空しさの中にも神の御心がある

「空しさの中にも神の御心がある」 八月第一主日礼拝 宣教 2023年8月6日

 コヘレトの言葉 1章13〜15節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。8月最初の主の日の朝です。この日曜日の朝に、礼拝堂に共に集って、神様に賛美と礼拝をおささげすることができて本当に感謝です。毎日暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。今朝も教会にお帰りくださり、ありがとうございます。また、オンラインで礼拝をおささげくださっている皆さんもご一緒に礼拝ができて感謝です。

 

今朝、皆さんの前にわたしがこのように立たされていることは、皆さんの力強い祈りの結果、神様に皆さんの祈りが聞かれたという証明です。皆さんのお祈り、心からありがとうございました。ユースサマーキャンプが祝福されてゆく背後に、皆さんの祈りが絶え間なくあることを三日間、強く感じました。東京と西関東の二つの連合にある14の教会から、小学5年生から大学2年生までの年代のユース24名と10名のスタッフが山中湖に一同に集い、素晴らしい出会い、豊かな交わり、そして貴重な聖書の学びの時が与えられました。

 

集合写真を見ていただこうと思いまして一枚スライドにしました。参加者のプライバシー保護のため、オンラインの皆さんにはお見せできないのが残念ですが、どうでしょうか、素敵な写真でしょう。二日目の朝9時に山中湖の湖畔で撮影しました。夏は、朝のうちは雲がかからずに綺麗な富士山を見られるそうですが、時間が経つにつれ、雲で覆われるそうです。次の日の同じ時間帯はもう雲で覆われていたので、ベストな時に撮影ができました。参加者たちの中には、最後の日の朝には、「嫌だ、帰りたくない!」、「初日に戻りたい!」、「来年も絶対来る!」という言葉を連発する子たちばかりで、本当に感動的で、主に感謝でした。

 

参加者が小学5年生から大学2年生までの10学年と耳にして驚かれる方もおられると思いますが、今回のキャンプ開催の責任を委ねられたわたしの唯一のこだわりでした。この年齢層で開催することに関しては、絶対に妥協できない部分でした。小5から大2という年齢幅は、小羊会、少年少女会、青年会をカバーします。連盟のこれまでのやり方は、小学生は全国小羊大会、中高生は全国少年少女大会、大学生は全国青年大会という三つのグループに分けられて開催され、つながり・絆があまり強調されず、ありませんでした。

 

小羊会の子どもたちは、中学生になると部活などで教会に来なくなり、その次のステップに踏み出せず、小羊会はそこで途切れてしまいます。少年少女会の中高生は、学業や大学進学準備で忙しくなり、教会からさらに遠のきます。青年会の大学生たちは、サークルやアルバイト、また就職活動が忙しくて教会にさらに近寄らなくなります。しかし、教会に中高生がいると小学生はお兄ちゃん・お姉ちゃんを慕ってつながる確率が高いです。同じように、教会に大学生がいると高校生たちは教会が楽しくなってつながり続けます。

 

案の定、今回のキャンプでは、小学生は大学生をお兄ちゃん、お姉ちゃんと慕い、大学生は小学生たちを幼い弟や妹のように可愛がりました。そういう様子を中高生が見て、同じように小学生たちに接するのです。今回のキャンプに関する参加者へのアンケートで、10学年が一堂に会して共に時間を過ごすことができたことに新鮮さを感じ、刺激を大いに受けた、とても楽しかったという嬉しい応答が多数あり、とても感謝でした。

 

今回のキャンプでは、とても純真で、神様を愛し、人を愛する素敵な若いスタッフがたくさん備えられ、高校生と大学生の中から分団リーダーやスタッフになりたいと言ってくれる人たちが出てきました。神様の愛と備え、皆さんの熱心な祈りとサポートによって、キャンプは大いに祝されました。来年も絶対に会えるとみんな確信しているかのように、「また来年ね!」と言い合って別れていましたが、さて来年はどうなるでしょう。主の御心を求める必要があると思います。少し休ませてもらって、スタッフと一緒に祈ってみたいと思います。

 

大きな喜びで満たされてみんな山中湖を後にしましたが、サタンは一瞬の隙も見せることなく、帰り道でわたしたちの喜びを奪いに来ました。東京組の多くは高速バスを利用し、キャンプ地の往来をしたのですが、帰路で、府中のあたりで大きな衝突事故が起こり、八王子ジャンクション付近を走っていたわたしたちは約2時間半、バスの中に缶詰状態になりました。12時半に山中湖を出発し、3時半に新宿駅到着の予定でしたが、到着したのは6時半でした。わたしは疲れもあって最初は大いに嘆きました。しかし、4人の怪我人が出ている大事故をサタンは利用してわたしから喜びを奪おうとしているとすぐに気付き、車内で礼拝の準備を始めました。ユースたちはどうであったかというと、最初は爆睡していましたが、起きてバスがまったく動いていないと気付くと、みんなとまだ一緒にいれると喜んで、トランプ大会が始まりました。まとめて座席を取っていたので助かりましたが、7人でトランプをして遊び、サタンは彼らからキャンプの喜びを奪い去ることはできませんでした。そして彼らは家に帰って、家族にキャンプで受けた喜びをずっと話し続けたそうです。主に感謝!

 

さて、今週木曜日から土曜日まで、全国青年大会が福岡で開催され、A姉が実行委員の一人として福岡へ旅行します。台風の影響が心配ですが、大会が守られ、多くの新しい出会いが与えられ、祝福された時間を過ごせますようにお祈りいただければ幸いです。青少年の救いと信仰の成長のために祝福を祈り続け、できる限りのサポートを共にして参りましょう。

 

さて、今朝からコヘレトの言葉を12回のシリーズで聴いてゆきます。主題に何か良いネーミングがないか考えましたが、「今を生きる」ということにしました。取り戻せない過去に囚われすぎて、今なすべきことを放棄、おろそかにすることなく、またこれからどうなるか分からない未来に希望を抱きすぎて、今の生活をなおざりにしないで、今日を主の御前で精一杯生きる、それが神様の御心であることをご一緒に聴いて行きたいと願っています。今朝は第1章に記されている部分からわたしたち大久保教会に連なる者たちにとって、大切だと思うことをいくつかピックアップして、聴いてゆきますが、毎回、1章ずつ聴いてゆきます。今朝は第1章ですが、来主日は第2章となりますので、それまでに2章を読んでいただきたいと願います。そうすることで予習にもなりますし、祈るチャンスにもなります。

 

さて、コヘレトの言葉の第1章ですが、2節でこの人はこう言うのです。「コヘレトは言う。 なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。」と。コヘレトとはどういう意味であったでしょうか。「共同体を集める者」と言う意味があります。ですから、この言葉はただの独り言ではなく、イスラエルの民たちを一堂に集めて言っているのだと理解する必要があります。つまり、イスラエルの民に対して、「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」と言っているのです。今朝は、この大久保教会の礼拝に出席しているわたしたちに対して、「すべては空しい」と言っているのです。また、3節では、「太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう」と言います。では、この知恵と知識と影響力のある人がいう「すべて」とはいったい何を指して言っているのでしょうか。

 

4節から11節までには、自然界を見渡しても、すべては空しいと言っています。何故か。それは自然界は返り栄えのない実に単調なことの繰り返しであるからと言うのです。4節から7節に「4一代過ぎればまた一代が起こり 永遠に耐えるのは大地。5日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。6風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き 風はただ巡りつつ、吹き続ける。7川はみな海に注ぐが海は満ちることなく どの川も、繰り返しその道程を流れる。」とあり、自然界はすべて単調なことの繰り返しと言っています。9節と10節、「9かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こる。 太陽の下、新しいものは何ひとつない。10見よ、これこそ新しい、と言ってみても それもまた、永遠の昔からあり この時代の前にもあった」とあります。

 

コヘレトが自然界を見渡した後、声を大にして叫んでいるのは11節です。「昔のことに心を留めるものはない。 これから先にあることも その後の世にはだれも心に留めはしまい」と。どう言うことかと言いますと、自然界から見ると、過去も、未来も何も変わらない。同じことがただ短調に繰り返され、ゆったりとした時間が流れ、そのようなサイクルの中にわたしたち人間は生きているのだから、自然界の中でほんの一瞬だけ生きる人間が一瞬で過ぎ去る小さな事柄、過去のことであったり、まだ来ていない未来のことに支配されて一喜一憂したり、右往左往するのは儚いことだと言っているようです。

 

だからと言って、今わたしたちが生きていることに意味がないのかというと、そんなことはありません。その自然を創造し、人から見れば短調のように見える自然のサイクルを支配されているのは創造主なる神であり、その自然の中で自分も神に造られ、生かされていると捉えて生きるならば、大きな感動と喜びを受けること、その喜びと感謝を持って神をほめたたえることができるのではないでしょうか。わたしたちは愛の神様に生かされているのです。

 

今朝、皆さんとご一緒に注目したいのは、13節から15節なのですが、コヘレトは民衆に向かってこのように言います。「13天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。14わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。15ゆがみは直らず 欠けていれば、数えられない」とあります。

 

皆さんはこの部分をお読みになって、どこが心に引っかかるでしょうか。わたしの心に迫って来たのは、13節後半の「神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ」という言葉です。この言葉は、「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた」者、コヘレトが自然を通して学んだことを通して最初にたどり着いた結論です。人生は辛いことばかり、空しさを感じることばかり、儚さを感じることばかり。神以外にこのような悲惨な状況を人に負わせることなどできないのではないか。祝福してくれるならば喜ぶが、悩みばかりが多くて、神と自分の運命を恨むことしかできないと言いたげな様です。

 

さてはて、本当に神は人々に、わたしたちに辛いことを日々の務めとして負わせているのでしょうか。本当にそうでしょうか。もしかしたら、知恵と知識に富むわたしたちが都合の悪いことだけを神様の責任にして、良いことは自分たちの力で得たかのように振る舞っているだけなのではないでしょうか。辛いことを作り出し、それを負わせているのは、わたしたち人間の浅はかな知恵と知識ではないでしょうか。わたしたちの知恵と知識が「神・偶像」となって、自分たちに迷いや不安を与え、プレッシャーをかけているのではないでしょうか。

 

コヘレトは17節で「熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎない」と言っています。人が得た知恵と知識は神様から祝福されて与えられているものばかりですが、それを自分で得たかのように振る舞うと、それは完全に偶像化してしまっていると考えられます。ですので、13節の「神」という言葉は、創造主なる神、真実な神様のことではなく、わたしたちが作り出した偶像であると捉える必要があり、偶像化されたものだけがわたしたちを辛いことを押し付けると考えることが大切であると思います。

 

わたしたち神に造られ、生かされている者たちが常に心に留めるべきことが15節だと導かれました。すなわち、「ゆがみは直らず 欠けていれば、数えられない」とあります。第一に「ゆがみは直らず」とは、神様によって定められたご計画を人間はどうすることもできない、それゆえに神様にすべてを委ねつつ生きなさいと云うこと。第二に「欠けていれば、数えられない」とは、わたしたちの欠けを補い、満たされない心を恵みで満たしてくださるのは、いつも真実な神、全能なる神であるということです。この真実な神の存在を信じ、主を日々近くに感じ、その愛の中で生きなさいと招かれていることを覚えたいと思います。風を追うような無駄な努力は一切やめ、空しさの中にも神が共におられる事を喜びましょう。