仕える模範を示すイエス

「仕える模範を示すイエス」 三月第二主日  3.11を覚える礼拝 宣教 2024年3月10日

 ヨハネによる福音書 13章1-5, 12-17節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。毎週日曜日の朝、11時から皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげできること、本当に感謝です。すべて主の恵みです。この神様の愛と憐れみに感謝して、今朝も神様からの語りかけに耳を傾けてゆきたいと願い、そしてそこから示されたことを日々の生活の中で実践して行かせていただきたいと祈ります。特に、今は受難節の期間です。ご自分の十字架の死を目前としたイエス様の言葉に耳を傾けて行きたいと願います。

 さて、2023年度も残すところ3週間となりましたが、この歩みの中で掲げました教会の目標は、「神の愛を身に着けよう」です。何のためにそのような目標を立てたのか。それは副題にもありますように、「神と隣人と教会に仕えるため」です。今年度の歩みは、年間を通してチャレンジの多い一年になると予測されていましたので、神様の憐れみ、愛を身に着けて生活しないと不平不満だらけの歩みになってしまう、そうなってしまいますと隣人に対して良い証ができないと考えました。案の定、教会としても、個人としても、わたしたちはたくさんの信仰的チャレンジを神様から受けましたが、振り返ってみますと、すべては今後の歩みを確かなものにするための神様からの訓練の時であり、想像以上の恵みを受けることができたと神様に感謝しています。今年度の最後の最後まで、主の憐れみに信頼しつつ、共に神様の愛のうちを歩ませていただき、神様と隣人と教会に仕える者とされてゆきましょう。

 さて、来る17日の礼拝は、副牧師として13年間ご奉仕くださった石垣茂夫牧師の大久保教会での最後のメッセージとなります。3月11日に東日本大震災があった年の6月から着任され、今日まで神様には忠実に、教会には誠実に仕えてくださいました。感謝しています。この13年間はM姉とご一緒のご奉仕でした。たくさんの恵みをご夫妻との交わりの中で受けることができましたし、たくさんのことを学ばせていただきました。今年は、3月31日がちょうど日曜日であり、イースターという喜ばしき日であり、神様の憐れみ深い備えに感動しますが、この日に主イエス様のご復活をお祝いする事と石垣ご夫妻への感謝を表す会を開きます。ビタースイートの一日になると思います。ですので、最後のメッセージをされる来週17日と31日の日曜日は、ぜひ万難を排してご出席いただきたいとご案内いたします。

 さて、今朝の礼拝は、東日本大震災を覚える「3.11を覚える礼拝」と位置付けて、憐れみの神様に賛美と祈りと礼拝をおささげしています。明日は東日本大震災から13周年を迎え、14年目に入ろうとしています。13年経過しても、2011年3月11日で時が止まってしまって苦しんでおられる方々がまだたくさんおられます。あの日に自分の人生が終わったかのように失意の中に今も置かれて生活されている方々がまだ多くおられます。行方不明者2520人の帰りを待っている家族たちがおられます。福島の故郷に戻って、そこで人生の終わりを遂げたいと願っておられる高齢者の方々がおられます。復興庁、農林水産省から13年経過した被災地の復興の状況報告があり、津波で壊滅的被害のあった土地のインフラや農業・産業は96%から98%復旧・復興したとのことです。しかし、13年という歳月が経過してもなお約3万人の避難者、仮設住宅等の入居戸数がまだ605もあると報告されています。

 この13年間で、北海道や熊本での大地震、九州北部や広島と岡山を中心とした山陰地方での集中豪雨、そして能登半島の大地震など、たくさんの被災地が全国で起こりました。原発事故はまだ収束していませんが、1月に起こった能登半島地震の復旧が今の最大課題とされ、取り組みがされています。これは被災地に足繁く通い、音楽を通して被災者の方々の心のケアに励まれている友人から先週聞いた話ですが、東日本大震災から3・4年経って、彼が様々な仮設住宅を訪れた時、市役所や町役場の職員の方々が毎日のようにすべての仮設住宅を訪問していたそうです。自分だけ生き延びたという罪悪感や孤独感から自死される方々が後を絶たなかったからだそうです。2年前の数字ですが、3786人の震災関連死者数が出ています。そのようなことがないように仮設住宅を訪問し続けたキリスト教会がたくさんあります。バプテスト教会から支援に行くと「バプテストさん」と呼ばれたそうです。

 日本バプテスト連盟としての東北の被災地支援活動はすでに一昨年で終了していますが、今もなお被災された方々を訪問したり、つながりを持ち続けて今も心を寄せて仕えている教会があります。それらの教会のニュースレターを礼拝後の分かち合いの中で配布する準備をしています。それらの諸教会を覚えて祈り、岩手、宮城、福島にある3つの教会に支援金を送ることをわたしたち大久保教会は続けています。今日までに**万円以上の支援金が寄せられています。もう少し頑張って、集まった金額を三等分にし、お手紙を添えて今週お送りしようとしています。この祈りと愛の支援の輪に加わっていただければ幸いに思います。

 ここまで長々とお話ししてきましたが、これらの話題には共通したテーマがあります。それは愛をもって仕えるということです。なぜ愛をもって仕えるのか、その必要性はどこにあるのかと思われる方もおられるかもしれませんが、その理由はすべてイエス様を通して神様から命じられているからと答える意外に方法はありません。先週は、第一ペトロの2章から何故クリスチャンとして召されているのかという理由と主の目的を聴きました。わたしたちが主と隣人と教会に仕える理由、それはイエス様がお受けになった傷によって癒されたから、イエス様の十字架によって罪赦されたからということを聞きました。

 イエス・キリストの十字架での贖いの死によってわたしたちの罪は完全に赦され、神様に義と認められ、つまり神様の目に正しい者とされています。それは神様の愛の中で生かされ、神様と隣人と教会を愛して心から仕えるために助け合い、共に主の平和に生きるためです。わたしたちがそのように生きるため、「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」と第一ペトロ2章21節にあります。ここでの大切なポイントは、「イエス様の足跡にわたしたちキリスト者が続くようにと、イエス様が模範を残された」という部分です。イエス様の足跡に続くということです。すなわち、命を捨てるほどに神と隣人と教会を愛するという生き方を選び取るということです。

 しかし、そのようなことを聞くと、「ハードルが高すぎて私には無理」と思われる方も出てくるでしょう。そういう思いを過去に抱かれた方、現在進行形で今そのような思いと格闘している方もおられるかもしれません。しかし、神様がわたしたちを罪と死から救い出すことを諦めなかったように、わたしたちも諦めてはなりません。自分を卑下して自分につまずいてもいけません。その反対に、自分は出来ないからと開き直ってしまうのもいけません。ただ神様の愛と憐れみを信じて、信仰の模範であるイエス・キリストから目を離さないように心をしっかり保つことが大切です。主の伴いと助けを祈り求めるのです。神様がわたしたちを諦めないのですから、わたしたちも神様が与えてくださる愛を諦めてはならないのです。ただ神様とイエス様を信じて、心を明け渡す時、神様の霊が心の中に入ってくださり、わたしたちの心を新しく造り替え、すべてを益に変え、完全に救ってくださるのです。

 先週のメッセージのキーワードは、「模範」でした。そこからの流れで導かれたのが、今朝わたしたちが聴くべき御言葉として与えられているヨハネによる福音書13章15節で、そこにも「模範」という言葉が出てきます。これは今年の受難節をどのように過ごすかという祈りとプランニングの中で示されたことなので、すべて神様の導きなのですが、昨年のちょうど今頃、同じヨハネによる福音書13章からメッセージしていたことに後から気付かされて「あー、やってしまった!」と自分の記憶力のなさを痛感しましたが、しかしすべて神様のお導きでありますから、感謝して、少し違った角度からお話ししたいと願っています。今週の歩みの中で、主が今朝語ってくださるメッセージを振り返ったり、思い起こすことがあるかもしれませんが、その時は、昨年のメッセージもぜひ参考にしていただけたら幸いです。

 さて、ヨハネによる福音書は、今回の13章が福音書の折り返し地点となっていて、ここからイエス様の十字架への道、受難の道が本格的に始まります。そのような大切な出発点で、イエス様はご自分がこの世から父なる神様のもとへ移る時が来たことを悟られ、弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたということが1節に記されています。実に凄いことです。皆さんは誰かを愛し抜いたことがあるでしょうか。誰かに愛し抜かれた経験があるでしょうか。愛し抜くというのは、一過性のことではありません。この地上での命を全うするまで続くことです。イエス・キリストは、十字架での死を目前にその最後の最後まで弟子たちを愛されました。わたしたちも最後の最後まで神と人と教会を愛する、そのような生き方を望み、願い、そして祈りながら生きてゆきましょう。そのような生き方が神様の御心です。

 今朝のメッセージのテーマは、イエス様のように心から仕えることを学ぶことですが、誰に対しても心から仕えることができる唯一の基礎、それは神様とイエス様の愛に生きることであるということを覚えたいと思います。イエス様を信じてつながることで、神様から愛を豊かに受けることができますが、「仕える」というのは、すなわち「愛する」ことだということを覚えたいと思います。この「仕える」というのは、仕事をしっかりして、その働きの対価を受けるという、そのようなことではありません。自分を犠牲にするということです。

 イエス様がご自身をささげ、その命を犠牲にしてくださったように、イエス様に従うわたしたちも犠牲を払うことを恐れずに人を愛し仕えるということです。そのように生きる中で必要なことが第一コリント13章4節以下にありますが、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とあります。これが人を愛し抜く上で非常に重要な心持ちになります。こんなこと絶対無理と思わないで、主イエス様を従う時に、主が愛と力を与えてくださるのです。

 さて、2節を読みますと、「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」とありますが、そのようなユダが食卓にいる時に、イエス様は何をされたでしょうか。ユダを追い返したでしょうか。いいえ、違います。4節と5節、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」とあります。足というのは、体の中で一番汚いとされていました。人の足を洗うのは、奴隷や貧しい人たちの仕事、普通は避けたい仕事です。しかし、そのことをイエス様は率先してなさるのです。弟子たちの足を、裏切る人の足を洗われるのです。それはつまり、同じようにわたしたちにもしなさいということです。

 イエス様は、自分を裏切ろうとする人がユダであることをすでに知っておられますが、そのようなユダの足をもイエス様は洗われるのです。イエス様に足を洗われていたユダはその時何を思ったでしょうか。ユダの足を洗っている時、イエス様はユダを愛し、ユダに仕えたのです。これはイエス様がユダに与えた悔い改めるチャンス、イエス様に立ち帰る絶好の機会であったかもしれません。そのような愛と祈りの中でなされ、それはすべての弟子に対しても同じであったと思います。弟子たちも、悔い改めるべきことは色々あったからです。

 12節、「イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。『わたしがあなたがたにしたことが分かるか』」と尋ねられ、14節で「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われます。わたしたちが互いに愛し合い、仕え合う。互いの救いの達成のために生きる。互いに祈り合って生きる。そのような模範をイエス様は示され、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」と17節で言われます。イエス様の目に幸いな人とは、神様の御心を知り、神様の願い通りに生きる人です。イエス様がそのようにわたしたちを変えてくださるとの約束を信じ、主に従って共に歩みましょう。