「引き渡されたイエス」 三月第四主日礼拝 宣教 2024年3月24日
ヨハネによる福音書 13章21節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝は様々なご事情で礼拝に集えない方々が多い日曜日となりましたが、ここにおられる皆さんのお顔を拝見することができ、何よりも賛美と礼拝をご一緒におささげできる幸いを神様に感謝いたします。オンラインで礼拝をささげておられる方々も大歓迎です。とても嬉しいです。今この時、病にある方々の速やかな回復をお祈りし、旅先にある方々の歩みが守られ、祝されますように、またお互いのために祈り合いましょう。それが互いに愛し合うことであり、キリストの教会を建て上げる大きな力になります。
本日は、礼拝後に定期総会があります。そして17時からは夕礼拝がささげられます。いつもより過密なスケジュールですので、愛と忍耐と祈りが必要になるかと思います。どうぞお祈りください。総会では、昨年の4月から今月までの教会の歩みを振り返り、そして2週間後から始まります2024年度の計画を話し合います。2023年度の歩みは、教会においても、私個人においても、また皆さんにおいてもチャレンジの多い歩みになると当初感じましたので、神様と隣人と教会に仕えるために神様の愛を身に着けて歩むことを大切にしました。
確かに、わたしにとって霊的な戦いが多い一年でした。一難去ってまた一難というチャレンジの多い一年ではありましたが、振り返ってみますと、神様の愛と恵みを体験し、感動することが多い一年でもありました。つまり、これからのわたしの歩みのためにも訓練の一年であったと思います。まだそのプロセスの中にありますが、恵みの一年でした。4月から始まる新年度は、どのような歩みになりますでしょうか。15・6年ぶりに複数の牧師による牧会から一人の牧師による牧会となります。焦っても仕方ありません。主の言葉に聴きながら、祈りながら、委ねながら、そして大いに期待しながら、皆さんと共にじっくりと歩んで行けたら幸いに思います。しかし、その前に総会です。神様からいただいた数多くの恵みを共に数えながら、新年度について教会の皆さんと相談して行きたいと願っています。
さて、今朝は、「棕梠の日礼拝」としてささげていますが、皆さんが今まで見たこともない装飾が講壇の周りにされていて驚かれたかと思います。これは「なつめやしの枝」の飾りです。本物ではありませんが、雰囲気を感じられると思います。スクリーンに甲山さんがお元気な時に描かれたイエス様のエルサレムご入場の絵を投影しています。少し見えにくいかもしれませんが、ろばの子に乗って入城するイエス様を迎えている人々が手にしている緑の枝が「なつめやしの枝」です。礼拝への招きの言葉として読みましたヨハネ福音書12章12節と13節に、「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た」とあります。階段の所では、教会の子どもたちが描いたポスターをご覧になられたかと思います。緑の元気そうな「なつめやしの枝」がたくさん描かれています。礼拝の後、お帰りの際にでもぜひご覧いただきたいと思います。
さて、2024年の受難週が今日から金曜日、そして土曜日まで続きます。わたしたちの罪を取り除くために十字架へと進んで行かれるイエス様を信仰の目で追い、イエス様の言葉と人々の言葉を信仰の耳で聴き、イエス様の愛と忍耐を心で感じる日々とさせていただきたいと願い、そして祈ります。今朝は、「引き渡されたイエス」と題してメッセージをさせていただこうと準備してきましたが、皆さんに質問です。イエス様の受難週は、エルサレム入城から始まったというようにわたしたちは受け止めていますが、イエス様の受難はどの時点から実際に始まったと理解されているでしょうか。イエス様のエルサレム入城は、ヨハネによる福音書では12章12節から始まっています。しかし、イエス様が実際に苦しみを受けられることが始まる転換期・ターニングポイントはどこでしょうか。それは18章になります。
イエス様がゲッセマネの園で神様との会話、祈りを終えられた後のことですが、弟子の一人であったイスカリオテのユダがローマの兵士たちと祭司長たちの下で働く者たちを従えてイエス様を捕らえに来ます。18章4節から5節には、「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『誰を捜しているのか』と言われた。彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『わたしである』と言われた、イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた」とあります。この時点までは、イエス様はとても積極的に語り、弟子たちや人々に教え、至る所へ出かけて行って神様の愛、神様が待っておられる国について、福音を語り続けて来ました。イエス様はとてもアクティブだったのです。しかし、ユダの裏切りと逮捕によって、イエス様はアクティブからパッシィブへ、積極的なイエス様から受動的なイエス様に、完全に受け身へと転じてゆかれるのです。そのきっかけとなったのが他でもない、ユダの裏切りなのです。そしてそのユダの裏切りが予告されたのが、今朝のメッセージの箇所として選びました12章21節なのです。
21節に、「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」とあります。「イエスがこう話し終えると」とは、愛する弟子たちと過越祭の食事、最後の晩餐をし、弟子たちの足を洗われたイエス様が「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と教えられ、御自分をこの世に遣わされた父なる神にイエス様が従ったように、弟子たちを遣わすイエス様に従いなさいという話が終わるという意味です。そのすぐ後に、イエス様は「心を騒がせ、『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」と断言されるのです。
ここに心を騒がせるイエス様がおられます。しかし、これはこれから受ける苦しみに動揺して混乱しているという意味ではありません。「神の霊によって心が、精神が高まった」という意味です。いよいよ苦しみを受ける時が来たと「霊的に気持ちを集中していった」と捉えるのが良いと思います。ですので、ここでイエス様が断言されるその内容が重要であるということになります。イエス様は何とおっしゃったでしょうか。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と衝撃的な言葉をイエス様は発せられました。このイエス様の言葉に動揺した弟子たちは「誰がイエス様を裏切るのだろう」と犯人探しをすぐさま始めます。わたしたちも、自分以外の人を見渡します。しかし、本当に見なければいけないのは、自分自身ではないかとも思わされるのです。
この「裏切る」という言葉に過剰に反応するのが、わたしたちです。なぜ過剰反応をするのか。それは、過去に誰かに裏切られた経験があるからか、自分が誰かを裏切ったという経験があるから、その傷が今でも疼いてしまうからでしょう。もし、今この時に、現在進行形で誰かから裏切られていたり、誰かを裏切っていたら、もっと心は痛むことでしょう。
しかし、ここでイエス様が「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われる「裏切り」というギリシャ語の動詞を詳しく調べてみると、「引き渡す」とか、「手渡す」といった意味があり、「あなたがたのうちの一人がわたしを引き渡そうとしている」、「引き渡すであろう」と訳すほうが良いようです。そしてこの言葉は、ユダのしたことを表しているだけでなく、神様がなさったことを表している重要な言葉であるのです。
ローマの信徒への手紙8章23節で、使徒パウロは、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と書き送っていますが、ここでパウロは、「わたしたちを罪の縄目から解放し、永遠の命を与えて神の子とするために、神様はその独り子さえ惜しまずに、イエス様を死に渡された」と言っているのです。つまり、ユダの裏切りという行為は、神様の御心を行うものであり、ユダは神様の救いの御業の道具として用いられたと理解すべきなのです。そのような用いられ方などしたくないとわたしたちの誰もが思うでしょう。しかし、そのような用いられ方を避けたいのであれば、イエス様を信じ続け、イエス様に従い続けるしか方法はないのです。主イエス様の御言葉と復活の力によってサタンが付け入る心の隙間を作らないように十字架のイエス様と復活のイエス様に集中する必要があるのです。
さて、この「引き渡された」ことがイエス様の宣教の転換期です。3年にわたって積極的に人々に出会っていかれたイエス様。群衆と弟子たちに教え、病に苦しんでいる人たちを癒し、数々の奇跡の業を行ってきたイエス様の宣教は、この「引き渡されたこと」をきっかけに受け身に転じます。イエス様をどうしても殺したいと憎しみを抱いていた敵たちの手に渡されたイエス様は、暴力を振られ、鞭打たれ、つばを吐きかけられ、あざけられ、衣服をはぎ取られ、いばらの冠をかぶせられ、十字架に釘付けにされ、十字架上で6時間も苦しまれました。人々は弱々しいイエス様を愚弄しました。しかし、イエス様は無抵抗を貫かれます。贖いの供物・子羊のように黙ったままです。
なぜイエス様は無言のままに十字架の大きな苦しみ、耐え難い苦しみを負われたのでしょうか。その理由は神様への愛とわたしたちへの愛が関係します。イエス様は、この十字架の道が神様の御心であり、わたしたちを救う唯一の方法であることを知っておられたからです。それほどまでに、御子イエス様は父なる神様を愛し、弱さばかりのわたしたちを愛し抜いてくださったのです。イエス様は、最後の最後まで神様に忠実に仕え、十字架上でわたしたちに命を与えてくださった。そこにイエス様の愛が表れているのです。
この十字架以外に、神様の愛とイエス様の愛を知ることのできる方法はありません。この受難週を今日から過ごしてゆく中で、イエス様が引き渡されたのは、わたしたちの救いのためであったということを覚え、罪を悔い改めて、イエス様の贖いの業、救いの御業を自分の事として捉えて、感謝のうちに歩ませていただきましょう。