ルカ(91) 人の子が現れる日について語るイエス

ルカによる福音書17章20〜37節

前回の学びに続き、今回のテーマは「神の国」についてです。前回は、誰が神の国へ招かれるのかを聞きましたが、今回は、神の国はいつ、どこで、どのような形で現れるのかということが内容となります。しかし、わたしたちが期待するような答えが得られるかどうか、予想外の展開になるのか、分かりません。確かにとても難解な箇所ですが、とても興味深い箇所であるとも思います。

 

まず20節にファリサイ派の人たちが登場し、イエス様に対して「神の国はいつ来るのかと尋ね」ます。この問いに対して、イエス様は3つのことを話されます。それらは、1)「神の国は、見える形では来ない」、2)「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」、3)「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われます。いつ来るのかと質問されているのに、神の国とは何であり、何処にあるのかを答えるのです。つまり、ファリサイ派の人々の考える「神の国」とイエス様の言う「神の国」には根本的な違いがあると云うことをイエス様は言っているのだと思います。

 

皆さんは、「神の国」はいつ来ると思いますか。この地上での命が終わった後に迎えられるところが「神の国」でしょうか。また、「神の国」へはどのように入れる、招かれると思っておられるでしょうか。あるいは、神様に対してどのように期待されているでしょうか。今回の箇所でファリサイ派の人々が最初に登場する事には大きな意味があると思います。

 

ご存知のように、ファリサイ派の人々は律法主義者です。律法を厳格に守ることによって神の御前に正しい者とされ、神の国へ招かれると信じきっていました。つまり、彼らは自分たちの行いで「神の国」を入れられる、また自分たちの願う時に、いつでも、そして確実に入れると100%思い込んでいました。人が陥りやすい、因果応報的な人間の考えです。しかし、律法を守ったからといって「神の国」へ入れるわけではないとイエス様はファリサイ派の人々にはっきり云うのです。そもそも、「神の国」とは、そういうものではないと3つの点を挙げて云うのです。

 

1)まず「神の国は、見える形では来ない」と言われます。「見える形」とは、わたしたち人間の業・行いと云う意味です。つまり、人の行い(律法厳守)によって神の国が近づくとか、律法を疎かにすることで神の国が遠のくというような、人間の努力であったり、意思や願いの強弱によって来る、来ないというものではないという事です。

 

2)次に「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」とイエス様は言われますが、神の国とは「空間的に限定される場所」ではないと云うことです。つまり、神の国は、ユダヤ民族とその土地・イスラエルに限定されるものではないと云うことです。

 

3)最後に「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われます。実を言うと、「神の国」とは、「神の支配」という意味なのです。つまり、神の国とは精神的に心の中にあるというのではなくて、イエス・キリストがあなたがたのただ中に・あなたがたの間に今ともにいるということ自体が神の国が来ているというのです。神の子イエス・キリストが共に歩み、神のことを教え、病気を癒し、汚れた霊から解放し、平安と希望を与えてくださっている、それが神の御手の中で生かされている、神様の愛とお守りの中に活かされている、現在進行形で「神の国」の中に生かされているという恵みであるのです。

 

さて、22節以降は、イエス様が弟子たちに対して神の国について教えている箇所になります。22節に、「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」とイエス様は言われます。「人の子の日」は、原文では複数形になっていますので、「人の子の日々」となりますが、まったく理解できません。「一日だけでも見たいと望む時」とは、どのような時を指しているのでしょうか。

 

それは複数の出来事を示していると言えます。まずイエス・キリストが死んで甦られる復活の出来事、イエス様が天に上げられる昇天の出来事、そしてイエス様が再び地上に来られる再臨の出来事です。イエス様が弟子たちにこのことを語られた時点では、まだイエス様の十字架の死も、復活も、昇天も、再臨はありません。イエス様の十字架と復活と昇天はすでに起こりました。福音書にそのように明確に記されています。しかし、イエス様の再臨の日がいつ来るか、誰も分かりません。つまり、実際の神の国の完成がいつ来るのか、わたしたちには分からないのです。自分の命がいつ終わるのか分からないのと同じです。その日を、ただ指をくわえて待っているのではなく、その日に自分も立ち会うことができるように、日々コツコツと実直に歩む、神様に対しても、人に対してもいつも誠実に歩んで行くこと、そのような日々を重ねてゆくことが大切であるということです。

 

23節にあるように、世の中には、わたしたちの心を惑わすことが溢れています。「見よ、あそこに救い主がいる」、「いや、ここにメシアがいる」という言葉が聞こえてきます。しかし、イエス様は、惑わす言葉を真に受けて「出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない」と言われます。どうしてでしょうか。理由は24節です。

 

イエス様は、「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである」と言われます。この「大空の端から端へと」とは、すべての人に分かるように主の再臨はあり、稲妻がひらめき、その地に鳴り轟くように、主の日は「突然」来る、再臨の主は現れると言われます。ですから、いつ神の国、イエス様の再臨、主の裁きがあっても大丈夫なように、いつも、毎日、実直に、祈りと忍耐とをもって歩むこと、その積み重ねがイエス様の弟子としての生活、信仰生活と示されているようです。

 

しかし、25節です。すべてのことには順序があります。イエス様は、「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」と言われます。イエス様の十字架の死が、神の国にすべての人が招かれるためには必要不可欠であるということです。このイエス様の十字架への献身・犠牲の上にわたしたちの罪の贖い、罪の清め、救いがあり、神の国へ招かれてゆく希望が約束として与えられるのです。

 

続く26節から30節ですが、26節でイエス様は「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう」と言われます。どういう意味でしょうか。神の裁きの日、主の再臨の日が着々と近づいているのに、人々は「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」、ロトの時も「人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていた」、つまり神を思い出すことも、畏れることも、悔い改めることなく、自分たちの欲に身を任せて生きていたということです。神の裁きとして、ノアの時は「洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼして」しまい、ロトの時は「火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった」とあります。

 

そして「人の子が現れる日にも、同じことが起こる」とイエス様は弟子たちに注意喚起をするのです。神の裁きの時が来ないのは、わたしたちが悔い改めて神様に立ち返ることを神様が愛と忍耐をもって待っているからです。いつ主の再臨、主の裁きの時が来ても良いように、目を覚まして誠実に生きなさい、自分の事ばかり優先するのではなく、互いのことを思いやって、愛し合って共に生きなさい、それが神様の御心であるとイエス様はずっと教えておられるのです。

 

31節から33節には、過去を振り返らず、過去からしがみついてきたものを捨て去り、今に執着し過ぎず、将来的に来る主の日について真剣に考え、ひたすら誠実に進みなさいというイエス様の励ましの言葉があります。ロトの妻のように、過去を振り返ることがあってはならないという警告の言葉にも聞こえてきます。

 

34節と35節の言葉もイエス様の興味深い・面白い言葉です。「言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される」とあります。これは、いったいどういう意味でしょうか。これは、日々の生活の中で、たとえ二人が同じ時に、同じ所で、同じことをしていたとしても、一人が自分の罪を悔い改めて誠実に生きていて、もう一人は自分の罪を認めずに悔い改めないで生きていれば、悔い改めている人は神の国へ招かれ、悔い改めていない人は残されるということです。連れて行かれた人と残された人、どちらが救われ、どちらが裁かれるのか明白ではありませんが、神様を畏れて生きるか、畏れないで生きるかによって、その後がまったく違って来るのです。

 

新共同訳聖書では、36節の言葉、「畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は省略されています。理由は、これまでに見つかって存在している写本の中で、ある写本にはこの箇所があって、ある写本には記述されていないからです。

 

さて、最後の37節にあるイエス様の言葉です。「そこで弟子たちが、『主よ、それはどこで起こるのです』と言った。イエスは言われた。『死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。』」とあります。弟子たちは主の再臨と裁きは「どこで」あるのですかと尋ねますが、イエス様は「はげ鷹が集まる所」と言われます。昔のウエスタン映画などをご覧になられたことがあるでしょうか。戦いや決闘の場所の空では、はげ鷹が飛びかい、決闘の後、死体のある所にはげ鷹が集まってきます。同じように、主イエス様がおられる所では、34節から35節にあるような、神を畏れる者と畏れない者に対する裁きと離別があります。主の再臨の時、羊と山羊が分けられ、麦と毒麦が分けられるように、イエス・キリストを救い主と信じる者と信じない人は分けられるということが言われています。

 

主イエス様の再臨を恐れる必要はありません。ただ、1)主の再臨がいつあっても良いように、人の声に惑わされることなく、いつも冷静で、平静な心で備えることが。2)そして自分が生きている間はイエスの再臨などないと無頓着になることを避けること。3)いつも神様には忠実に仕え、人々には誠実に仕えて生きることを祈り求め、主の励ましの中を生きること。4)人がどのように生きているかに捉われることなく、自分は神様、イエス様に対してどのように生きるかをいつも考えていく、イエス様から目を逸らさないで生きること、それが大切だとイエス様は弟子たちに、わたしたちに教えているのではないかと感じます。主の愛と憐れみからこぼれないように気をつけ、主に委ねて歩みましょう。