神に喜ばれるように歩む

「神に喜ばれるように歩む」 四月第二主日礼拝 宣教 2024年4月14日

 ヘブライ人への手紙 11章6節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝も、ご一緒に賛美と祈り、礼拝をおささげすることができて感謝です。皆さんの去る一週間は、どのような日々であったでしょうか。穏便であったでしょうか。わたしの去る一週間は、息つく暇もないような毎日でした。そのような目まぐるしい日々も今日のこの礼拝、14時からの墓前礼拝、そして17時からの夕礼拝で終わるかと思いきや、ご近所の方で、この教会に赴任して以来ずっと我が家に親切にしてくださった方が先週の水曜日にお亡くなりになられ、その方の葬儀が落合斎場で明日ありますので、その葬儀に列席させていただいてご遺族に慰めの言葉をお伝えできれば、目まぐるしい日々も一応落ち着くかなぁと思っております。ですので、牧師としての今日のすべての働きが主のお導きと御力によって守られ、主の御用のために用いられ、主に栄光がありますよう、どうぞお祈りくださり、お支えください。皆さんのお祈りが大きな励ましになります。

 

さて、今朝のメッセージは、今年度の年間聖句からの分かち合いになります。2024年度の標語は「どのような時も、主に信頼して歩もう」というもので、副題に「神に喜ばれるように生きる」といたしました。教会の皆さんには、去る3月の教会総会の時になぜこの聖句と標語にたどり着いたのかという説明をさせていただきましたが、大久保教会の礼拝にいつも出席されている方々にも分かち合うことが大切と思い、今朝お話しすることにいたしました。

 

大久保教会の昨年度は、コロサイの信徒への手紙3章14節を年間聖句とし、「神の愛を身に着けよう」という年間標語にしました。何故そのような聖句が導かれたのか。それは、昨年度がこれまでにない信仰のチャレンジを受ける年になると思われ、そのような霊的戦いに忍耐をもって、主に信頼しながら勝利する唯一の方法は、イエス・キリストという救い主という神様の愛を身に着けること意外にないと感じたからです。神様から十分な愛を受けない限り、神様と隣人と教会に喜びと感謝をもってお仕えすることはできないと強く感じました。

 

そういう中、愛と備えのある神様は、わたしたち大久保教会を憐れんで守ってくださり、恵みを豊かに注いで、一年間の訓練の時を過ごさせ、わたしたちを整えてくださいました。その備えは、これから教会が歩みの中で直面するであろう、多くの信仰的チャレンジを耐え抜き、神様がわたしたち教会に求められ、喜ばれる実をたくさん結ぶ力となるはずです。

 

神様のなさることに無駄なことは一切ありません。すべてには神様のご意志とご計画があります。これからもご一緒に救い主イエス様を身に着けて、共に歩んでゆきたいと心から願い、祝福を神様に求めていますが、そういう中でわたしたちに大切なのは、わたしたち一人一人の神様とイエス様に対する「信仰」であると強く感じます。教会という信仰共同体の信仰という以前に、わたしたち一人ひとりの神様への信仰を見つめ直す。神様との関係性は恵みのうちに良好であるかを知る方法は、日々の生活の中で神様をどれだけ近くに感じ、信頼し、喜んでいるかということを自分で点検、確認することだと思います。

 

この点検、確認は、誰か人任せにすることはできません。主イエス・キリストにあって、いつも喜び、絶えず祈り、すべてを感謝しているかを自分でチェックする。神様の恵みは日々十分に与えられていますが、それをいかなる時も受け取っているか、自分の力、知恵などに頼って無理していないか、そういうことをチェックしながら歩めたら、神様の喜ばれる実を結ぶことができるのではないかと思います。日曜日の朝から難しい話をしてすみません。

 

さて、今朝の聖句は、先ほどもお読みしましたヘブライ人への手紙11章6節です。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める人たちに報いてくださるお方であることを、信じていなければならないからです」とあります。この短い聖句にも、神様の愛がたくさん散りばめられ、祝福への招きがなされています。この短い聖句の結論は、最初の部分である「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」という言葉ですが、信仰とはいったい何でしょうか。

 

使徒パウロは、「すべての人に、信仰があるわけではない」と第二テサロニケ3章でも言っていますが、それでもたくさんの人がそれぞれ信仰心を抱いています。世界中にあります多くの宗教の信仰の出発点は、一言で言えば「人の願い」です。幸せになりたいという思いから、信仰の対象を定め、それを自分の神として信じ、仰いでゆきます。しかし、キリスト教の信仰の出発点は、神様であり、神様の「あなたがたを幸せにしたい」という情熱・愛です。信仰は、神様が与えてくださる恵みなのです。イエス・キリストを救い主と信じ、信頼して生きることができる恵み、それがキリスト教の信仰です。この恵みは、無償であり、いつも神様からすべての人に差し出されていて、すべての人がこの信仰へと招かれています。

 

わたしたちが人生の中で経験する悩み苦しみ、痛みや悲しみから解放するために、神様の方から動いてわたしたちに近づいてくださり、愛を与えてくださいます。その具体的な表れが、御子イエス・キリストをこの世にお遣わしくださったということです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という御言葉がヨハネ福音書3章16節にありますが、そのような神が存在しているということを信じることが神様の愛を受け取る第一歩となります。

 

そして、わたしたちに近づいてくださる神様を、イエス様を信じて、自分からも神様とイエス様に近づいてゆき、神様との豊かなつながり、交わりをさらに求めてゆく中で神様から与えられている信仰がさらに成長してゆき、些細なことでは動じない人へと変えられてゆきます。どのような時も、主に信頼して、万事を益としてくださると確信して、歩むことができるように主がわたしたちを造り変えてくださいます。大切なのは、わたしたちの近くにいてくださる神様の臨在を常に喜び、いつも共に歩んでくださるイエス様と一緒に歩み、わたしたちの心を宮としてくださるご聖霊の豊かな導きに従って、絶えず委ねて前進してゆく、その先に、神様にしか与えることのできない信仰、喜び、平安、希望、愛があるのです。

 

もう一つ大切なこと、それは神様を「報いてくださる神」として信じ、どのような時にも信頼して歩むということです。コロナパンデミックで世界は様変わりしてしまいました。良い意味で様変わりしたというよりも、悪い意味で激変してしまったように思えます。世界の格差、社会の格差もさらに拡大し、富者はさらに富み、貧しい者はさらに窮地に追いやられています。不信感や憎しみが世界レベルで増殖しています。そのような中に、自然災害が起こり、自然の脅威にさらされています。自分の働き、苦労はいつ、どのような形で報われるのだろうか、いつになったら生活は楽になるのだろうか、と大勢の人々が強く感じています。

 

そういう中で、お金をある程度持っている人たちは、手持ちの資金を株などで賢く増やそうとします。しかし、そういうことは、多少の余裕がある人たちだけの話です。経済的に苦しんでいる人たちは、泥沼の中でもがき苦しんでいるだけの状態で、希望を見つけることは非常に難しい。そういう難しさの中で、一攫千金を夢見てリスキーな賭け事に手を出してしまう人もいます。しかしそれは、自滅の道を歩むことにつながってゆき、家族をはじめ、多くの人々を苦しめてしまうことになってしまいます。ずっと健康に生活してきた人が突然の病や怪我で人生が大きく変わってしまうということもあるわけです。

 

しかし、どのようなことがあっても、どのような状況下に置かれても、愛の神様は必ずわたしたちに報いてくださると信じること、それが信仰だと聖書は今朝わたしたちに語りかけ、神様から与えられている愛と信仰を受け取りなさいと励まされているのです。

 

この「報いてくださる」というのは、将来を見据えた、将来的に受ける報いに期待するということだけではありません。わたしたちがこの地上に生を受けた時から、神様がわたしたち一人ひとりを造り、愛し、持ち運び、守り導き、報い続けてくださってきた神様のこれまでの愛に感謝することも含まれます。神様の愛は昨日今日始まった愛ではなく、永遠から永遠に続く愛ですから、過去から今日まで、そして教会から将来に向かって報われ続ける。報われる資格もなかったわたしを、わたしたちをそれでも愛してくださる神様がおられることを感謝して歩むことが神様に喜ばれる日々を歩むということではないかと導かれます。

 

自分の思い描く人生、バラ色の人生とまではいかなくても、わたしたちが日々生きるために必要なものすべては神様によって備えられ、与えられています。すなわち神様に愛されていることを心と肌で感じることができ、喜び感謝できるために神様から与えられたのがイエス・キリストを救い主と信じる「信仰」です。わたしたちは、信仰生活、教会生活をしても意味がないのではないか、献金をささげても無駄ではないかという囁きがサタンから発信され、心が誘惑されます。神様に愛されている喜びと感謝を奪い去る攻撃もこの新たな年度の中で幾たびとあることでしょう。しかし、そのようなことを心配する時間があるならば、神様を信じ、イエス様の言葉に聴き、聖霊の導きに従うこと、どうすれば神様に喜ばれる日々を歩むことができるか、聖霊の励ましと導きを祈り求める日々を過ごしてまいりましょう。その日々の連続性の中に、信仰のさらなる成長と神に喜ばれる実をたくさん結ぶチャンスがあると信じます。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」という言葉をわたしたちのスローガンとして据えて、共に歩み、主と隣人とお互いに仕えて行きましょう。