス様は、ペトロの気持ちはよく分かっていたと思います。彼を愛していたからです。ですからイエス様は、三度もイエス様を否定して弟子として三歩後退したペトロをまず悔い改めさせ、再びイエス様の忠実な弟子とするために三歩前進させるためにそのように問いかけられ、ペトロの砕かれた心を確認しながら、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われ、イエス様を信じるキリスト者の群れ、教会を牧会する者、教会を建て上げる者として再派遣をされるのです。ここが復活されたイエス様の愛によってペテロがリセットされた場面であり、リスタートの場面なのです。

 

皆さんも今年のイースターを通して心がリセットされたと思いますが、もし皆さんの中に人生のリセット、リスタートが必要と感じる方がおられるならば、わたしたちの罪のために死なれ、永遠の命を与えるために甦られたイエス様を救い主として信じてください。助けを求めてください。死より甦り、今も生きておられる主イエス・キリストが必ずあなたを助け、あなたを救われ、あなたに平安を与えてくださいます。イエス様を信じることが大切です。

 

ただ、イエス様を信じたら、すぐにサタンが近づいてきて、わたしたちの心を惑わせ、イエス様から引き離そうとします。そのサタンの手段というのは、自分と誰かを比べるということです。人生で最も不幸なことは、比べること、比較することだと言われています。サタンの手口がこれです。お互いを比べることで優越感、劣等感を抱かせ、競争心や焦りや嫉妬心や憎しみを煽ります。こういうことは社会の中だけでなく、教会の交わりの中でも起こってしまうのです。しかし、これはサタンからの霊的挑戦であって、決して神様とイエス様の御心ではありません。神様とイエス様の御心はもっと違うところにあります。

 

21章20節から22節を読みたいと思います。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である。ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。』」ここで大切なのは、「あなたに何の関係があるか」という言葉です。23節でも同じ主の言葉があります。自分と誰かを比べるな、ということです。

 

わたしたちにはそれぞれ長所もあれば、短所もあります。強さも弱さも併せ持っています。イエス様以外に完全な人など存在しません。ですから、そういう自分を恥ずかしがらずに、みんなイエス様を通して神様に罪赦され、愛されている存在、神様の御用のために仕える存在と認め合い、共にイエス様に従って歩む群れが教会です。わたしたちも、教会も、比べ合うことでは成長しません。成長する方法は、神様の愛を喜び、お互いを認め合い、受け入れ合い、祈り合い、愛をもって仕え合ってゆくことです。そのことを日頃から成すためには、復活の主イエス様に目を注ぎ、イエス様から目を離さずに、逸らさないことです。主イエス様とご聖霊がいつも共にいて助けてくださいます。復活の主を信じて、共に歩みましょう。