命を愛する人

「命を愛する人」 命どぅ宝の日を覚える礼拝  宣教要旨  2014年6月22日

ペテロの第一の手紙3章8〜12節      牧師 河野信一郎

 「愛」の反対語は、「無関心」と言われますが、沖縄の人々が押し付けられている苦しみ・問題にわたしたちは無関心であってはならないのです。日本は、戦争をしない平和な国、憲法9条がある国だと言われても、沖縄の米軍基地では戦争の備えと訓練がなされ、戦闘機やオスプレイ等の軍用機の騒音と、どこにも持って行き用のない不安や怒りが沖縄を覆っています。

 使徒ペテロは、現在のトルコ北部地域に離散し、寄留しているクリスチャンたちに手紙を何度も送ります。なぜ彼等は「離散」し、「寄留」していたのか。それはイエス・キリストを救い主と信じる信仰ゆえに迫害を受け、苦しみを強いられていたからです。迫害する者たちの只中にあって、魂の戦いを強いられている兄弟姉妹たちを励ますためにペテロはこの手紙を記しました。しかし、彼自身もローマの獄中にあり、いつ命が断たれるか判らない状態にいました。それでも遠くに離れている主にある兄弟姉妹たちを愛し、覚えて祈り、励ましの手紙を書きました。神は、ペテロと同じようにわたしたちが生きることを願っているのではないでしょうか。

 確かにわたしたちにもそれぞれ苦しみや悩みや痛みがありますが、それでも遠くにいて苦しみを強いられている兄弟姉妹たちを覚えて祈ること、それが「互いに愛し合う」ということです。神に祈ることを通して、神はわたしたちが次に何を成すべきかを導いてくださると信じます。祈らなかったら、目の前に起こる出来事をすべて偶然とかたまたまに起こった事と捉えることしかできないでしょう。しかし、主なる神に祈り、お導きを求めるならば、すべては神の御旨、お取り計らいの中にあることと信じ、感謝して、主から確かな力を受けて何でもできます。

 さて、主なる神はわたしたちに何をせよとお命じになられるでしょうか。沖縄のため、隣人のため、教会のために何をなすべきでしょうか。それは「平和を求めて祈る」いうことです。

 沖縄には米軍基地があって、戦争の騒音を毎日聞かされ、不安の日々を送っておられます。わたしたちの周囲の人たち、また教会の兄弟姉妹たちも苦しみや葛藤が心の中にあるでしょう。すべての人に必要なのは、主の平和であり、心の平安です。キリスト教会の働きは、人々のために祈り、人々に仕え、社会にハーモニーをつくり出し、平和をつくり出してゆくことです。

 ペテロは迫害と苦しみの只中にあるクリスチャンたちに対して、まず教会の中で平和に過ごし、主にある調和を持つことを励まします。わたしたちが心に平安を得、調和を持ち、全体のバランスを保つために教会の中で何が重要であるかを8節で言っています。すなわち、「あなたがたは皆、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を持ち、憐れみ深くあり、謙虚でありなさい」と勧めています。わたしたちの心を一つにするためには、同情の心、兄弟愛、憐れみの心、そして謙虚さあ必要であるというのです。そのためには、イエス・キリストの愛が必要なのです。

 9節に「悪をもって悪に報いず、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのであ」とあります。様々な困難や誘惑もありますが、わたしたちが互いに祝福し合って、主の祝福を受け継いでゆくことが、神の御心であり、わたしたちの使命です。悪口は人を傷つけ、潰します。しかし、祝福の言葉は人を勇気づけ、建て上げます。教会を建て上げてゆく上でも、わたしたちが互いに祝福し合うことが大切であるとここから示されます。

 10節と11節に、「生命を愛する人」とはどのような人であるかが記されています。1)舌を制して悪いことを言わない愛の人、2)唇を制して嘘偽りを言わない誠実な人、3)悪を避けて神と人に喜ばれることを行う人、つまり神と人を愛する人が生命を愛する人なのです。