今日を徹底して生きよ

「今日を徹底して生きよ」 十一月第一主日礼拝 宣教 2023年11月5日

 コヘレトの言葉 11章1〜8節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。11月最初の日曜日の朝、礼拝堂にいらっしゃる皆さん、オンラインで出席されている皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。最近、喉の痛みや体調が優れない方が周りに多く見受けられます。秋が深まる時期であるはずが、昨日のような夏日になりますと体調を管理することが難しいですね。どうぞお気をつけてお過ごしください。皆さんの健康と日々の歩みが守られますようにお祈りいたします。

 さて、メッセージの前に11月の教会の予定を案内させていただきます。来週12日の主日礼拝のメッセージは石垣副牧師です。大久保教会の副牧師として12年間仕えてくださった石垣先生は、来年3月で退任されます。教会員以外の方々は初耳かもしれません。来週のメッセージを含めて、石垣牧師のメッセージはあと5回となります。どうぞ欠かさず朝の主日礼拝にご出席ください。また星野富弘アート展が17日から23日までの一週間開催されます。教会として初めての試みです。どうぞご家族やお知り合いをお誘いください。19日の主日礼拝後には、世界バプテスト祈祷週間のアピールと子ども祝福式があります。そして、26日の朝の礼拝では、日本へ来られる前は中国で宣教の働きを担っておられたJ宣教師をメッセンジャーとしてお迎えします。J宣教師の口を通して神様がどのようなメーセージを与えてくださるか、今から楽しみにしています。ぜひご出席ください。

 さて、今朝も恵みの分かち合いをさせてください。わたしは、先週2日から昨日まで、Sご夫妻のお誘いを受けて、TB教会で開かれたアジア・パシフィック聖書カウンセリングカンファレンスに参加し、たくさんの良い知恵と刺激をいただきました。心療内科などのカウンセリングではなく、聖書を基礎としたカウンセリングの重要性を学びました。医師によって処方された医薬品ではなく、牧師や訓練を受けたクリスチャンカウンセラーが聖書に記されている神様の言葉を処方して、神様とイエス・キリストの約束の言葉によって日々の悩みや苦しみや恐れから解放されてゆく、それが聖書カウンセリングです。

 複数の基調講演を聴くほか、三つの分科会に参加しましたが、それぞれとても実践的な学びでした。1)詩編を通してカウンセリングする方法、2)神の御言葉をベースに作られた讃美歌やプレイズ等が苦しみや悲しみを抱いて苦しんでいる人々を慰め、励ますツールとなる賛美の力を確認し、3)苦難は決して失望に終わらず、苦しみを通して神様の憐れみを経験し、御言葉を通して真理と希望を見出す恵みが聖書カウンセリングを通して得られる重要性を学ぶことができました。10数年ぶりに、渡辺聰先生に再会する恵みがあり感謝でした。

 このカンファレンスで、複数の日系アメリカ人の牧師やカウンセラーに出会い、彼らが神様に豊かに用いられていることを知って大いに励まされました。聖書を基としたカウンセリングがインディアナ州にある町と地域全体を変えたという証しを聞いて励まされ、充実した良い三日間でした。明日と明後日は、出会ったうちの一人であるJH牧師の聖書カウンセリングセミナーに参加します。神様から与えられたこの二回の素晴らしい学びを通して受けた知恵と励ましを皆さんと今後分かち合ってゆきたいと思います。神様の恵みがわたしを通して教会の皆さんに還元され、皆さんとご家族が慰めや励ましを受け、救いを受け取ることができるように、明日からのセミナーが祝されますようお祈りください。

 久しぶりに英語だけの講演を三日間ずっと聞くことができ、27年前の神学校時代を懐かしく思い出しました。参加者の男性の後ろ姿が神学校時代にお世話になった尊敬するガーランド教授にそっくりでしたので一瞬驚きましたが、今はリタイアされているはずのガーランド教授のために神様の祝福を短くお祈りすることができました。誰か別人の姿などを見たり、声を聞いたりして、大切な誰かを思い出す経験、皆さんにもあるのではないでしょうか。神様は、本当に小さくて、些細なことを通してもわたしたちに懐かしい記憶を呼び起こさせ、感謝と喜びと信頼への祈りへと導いてくださいます。日々の生活の中で本当に大変なことがたくさんありますが、そのような中にも神様からの恵みのプレゼントが必ずありますから、それを積極的に探しながら、喜びと祈りと感謝の日々を過ごさせていただきましょう。

 さて、シリーズで学んでいますコヘレトの言葉も今朝のメッセージで11回目となります。次回が最終回となりますが、この学びが生きてゆく上で皆さんの心を支え、励まし、必要な力となっているでしょうか。それとも難しいと感じておられるでしょうか。確かにコヘレトの言葉は、希望を与えてくれるような前向きの言葉が少なく、過去を振り返っても無駄、未来に期待しても無駄、現在も虚しいことが多すぎて無駄だと云うような印象を受けるかもしれませんが、このコヘレトの言葉の良い部分は、現実をしっかり直視しなさい、問題を先延ばしにしたり、現実逃避してはいけない、今日をしっかり生きなさいと励ます点です。

 過去には決して戻れません。未来もわたしたちがコントロールできる範疇にありません。コントロールできるのは「今」、この一瞬一瞬だけです。この一瞬一瞬の命は神様から与えられている素晴らしいプレゼント、恵みであると信じて感謝しつつ生きるのと、この命は自分のものだからと思い込み、自分の知恵とこれまでの経験と直感と頑張りようと運だけを頼りにハラハラドキドキしながら生きるのと、どちらの生き方が心に平安があるでしょうか。

 確かに、自分の知恵と努力と直感と運だけで人生に大成功を収めている人もいるわけです。しかし、そこで得た富や宝や誉は、死を迎えるとき、すべてこの地上に置いてゆかなければなりません。その富や宝を賢い子孫がさらに増やせたら良いでしょうが、子孫が賢くなければ泡と消えてゆくわけです。その富を受け継ぐ人がいなければ国庫に入れられ、国のものになるわけです。そうであれば、自分が生きている間に使ってしまったほうが良いのではないかとコヘレトは言うわけですが、では、その富を何のために、誰のために用いるかが課題となるわけです。この課題に取り組む時、知恵が必要です。そして潔さが必要です。

 コヘレトの言葉の11章1節に大変興味深い言葉があります。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう」とあります。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」と聞いて、多くの人は「もったいない」と思うのではないでしょうか。そしてそういうことに消極的になるのではないでしょうか。しかしコヘレトは、無駄と思えることを積極的にしなさい、決してもったいないことではない、人生にはリスクはつきものだ、リスクを恐れずに、地上での残された日々を充実して生きるために大切で必要なことを積極的にしなさいと言うのです。では、いったい何をわたしたちはすべきなのでしょうか。わたしたちが無駄と思えることで、なすべき事とは何でしょうか。豊かな国で何の不自由もない生活をしているわたしたちには、それが分からないのではないでしょうか。

 発想を少し変えてみましょう。自分の幸福のために有益なこととは何でしょうか。どのようなことに幸せを感じたり、充実感を覚えるでしょうか。自分で稼いだお金で良い物を着たり食べたり、どこか旅行に行ったり、物を買って贅沢をしたり、色々あると思いますが、無駄なこととは自分の稼いだお金で他人に良い物を着せたり、食べさせたり、旅行に行かせたり、贅沢をさせることなどです。その「他人」とは、世の中で貧しく小さくされている人たちです。ここで言う「パン」とは、文字通りの食べ物であったり、与えたら決して戻らない時間であったり、お金であったり、知恵や知識であったりします。豊かな国に生きる人々は、相続権とか、著作権とか、特許とか、何でも権利を主張し、お金で問題を解決しようとします。それしか頼るものがないと考えているからです。しかし、そういう権利さえない人たちはどのように今日を生きてゆけば良いのでしょうか。世の中にはお金では買えないものがあります。それは人の心、誠意です。それは人を愛する思いです。神様の愛です。

 豊かな国に生きる人々は目先の幸せや富や誉を求めます。パンを水に浮かべて流すことはもったいないと感じます。しかし、貧しい国に生かされている人々は今日生きるための食べ物や水を求めています。貧富の差は社会的に、世界的に広がり、厳しさを増しています。そう言う中でこの「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」と言う言葉は、今、世界的に危機的状況に進んでいるから、無駄に思えるようなことと感じても、積極的な支援の行動に移しなさいと聞こえてもきます。コヘレトの生きた時代にも戦争や飢餓がありました。そう言う中でコヘレトは2節で、「七人と、八人とすら、分かち合っておけ。国にどのような災いが起こるか分かったものではない」と言って、周りの人々、世界の国々と恵みを分かち合い、手と手を取り合って、協力しあって今の難局・苦しみを乗り越えなさいと言うのです。

 この難局を乗り越える方法は何でしょうか。神という存在を、絶対的な知恵と力を持たれる方を畏れるということです。しかし、それが世界の中で最もナンセンスで無駄なことと思われがちです。しかしそんなことはありません。神様には愛があります。ご計画があります。このお方を信じ、心から賛美と礼拝をささげ、このお方の言葉に聴き、そしてその言葉に従うのです。その聞き従った先に、1節の後半にあるように「月日がたってから、それを見いだすだろう」、つまり神様の御心を知る幸いを得ることができるようになるのです。

 ペトロの手紙一1章6節から7節に、「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」とありますが、自分が今直面している苦しみの意味が分からなくても、神様に信頼して従ってゆけば、真実と愛の神様がわたしたちに信仰という恵みを与え、命を守り、今日という日を平安に生きられるようにしてくださるのです。

 わたしたちは効率よく無駄のない生活を送りたいとシステムを作って、そのシステムの中を生きようとしますが、わたしたちの人生はいつも順調でしょうか。その反対ではないでしょうか。世界屈指の交通システムを持つ日本社会も突然の大雨や地震などの自然災害や機械の故障、人的ミス、人身事故でシステムがマヒすることもよくあるわけで、電車はよく遅延したり、飛行機も欠航したりして足止めを余儀なくされるのですが、わたしたちは会社や学校に行く通常の備えはしっかりするわけです。交通システムやライフラインを守ってくれている人たちも青信号がでればいつでも動けて業務に戻れるように備えを怠りません。

 しかし11章3節から5節を読みますと、コヘレトは「雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。南風に倒されても北風に倒されても木はその倒れたところに横たわる。風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない」と言っています。自分が何をしても無駄だから、運と時の流れに任せて生きるしか方法はないという消極的な生き方を推奨しているように聞こえてきますがそうではありません。

 続く6節で「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか それとも両方なのか、分からないのだから」と言っています。わたしも花屋さんで花の種を買ってきて教会の庭に蒔くことがありますが、種の入っている袋には花が開花する確率が記されていて、開花率の高い種を買うわけですが、コヘレトの時代にはそのような開花率などありません。農夫は実を結ぶか結ばないか、よく分からない種を大地に祈りながら振り撒くわけで、後は太陽と雨という自然の力に任せるしか方法はないのです。そんなことは非効率で無駄な作業だと多くの人は敬遠するでしょう。けれども、コヘレトは、「朝、種を蒔き続けなさい、夜にも手を休めずに徹底して蒔き続けなさい」と励ますのです。

 すべての努力と苦労が無駄に終わるかもしれない。もうここらへんで諦めるしかないと悲観的に、消極的になる瀬戸際で、明日のことは分からないと落胆せずに、だからこそ主なる神様に信頼し、自分にできる最善を今日尽くして、今日を徹底して生き抜きなさいと励ますのです。コヘレトは「実を結ぶのはあれかこれか それとも両方なのか、分からないのだから」と言います。つまり、何が功を奏して苦しみから喜びに変わるか分からないということです。神様に信頼する人に神様が恵みを与えられるからです。

 7節と8節に、「光は快く、太陽を見るのは楽しい。長生きし、喜びに満ちているときにも 暗い日々も多くあろうことを忘れないように。何が来ようとすべて空しい」とあります。生きている間、楽しみも悩みもあります。そして必ず死という終わりが訪れます。ですから、空しさの中を生きるとか、死に対する恐れの中で生きるのではなく、今、この時にも神様の愛の中を生かされているという恵みを感謝しながら、神様に礼拝と賛美をささげながら、委ねながら、今日、自分にできる最善を尽くし、周囲で小さくされている人々のために心を尽くして生きよと励まし、励ますだけでなく共に歩んでくださる主とその愛を喜びましょう。それが今日を生きる力となります。