教会は神の家族

「教会は神の家族」  八月第五主日礼拝  宣教要旨  2014年8月31日

エペソ人への手紙2章19〜22節      牧師 河野信一郎

 「そこで・こういう訳で」と19節にありますが、これは使徒パウロが11節から18節までにエペソのクリスチャンたちに語った、彼等が記憶しておくべき真実です。彼等を含むすべての異邦人は神から遠い・無縁の存在であったけれども、救い主イエス・キリストが十字架上で流された血潮とささげてくださった命によって罪贖われ、今では神に近い者とされている、であるから、「キリストはわたしたちの平和」なのだとパウロはここではっきりと宣言しています。

 主イエスの十字架には、ユダヤ人と異邦人を一つのクリスチャンにする力があります。十字架には、わたしたち罪人を聖なる神と和解させる力があります。十字架には、全世界にはびこる憎しみ・敵意を滅ぼす力があります。この主イエスと御力を信じて生かされてゆきましょう。

 「十字架の言は、救いに与るわたしたちには神の力である」と第一コリント1章18節にありますが、主イエスの十字架と復活はわたしたちを生かす福音であり、恵み豊かな力です。この主イエスの福音を地の果てまで宣べ伝えるためにキリスト者は救われ、みな教会に召され、神の霊である聖霊によって一つの教会とされ、祈りによって教会から世界へと遣わされています。

 「そういう訳だから、あなたがたは天国に籍を持つ者であり、神の家族なのです」と使徒パウロは言っています。異邦人や寄留者には特権も責任もありません。しかし、キリスト者には神の民、神の家族の一員としての特権、恩恵、また責任が与えられています。「責任」という言葉に敏感になる方もおられるかもしれませんが、この責任ということを考える前に「神の家族」というのはどういう人たちで構成されるのかを知る必要があると思います。主イエスはマルコ福音書3章35節で「神の御心を行う者は、だれでもわたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」と大切なことを言っておられます。神の家族の一員とは、「神の御心を行う者である」。つまり、神の家族の各自の責任は、その日の歩みの中で、神の御心に従って生きる、御心を行うということです。日曜日だけではなく、毎日です。気分の向いた時とか、都合の良い時だけでなく、いつも御心を求めて生きてゆく、それが御心を行うことにつながってゆくのです。けれども、「自分に対する神の御心が分からない」という方は、まずお祈りして、そして心開いてエペソ書4章から6章を読んでみるのが良いでしょう。そこに神の御心が記されています。

 され、それでは神の家族・教会として主から委ねられている責任は何でしょうか? それは、わたしたちが一つとされ、一致して「キリストのからだ」なる教会を建て上げてゆくことです。「あなたがたは使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられた」と20節にありますが、十字架に架けられて死なれ、3日目に甦られたキリスト・イエスに出会った使徒や弟子たちの祈りと献身的な働き、犠牲の上に建っているということです。大久保教会も数えきれない程のクリスチャンたちの祈りと愛と犠牲と働きの上に49年間建てられ続けていることを忘れないで、謙遜になって教会を建て上げましょう。教会が一致するためには各自の「遜り」が必要です。

 キリストが教会の「隅の頭石」であるとは、主イエスの犠牲の上にしか教会は建てられないし、完成しないということです。神の御心は、このイエス・キリストにあって、キリスト者たちがキリストのからだとして組み合わされ、聖なる神の宮として成長し、聖霊の住まいとなることだと云っています。この神の御心を行う者たちが神の家族であり、永遠の命と神の愛を受けて生きる祝された人です。わたしたちの心をみ言と祈りによって一つに合わせ、共に主に礼拝をささげて神の栄光をあらわし、人々にキリストの福音を伝えて神の家族へ招きましょう。