「光は今、輝いている」 宣教要旨
ヨハネによる福音書1章1~5節(p163)
ヨハネ福音書は、クリスマスの出来事を、「言」、「命」、「光」という沢山の意味を持つ、意味深い独特の言葉で伝えています。
1:1 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ここに「言(ことば)」と、頻繁に使われていますが、これが「イエス・キリスト」のことだということは、読む中で分かってこられることでしょう。それでは、何故ストレートに「キリスト」と言わないのか、そこにはいくつかの理由や当時の課題があったのです。
一つには、もし「ナザレのイエスこそメシアだ」と言えば、会堂を中心としたユダヤ社会からはじき出されるという厳しい事情がありました。
もう一つは、1節から5節までにあります「言(ことば)」と「命」と「光」という言葉です。当時の文化はギリシャ思想です。そうした文化を背景に持つ人たちに向けて書いたと言われています。
三つ目に3節です。『1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。』。 わたし達を含めて多くの人が、この言葉が表わそうとしている出来事を、素直に聞けないという問題があります。「成った」とは「できた」ということです。「万物はイエス・キリストによってできた。」というのです。この3節を、言葉通りに、素直に受け入れられるでしょうか。ヨハネは、イエス・キリストは、「人となられた神」であって、「造られた人」ではないということを強く論証する必要に迫られていたのです。
「言(ことば)」はギリシャ語では「ロゴス」と言います。「ロゴス」には、単に「言葉」という意味と、もう一つ「出来事」という意味があります。従って『初めに言があった』とは、『初めに、神の出来事があった』と言ってよいと思います。
御子キリストがこの世にこられたという、クリスマスの出来事は、神が新しい「出来事」を、御子キリストによって、この地上に始められたと、ヨハネは宣言しているのです。
招詞に選びましたヨハネ1:14には、『言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。』と書いてあります。この言葉こそが、ヨハネ福音書の中心だといわれています。
「言(ことば)」とはイエス・キリストのことです。「肉となって」とは、神の子が、死という限界を持つ人間となられたということです。「宿られた」というのはわたしたちと一緒にテントを張るとか、共に住むということで、神がわたしたちの所に来られて、一緒の住んでくださるということなのです。とても不思議な情景を、この言葉から想像させられます。そのキリストは、人間が最も卑しいとしてきた十字架の死に至るまで徹底して、人間としてわたしたちと共にいてくださいました。今、神はキリストとなって、わたしたちの中に来られ、わたしたちと共に住んでくださっています。そのような光をいただいているわたしたちは、クリスマスのときにこそ、その光を、今、高く掲げようではありませんか。