ルカ(90) 重い皮膚病の十人をいやすイエス

ルカによる福音書17章11〜19節

今回の学びは、次回聴くことになっている17章20節から37節に深く関連する箇所となります。すなわち、20節以降にはファリサイ派の人々から「神の国は、いつ、どこで、どのような形で来るのか」とイエス様は問われて答えるのですが、今回の11節から19節には、いったい「誰」が神の国へ招き入れられるのかということがテーマとなっています。

 

余談になりますが、アメリカの英語教育では、文章を書く時、who, what, when, where, why and how、つまり誰が、何を、いつ、どこで、なぜ、どのようにするのかを具体的に書きなさいと教え込まれます。抽象的な事は書かないようにと教え込まれます。そういう中で、今回と次回の学びでは、神の国(何)に関して、誰が、いつ、どこで、どのような形で来るのかということを聴きますが、なぜ(理由)という問いに関しては、すべての人は神様に愛されているからという根源的で究極的な理由以外に答えはありません。

 

さて、最初の11節に、「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」とありますが、ここには注目点が二つあります。最初の注目点は、「イエスはエルサレムへ上る途中」という言葉が記されていますが、この「エルサレムへ上る途中」という言葉がルカ福音書で出てくる時、それは特別な意味を持っています。それは、ユダヤ人だけではなく、異邦人も神の国に招かれているという福音です。

 

この「エルサレムへ上る途中」という言葉がルカ福音書で最初に出てくるのは、9章51節です。そこでは、イエス様がサマリア人たちの村に入った時のことが記録されていますが、イエス様がその村に入られた時、イエス様はサマリアの住民たちから歓迎されず、拒絶されました。その理由は、53節にありますが、イエスが「エルサレムを目指して進んでおられた」ことにサマリア人たちは良い思いでなかったからです。

 

ここでサマリア人について簡単に説明したいと思います。ユダヤ人とサマリア人は、あることが原因で犬猿の中、お互いを敵のように捉える関係でずっと歩んできました。イスラエルは歴史の中で、一つの国が南北に別れ、北イスラエルと南ユダという二つの国に分かれていた時代、北イスラエルがアッシリア帝国と戦争をして敗北し、捕囚の民となり、主だった人々はアッシリアやその周辺へ連れて行かれるのですが、残った人々もいました。

 

勝利の後、アッシリアは他の民族を北イスラエルに入植させ、イスラエル人たち、つまりユダヤ人と結婚させ、混血の民サマリア人が誕生しました。選民ユダヤ人の血が混じった、汚れたということを受け入れられない南ユダの人たちはサマリア人を忌み嫌い、排除するようになり、お互い交わることを避け続けてきた歴史があります。詳細は、旧約聖書の列王記下17章(p607)に記されています。サマリア人たちはサマリア・ゲリジム山に神殿を建て、そこで神に礼拝をささげていましたが、ユダヤ人たちはエルサレムにある神殿で礼拝をささげていましたので、民族的対立はさらに深まっていきました。そのような中ですが、イエス様は敢えて、「サマリアとガリラヤの間を通られた」のです。

 

さて、この「エルサレムへ上る途中」という言葉がルカ福音書でもう一度出てくるのは、13章22節です。「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」とあるのですが、イエス様はここで、いわゆる「選民」ユダヤ人たちに対して、ユダヤ人だけが救われるのではない、「東から西から、また南から北から(あらゆる民族が)来て、神の国で宴会の席に着く」と言われます。救いと神の国はユダヤ人だけのものではなく、わたしたちを含む異邦人にも開かれていて、神様は人々を四方八方から神の国へ招かれるのだという宣言をするのです。それが良い知らせ、福音なのです。

 

そして今回の17章。ここに「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」と記されています。イエス様はなぜ「サマリアとガリラヤの間を通られた」のでしょうか。9章では、イエス様はサマリア人たちに一度は拒絶されたではないですか。ユダヤ人たちの住むガリラヤを通られたら良いのに、なぜ敢えてサマリアとガリラヤの間を通られたのでしょうか。ここで注目すべきは、地名の順番です。「ガリラヤとサマリア」ではなく、「サマリアとガリラヤ」とサマリア人が先になっています。大半のユダヤ人たちがサマリア人たちを忌み嫌っても、イエス様はサマリア人を神様に造られ、愛されている人たちと捉えて愛し、癒し、福音を伝えてゆかれます。

 

続く12節に、イエス様が「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え」たとありますが、正確には、「ある村へ入るところで」となります。重い皮膚病を患っている人たちは、汚れた者として村の外で生活しなければなりませんでした。ですから、「遠くの方に立ち止まったまま」というのは、皮膚の病を患っていた人々がコミュニティーから疎外されていたことを示します。

 

そして、その人たち十人が「声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った」と13節にあります。大きな声で、「イエス様、わたしたちを憐れんでください、助けてください」と声を一つに叫ぶのです。どのように彼らの叫びはそこに響いたでしょうか。誰もが耳を塞ぎたくなるようなレベルの真剣な叫び、力を絞り切れるほどの叫び、最初で最後の望みを込めた叫びであったでしょう。性別も年齢も分かりませんが、この十人は救いを求めてイエス様に叫ぶのです。イエス様が気づかないはずはありません。なぜなら、イエス様は彼らに出会い、彼らを救うためにサマリアとガリラヤの間を通られたからです。

 

14節前半に、「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた」とあります。皮膚病は宗教的にも「汚れ」とみなされていましたので、社会的にも、宗教的にも人との交わりに復帰するためには、病気が完治したことを祭司に診てもらって、8日間にわたる清めの儀式を経て、祭司に清い者となったと宣言して貰わなければなりませんでした。このことに関しては、レビ記13章と14章に詳しく記されていますので、どうぞお読みください。しかし、ここでのイエス様と重い皮膚病に罹っている人たちとの関係性の中で重要なのは、彼らがイエス様を信じて、イエス様の言葉を信じて、そして祭司のもとへ向かって歩き出したということです。

 

そうしますと、どのようなことが起こったでしょうか。「彼らは、そこへ行く途中で清くされた」とあります。隔離された場所を出て行くことは、命の危険が伴うことです。ただれた皮膚を布で隠しながら、不自由な身体を引きずりながらの歩行でしょう。しかし、彼らは、それでも病と差別と偏見からの解放・救いを求めて歩き出します。その思いの強さが彼らを前進させる力となります。この十人の癒しと救いは、イエス様とイエス様の言葉によってなされたと云うことがここで表されています。イエス様を救い主と信じる中で、癒しが、救いが、解放が起こるのです。それはすべて神様からの憐れみ、恵みです。

 

しかし、実に興味深いことが次に起こります。15節と16節です。「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」とあります。イエス様のもとに戻ってきたのは、たった一人、それもサマリア人であったとあります。それに対してイエス様は、17・18節で「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」と言われます。

 

ここでの注目点は、重い皮膚病の苦しみから解放されてイエス様のもとへ戻ってきたのはユダヤ人ではなく、サマリア人であったということです。他の癒された九人、ユダヤ人たちはどこに行ってしまったのでしょうか。家族のもとへ戻ったのでしょうか。神殿で祭司から正式な清めの宣言を受けるためにエルサレムの神殿への道を進んだのかもしれません。しかし、この癒されたサマリア人は、大声で神様を賛美しながらイエス様のもとへ戻って来て、イエス様の足元にひれ伏して感謝をささげます。これは礼拝そのものです。神様とイエス様に礼拝をささげる場所は、エルサレム神殿でもゲリジム山の神殿でもなく、イエス様のもと、キリスト・イエスのからだを象徴する教会であるという暗示です。

 

最後に19節を読みましょう。「それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」とあります。サマリア人に対して、神の子・救い主イエス様が、あなたの信仰があなたを救ったと宣言し、立ち上がって、戻るべきところへ帰りなさいと保証を込めた力強い派遣の言葉で送り出すのです。

 

しかし、一つの疑問点が起こります。イエス様のもとに戻ってこなかった九人は救われなかったのかという問い。答えは、「はい」と「いいえ」の二つになると思います。「はい」という意味では、十人の重い皮膚病はイエス様によって癒されましたので、病から救われたと言えます。「いいえ」という意味では、体の病は癒やされたけれども、精神・心を含めた人全体として救われているという点では、救われていないと言えると思います。

 

神様がイエス・キリストを通してわたしたちに与えてくださる救いは、病や悪霊や不幸な出来事からの救い・解放だけではなく、苦しみや痛みや悲しみや不安や恐れからの解放です。心の解放です。病気が癒やされても、次から次へと問題が起こり、わたしたちの心を苦しめます。そうなると、一時的には救われたとしても、永続的に救われているという平安がありません。イエス様につながり続けていないで、どこかへ行ってしまうからです。この心の不安や恐れから解放され、心と体が救われるために必要なのは、イエス様の足元に戻ってきて、神様に賛美をささげ、感謝をささげるということ、つまり礼拝をおささげするということなのです。礼拝は、神様の愛と罪の赦しと罪と死からの救いを喜び、賛美と感謝をささげること、神様に栄光を帰することなのです。サマリア人はそのように感謝をささげ、他の人たちはそこまで感謝を表さなかったのです。恵みへの応答が大切です。