固執しないで生きる

「固執しないで生きる」 二月第二主日礼拝 宣教 2022年2月13日

 フィリピの信徒への手紙 2章6〜11節     牧師 河野信一郎

おはようございます。今朝も、神様のお招きの中で「礼拝者」とされていることを主に感謝いたします。まん延防止等重点措置が来月6日まで延長され、気持ちがうつむき加減になっている時に、神様の憐れみとご配慮の中、礼拝へと招かれていること、本当に感謝です。

ここ数週間は、全国的にも重症者の数とお亡くなりになられる方々の数が増加傾向ですのでとても心配です。昨日の執事会でも今後のことについて協議しましたが、やはり感染症専門医で、医療の現場に立つ方にお伺いするのがベストということで、教会員の兄弟にメールをし、アドバイスを求めましたら、お疲れのはずですのに、すぐに返信してくださいました。

抜粋します。「市中レベルでみるとピークは過ぎたように思いますが、入院患者レベルでみるとまだまだ。希望的観測を含めて2月いっぱいで感染者は減るのではないかと思うが、その減少スピードはなだらかかもしれません。そのような状況なので、まん延防止措置が3月6日に解除されるかどうかも現時点では分かりません。1週1週様子をみながら、礼拝堂での礼拝を再開すべきか検討すべきかと考えます。速やかに減少傾向であれば、解除後に礼拝堂での礼拝再開は可能と思いますが、減少がなだらかであれば少し待った方が良いかと思います。歯切れの悪い回答ですが、1週1週様子をみるしかないと考えます」ということでした。

しかし、大久保教会が幸いなのは、その後の兄弟の言葉です。「適宜、現場から情報共有いたします」という何とも頼もしい言葉です。神様がクリスチャンの医師を医療の現場にしっかり置いてくださることに感謝です。ですから、もうしばらく神様に祈りながら、み言葉に耳を傾けながら、委ねながら、主が礼拝堂へと招いてくださる日を楽しみに待ちましょう。

さて、宣教に入る前にもう一つアナウンスメントがあります。来月6日の主日は、「3.11を覚える礼拝」をささげる予定でしたが、「まん延防止措置」の最終日ですので、礼拝堂に集うことができなくなりました。昨日開かれました執事会において協議し、翌週13日の主日礼拝を「3.11を覚える礼拝」としてささげることにしました。わたしたちの教会は、東日本大震災の翌年2012年から、岩手県のM教会、宮城県のT教会、そして福島県のK教会を覚えて祈り、支援金を募り、「3.11を覚える礼拝」後にお送りしてきました。今年は、残念ながら、記念の日の後に覚えることになります。今後も東北の被災地に建てられている三つの教会を覚えて祈り、支援してゆきたいと願っていますが、皆さんが3月16日の礼拝に戻られる際は、東北支援金を携えて教会にお戻りいただきたく存じます。お祈りください。

さて、先週の宣教の中でもご案内いたしましたが、2021年度を締めくくる2月と3月、わたしの宣教テーマは「無駄と恵み」とさせていただき、それぞれの宣教で「無駄、無益、虚しさ、無」という言葉が出てくる聖書箇所からみ言葉の分かち合いをさせていただきますとお伝えしました。この宣教シリーズの中で、皆さんに心からお伝えしたいこと、それは神様から与えられている信仰、その信仰から出てくる祈り、礼拝、賛美、献金、奉仕・働きは決して無駄ではなく、また無駄にもならない、すべては神様からいただく恵みであるということ、また、わたしたちが過去に犯した間違いや痛みや苦しみにも神様は目をとめてくださって、それらをもプラスに変え、祝福して御用のために用いてくださるという「恵み」をみ言葉から共に聴き、神様からの励まし、慰め、希望の言葉を受け取ってゆきたいと願っています。

わたしたちは、この2年間、コロナパンデミックの苦境の中に置かれ、不安や恐れだけでなく、不自由さの中に生かされています。「もういい加減終わって欲しい!」と、みんなが心から願っています。とりわけ、医療従事者の方々は心身ともに疲弊され、今も医療現場は戦いの連続です。飲食業、観光業など様々な業種の方々の経済的疲弊は深刻なものがあります。

ここ半年の間に耳にして心が痛むのは、学費が払えないで大学を中退する若者たち、住宅ローンが払えないで念願のマイホームを手放す人たち、職を失って二進も三進も行かなくなった人たち、シングルマザー、シングルファザーの苦境がドキュメンタリー番組などを通して知らされるときです。心が締め付けられる思いになります。

しかし、わたしより、そのような逆行の中を通らされている方々が今も苦しみ悶え、悩み疲れておられるのだと思います。これまでの勉強や仕事や様々な頑張りよう、努力や大きな犠牲は一体何であったのか。コロナのせいで、すべてが台無しになってしまった。これからどうやって生きてゆけば良いのかと途方に暮れ、頭を抱えておられる方々に、わたしたち教会は一体何ができるのでしょうか。できることよりも、できないことの方がはるかに多いわけで、人間の無力さを感じます。

神様を信じ、教会に通っていたら苦しまない、悩まないという訳ではありません。イエス様を信じ、主につながっていても、わたしたちもまた同じように苦しむのです。ストレスをたくさん抱え込むのです。苦難や試練の中に置かれ、深い悲しみを味わうのです。しかし、イエス・キリストを救い主と信じ、主に従う人には「希望」があります。詩編34編20・21節に、「主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる」という約束があり、励ましと平安が与えられます。

さて、今朝の宣教の主題は、「固執しないで生きる」としました。しかし、このタイトルに固執するつもりはまったくなく、この「固執」という言葉を他の言葉に置き換えていただいても問題ありません。どうでしょうか。皆さんならば、この「固執しないで生きる」というタイトル、大まかな意味合いを残したまま、含んだままで、どのように変えられるでしょうか。「固執」という言葉の同義語、類語、どのようなものがあるでしょうか。

まず、「固執」という言葉の意味の確認ですが、「自分の考えを押し通す」、「他人の意見に耳を貸さずに、自分の意見を主張して譲ろうとしない。立場や態度を一切変えようとしない」が意味です。類語では、「執着、執拗、頓着」という言葉があります。また、固執する人の性格は、大抵「頑固、完璧主義、心配性」ということだそうです。周囲の意見を聞かない、受け付けない頑固さ、自分で決めたルールを何とか死守しようとする完璧主義、失敗を恐れるあまり新しいことにチャレンジすることをしない、できないで、今までのやり方や考えに固執してしまう。

わたしのことをご存知の方は、わたしが頑固で、完璧主義“もどき”であることはご存知と思います。妻は、食品で新製品が出ると、例えば新しい味のお菓子が販売されるとすぐに買ってきて、わたしにも食べさせようとしますが、わたしは昔ながらのオリジナルの味を好みます。わたしは三重県四日市出身ですが、四日市の名物といえば「トンテキ」という美味しい豚肉ステーキの食べ物がありますが、近畿地方で販売している「コーミソース」というソースで作るものがベストで、それ以外のソースで作るトンテキに妥協できない人間です。

たぶん、皆さんにもお寿司ならここ、あんみつならあそこ、ケーキなら絶対ここ、お醤油やお味噌ならどこそこの老舗、という「こだわり」があるのではないでしょうか。「固執」の「執」には、「掴んで離さない」、「こだわる」とういう意味があるそうです。他には、「囚われる、しがみつく、握りしめる」ということも、意味合いとしてあるかと思います。では、わたしたちはなぜそこまでこだわるのでしょうか。何のためにこだわるのでしょうか。それはすべて自分のため、自分のプライド、自分の喜び、自分の心を満たすためではないでしょうか。

ちょっと余談になりますが、旧約聖書のゼカリヤ書8章23節(p1488)にこういう言葉があります。「万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ』」とありまして、この「裾をつかむ」という言葉と今回の「固執する」という言葉はヘブル語では同じ言葉になっています。裾をつかんで離さないのです。わたしたちは過去に、誰かから裾や服をつかまれて、あなたと一緒に教会に行ってみたい。わたしは神様があなたと共におられると聞いたから」と言われたことがあるでしょうか。もしなかったとしても、これからが大切です。わたしたちにも同じことが起こるように、日々の生活の中で、神様の愛をさりげなく分かち合い、イエス様を証しして行きましょう。

さて、もう一つ触れておきたいことがあります。わたしたちには苦悩することがたくさんあります。怒ること、フラストレーション・ストレスが溜まることもたくさんあります。しかし、その原因は、すべて外側から迫って来るものだけではなく、わたしたちの内側にあるものが原因となっているということもあるのではないでしょうか。すべてがコロナのせいだけではないと思われます。つまり、わたしたちの心の中にある思い、あるいは頭の中にある考え、価値観、「こうでなければならない」という固執していること、古い伝統や風習にがんじがらめになって、苦しんでいることもあるのではないでしょうか。

わたしたちには大事にすべきものと、そうでないものがあると思います。こだわるべきものと、こだわらなくて良いものがあると思います。重要でなく、こだわらなくて良いものにわたしたちは固執しすぎて、それらをひたすら固持しようと頑張りすぎて、苦しんだり、悩んだり、ストレスを抱えて、心も体も信仰も疲弊しているのではないでしょうか。だから、最も大切なイエス様を見失って苦しむのではないでしょうか。わたしたちは、すべての「こだわり」を捨て、握りしめているものを手放し、もっと自由にされ、喜びと感謝と平安の中で生きるべきでないでしょうか。それがイエス様からの今朝の招きであり、聖書にある神様の御心であると思います。

今朝ご一緒に聴きたい箇所は、フィリピの信徒への手紙2章6節から11節です。わたしたちを固執すること・こだわりから解放してくださるために、神の御子イエス・キリストが何をなしてくださったかが明確に記されています。6節から8節を読みます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。

イエス様は神であられながら、神と等しい者であるに固執しようとは思わず、かえって自分を無にされたのです。つまり、自分勝手のこだわりや変なことに固執しているがゆえに苦しみ悩むわたしたちをそこから解放し、真の自由を与えるために、イエス様は神としての身分を捨てられたのです。ご自分が神であることに「こだわり」を持たれなかったのではありません。譲歩したのでも、妥協したのでも、無頓着になられたのでも決してありません。わたしたちを愛するがゆえに、「こだわり」や「固執する思い」を生み出す「罪」からわたしたちを救い出すために、神としてのご自分の身分を捨てること、手放すことを選ばれたのです。

自分勝手な「固執、こだわり、執着心」が生み出すのは無駄なことばかりです。わたしたちは神様からいただいている命、時間、能力、その他の素晴らしい恵みを自分のこだわりのため、自分の喜びのためだけに使ってはいないでしょうか。その恵みはわたしたちへの祝福であるのに、使い方を間違えて、自分の首を締め付け、悩ませ、苦しませ、最後には自らの命を取る道具にしてはいないでしょうか。その取り扱いの間違いを聖書は「罪」と呼ぶのです。

わたしたちの罪を贖い、わたしたちをきよめ、救い、神の宝、神の子として生かすために神としての身分を捨てられ、この地上においては僕の身分を取り、へりくだって生きられ、十字架の上でその命を捨ててくださいました。ここに主イエス様の愛、神様の愛があるのです。わたしたちはそれほどまでに神様に愛されています。救いの御手が差し伸べられています。わたしたちは無駄な存在ではなく、無益でもなく、神様の目に高価で尊い存在であるのです。

わたしたちに大切なことは何か。それは神様の愛を素直に受け取ることではないでしょうか。もしこだわるなら、イエス様が命に代えてまでも与えてくださった新しい命に生きること、いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝して生きることを主イエス様のように、信仰を持って選びましょう。それが従順に生きること、恵みの命を全うすることではないでしょうか。

9節、従順であられたイエス様を神様はどのように扱われたのか。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とあります。神様に従順に生きるならば、神様がわたしたちをこだわりのない世界へ、御国へと引き上げてくださいます。それが、恵みの約束です。

わたしたちに大切なことが11節にあります。それはこの地上で生かされている間、主の愛と恵みを数えながら、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父なる神様をほめたたえることです。礼拝と証しを大切にして共に歩んでまいりましょう。